ミア、黒曜石を警戒する(1/1)
ミアが夜鷹の屋敷から戻ってきたのは、夕食時のことだった。
ミアは周囲を警戒しながらボードマン家に近づいていく。門扉、庭、正面玄関、と移動しながら、視線を油断なく辺りに向けていた。
「ミア様、いかがなさいましたか?」
女主人の落ち着かない様子に、玄関で出迎えてくれた使用人が首を傾げる。ミアは「何でもないわ」と返した。
(黒曜石の気配はなし、と……)
一流の暗殺者なら気配を消すなどお手の物だが、プロフェッショナルという点ではミアも同じだ。不審者が屋敷に潜伏していたら見つける自信があった。
ミアが黒曜石を警戒していたのは、ボードマン家の庭で彼のローブと仮面が見つかったせいだった。
ミアと黒曜石が居酒屋『チャビー・ベアー』で戦ったのは今朝のこと。しかし、ヴィクターとの約束を守るためにミアは戦闘を放棄した。黒曜石もなぜか分からないけれど、追ってはこなかった……とミアは思っていた。
だが、本当は違ったのだろう。彼はミアと戦うのを諦めるふりをして、こっそり彼女のあとをつけていたに違いない。そうしてミアの居所をつかんだのだ。
となれば、こちらの正体ももう知っていると考えるのが妥当だろう。当然、彼が所属している『キャスケット』にも情報が伝わっているはずだ。
その場合、小夜啼鳥を狩る手っ取り早い方法は待ち伏せとなってくる。
(……と思っていたけど、そんなことはなかったみたいね)
屋敷に不審者の気配がないことに、ミアは拍子抜けしていた。これは一体どういうことだろうか。
(もしかして黒曜石は毒の影響で満足に動けなくて、襲撃を諦めたとか?)
あり得る話だ。体が万全の状態ではないのに小夜啼鳥に挑むなんて、無謀もいいところである。
(『キャスケット』には、黒曜石ほど腕の立つ暗殺者は、ほかにいないのかもしれないわね。だから別の人員を送り込んでくることもなかった……)
組織としても、構成員を犬死させるわけにはいかなかったのだろう。
人質を取ってミアを無力化するという手もあっただろうが、情報屋によれば『キャスケット』は正義を信念としている集団らしい。そんな組織が無関係な人間に手を出すとは思えなかった。
(だったら、ボードマン家の人たちは安全ね。それに、少なくとも黒曜石の体から毒が抜けきるまでは、私の身に危険が及ぶこともないはず。つまり、私は永遠に黒曜石の脅威から逃れられた、ってことだわ)
ミアは口角を上げた。なにせ、彼が食らったのは小夜啼鳥の毒である。簡単に解毒できるわけがない。彼の命はもうすぐ尽きる運命なのだ。
(……そういえば、ヴィクターさんはどうなったのかしら?)
ボードマン家の人たちの身の安全について考えていたミアは、ふと夫のことを思い出した。ミアが出かける前、彼は具合が悪そうにしていたのだ。
ミアは手近にいた使用人に質問する。
「ねえ、ヴィクターさんはもう平気?」
「それが、ずっとお部屋にこもりきりで……」
使用人が眉を曇らせた。まさか、まだ体調が悪いのだろうか、とミアは心配になる。
「私、様子を見てくるわ」
人任せにしておけなくて、ミアは自分から西棟を訪れることにした。前回同様に絨毯の赤い部分だけを踏むように注意しながら、ヴィクターの私室まで向かい、ドアをノックする。
返事があったのは、ミアがもう一度ノックしたほうがいいのではないかと思い始めた時のことだった。
「ああ……ミアさんか」
ドアの隙間から顔を覗かせたヴィクターの顔色がかなり悪かったものだから、ミアは一気に不安になった。「大丈夫?」と尋ねる声に憂いの影が落ちる。
「まだ具合が悪いのね。医者に診てもらうほうが……ヴィクターさん!」
ヴィクターが床に崩れ落ちる寸前でミアが彼の体を受け止めた。昼間は氷のように冷たかった体が、今は高熱を発している。
「誰か! 早く医者を呼んできて! このままじゃヴィクターさんが……!」
ミアが叫ぶと、使用人が駆け寄ってきた。事情を説明すると、使用人は慌てて屋敷を飛び出していく。
ミアはヴィクターをベッドに寝かせ、医師の到着を今か今かと待ちわびた。待ち人が来たのは、それから十分ほどがたったあとのことだった。
「おそらく、毒の影響でしょう。誤って摂取したのでしょうな」
ヴィクターを診察した結果、医師はそう結論づけた。ミアは寝床で苦しむヴィクターを見ながら医師に詰め寄る。
「それじゃあ、早く解毒薬を作ってください!」
「それが、そういうわけにもいきません。どうやらこれは既存の毒物ではないようです。毒の成分を解析すれば解毒薬は作れるでしょうが、その頃には患者さんはもう……」
医師は言いにくそうに言葉を切る。
「今我々にできるのは祈ることだけです。運がよければ、毒が体外に自然に排出されていくでしょうから」
当てにならないことを言って、医師はそそくさと帰っていく。ミアは医師が出ていったあとの扉に向かって悪態をついた。
「なによ! 医者のくせに頼りにならないんだから! ……もういいわ。私が何とかしてやる。こっちはあなたなんかよりずっと毒に詳しいのよ!」
ミアはヴィクターの傍らにかがみ込む。すでに意識はなく、ぐったりとしていて顔には生気がない。
ミアはヴィクターの症状を丹念に調べた。そして、ある衝撃的な結論を出す。
(これ……私が昼間、黒曜石に使った毒じゃない!)
どうしてヴィクターの体が黒曜石に使用したのと同じ毒に冒されているのか。しばらく考えた末、ミアは「まさか……」と口に手を当てる。
(きっと、あの時の毒が私の手についていて、それがヴィクターさんのサラダに何かの加減で入っちゃったのね!)
もしかしたらミアが食べた料理の中にも毒が入ってしまったのかもしれないが、彼女は自分が使う毒には耐性があるのだ。だから何ともなかったに違いない。
自分のせいでヴィクターが苦しんでいると分かり、ミアは打ちのめされる。よたよたと後ずさって、壁に手をついた。
けれど、すぐにショックを受けているばかりではいけないと気を持ち直した。だてに仕事の度に死線をくぐっているわけではないのだ。命を守るためにはどう行動すればいいのか考える癖がミアにはついていた。
(ヴィクターさんを助けられるのは私しかいないわ。早く解毒薬を作らないと!)
夫を救う薬の材料を求めて、ミアは東棟の自室へと慌ただしく駆けていった。





