仮面夫婦のお料理教室(1/1)
ミアは人のいない裏路地に入って爆速で変装を解いていく。脱いだものをドレスの中にしまい込み、通りを疾走した。
屋敷へ帰ると衣装を自室に放り込み、再び家の中を駆ける。中央棟の食堂に着いた時には、さすがのミアも息が切れていた。
「ぜえ……ぜえ……。……待たせてごめんなさい、ヴィクターさん」
「はあ……はあ……。……いや、僕も今来たところだ」
食堂ではすでにヴィクターが待機していた。なぜか彼もミアと同じように汗だくで息を弾ませている。
「ちょっと出かけていたら、珍しいものを見つけてしまって」
「奇遇だね。僕もだよ」
ミアは適当に言い訳をしたが、ヴィクターは少々大げさすぎる身振りで首を縦に振って、妻に同調した。そして、話題を変えるようにエプロンを差し出してくる。
「じゃあ、約束どおり料理を教えるね」
「ええ、お願い」
ミアは乱れた呼吸を急いで整えて、エプロンを身につけた。
「何を作るの? ミートパイ? ロールキャベツ? 甘いものもいいわね。お砂糖もたっぷりあるし」
ミアは棚から白い粉が入った瓶を取り出そうとしたが、ヴィクターがその手をそっとつかんだ。
「ミアさん、それは重曹だ」
「あら、本当だわ。でも、重曹って口に入れても平気よね?」
「まあ、食べられないことはないけど……砂糖の代わりにはならないだろうね」
「それもそうかしら。じゃあ、あらためてお砂糖を……」
「ミアさん、そっちは粉石けんだよ」
ヴィクターが優しく、だが、断固とした調子でミアの手から粉石けんの入った瓶を取り上げ、棚の扉を閉めた。
「今回のレシピには、重曹も粉石けんも使わない。初心者向けのメニューだよ」
「初心者向け? ……あっ! ステーキでしょう? あれなら焼くだけだもの。私、フランベとかやってみたいわ!」
「そういうのはまた今度。屋敷が爆発したら大変だ。ミアさんだって、住むところがなくなったら困るだろう?」
ミアは、路上生活なら慣れているけど、と思ったものの、雨風がしのげる場所があるに越したことはないので、素直に夫に従うことにした。ヴィクターがカウンターのカゴから新鮮なレタスを取り出す。
「ミアさんに挑戦してもらうのはレタスのサラダだ。切って盛りつけるだけだから、簡単にできる」
「ドレッシングはどうするの? 秘密の調味料、入れてもいい?」
「それは入れないでほしい。絶対だ。いいね? ドレッシングは僕が作るよ」
ヴィクターはまな板と包丁を調理台の上に置いた。
「包丁の使い方は分かるかい?」
どうやらかなり丁寧に教えてくれるらしい。ミアは、これならちょっぴり料理が苦手な自分でもどうにかなりそうだ、と安心した。
「まずは肩の力を抜いてリラックスして……。包丁は利き手で持つんだよ。それで、反対は猫の手だ」
「こう?」
ミアは左手で握りこぶしを作って、素早く空を切った。その速度たるや、残像が見えるほどである。もしこぶしが壁に当たっていたら、間違いなく大穴が空いていただろう。
ヴィクターは目を丸くしながら「惜しいな」と言う。
「パンチはしなくていいんだよ。握りこぶしをレタスに添えるんだ。ほら、手の形がちょっと猫に似てるだろう?」
「にゃー」
「鳴き声も真似する必要はない。……ちなみに、包丁の握り方は分かるよね?」
「当たり前でしょう? 刃物の扱いには自信があるわ!」
むしろ、それがミアの本業である。仕事をする時を思い出し、ミアは包丁の柄をしっかりと握った。
だが、ヴィクターの顔は不安げに曇る。
「今から人を刺しにいくんじゃないんだ。そんなに殺気を出さないでくれ」
「でも……」
「今のミアさんはまるで暗殺者みたいだよ」
暗殺者、と言われてミアは動揺のあまり包丁を放り投げた。包丁は真っ直ぐに食堂を突っ切っていき、壁際に飾られた小さな猛獣の石像の首を一撃で落としてしまう。
「……やっぱり刃物を使うのはやめようか」
「ええ、それがいいわ」
床に転がった首を見ながらヴィクターが提案し、ミアもすかさず同意した。ヴィクターが壁に刺さった包丁を引き抜き、棚の奥に厳重にしまう。
そして、何事もなかったかのようにレタスの葉を一枚一枚洗っていった。
「手で一口大に千切っていってくれるかい? ……そうそう。すごく上手だよ!」
先ほどまでのいくつもの失態を見ているからなのか、問題なくレタスを細かく切れただけでヴィクターは過剰なほどにミアを褒めてくれた。
それはミアが皿を用意している時も変わらず、「真っ直ぐに並んでるね! いい調子だ!」と言い出す始末だ。
ただ、ミアとしては、妻を監督しながらドレッシングを作っているヴィクターの手際のよさのほうが、賞賛されてしかるべきだと思ったのだが。
「よし、完成だ」
カウンターに、レタスの緑の葉がみずみずしいサラダが二つ並ぶ。ヴィクターがドレッシングをかけると、ツヤツヤとした半透明の液体の眩しさがそこに追加された。
食堂に移動し、二人はテーブルに並んで座る。ミアがサラダにフォークを突き立てると、シャキッという小気味のいい音がした。
ミアは記念すべき一口目をゆっくりと噛みしめる。
「美味しい……!」
ミアは顔を輝かせる。
「なんだ! お料理って意外と簡単なのね!」
ヴィクターの顔がほころぶ。
「よかった。こういうのは料理とは言わない、って怒らないんだね。今、街で話題になってるだろう? お湯をかけて携帯食品をふやかしただけのものは料理なのか、って」
「私はそんな細かいことにはこだわらないわ。食べられるだけでもありがたいもの。お湯をかけた携帯食品ですって? 貧民街では、ただの白湯でもごちそうよ」
「貧民街? ああ、そういえばカフェでもそんなことを言っていたな。ミアさんは貴族なのに貧民街の事情にも詳しいんだね」
(しまった……)
サラダの最後の一口を呑み込みながら、ミアは顔を強ばらせる。
(私の身分は夜鷹が用意した架空のもの。でも、そんなことを言うわけにもいかないし……)
悩んだ末、ミアはいいことを思いついた。
(……そうだわ。このピンチをチャンスに変えましょう。私の生い立ちをさも悲しそうに語って、ヴィクターさんに同情してもらうの。そうすればヴィクターさんの歓心を買えるし、その過程で私に恋心を抱かせることもできるかもしれないわ!)
なにせ、昨日の自分はヴィクターとの愛の全面戦争で手痛く敗北してしまったのだ。ここらで挽回しておかないと命が危ない。
ミアは、右手の甲の『5』の刻印を無意識の内に反対の手で撫でながら、低い声で自分の出自を語り始めた。
「私はあまり生まれに恵まれなかったのよ。でも、親切な人に拾われて、施設で育てられたの。だけど、そこでの生活はとても厳しくて……」
ミアはエプロンの裾で涙を拭うふりをした。
本当は育ったのは施設ではなく夜鷹の屋敷だし、厳しいというのも暗殺者になる訓練のことだったが、それは黙っておくことにする。
「その後、私はある貴族の養女になったの。でも、それが嫌な人でね。引き取ってもらった先の家では随分とひどい目に遭ったわ……」
これは全て嘘だ。夜鷹が手を回してくれたお陰で、ミアは存在しない貴族の養女という身分を手に入れたものの、成長してからもずっと夜鷹の屋敷で暮らしていたのだから。
(ふふふ。どうかしら? そろそろ私の話に心を動かされたんじゃない?)
ミアはこっそりとヴィクターの反応をうかがった。そして、ぎょっとなってしまう。
ヴィクターはカウンターの上に置いた手を関節が白くなるほど強く握りしめていた。その唇は固く引き結ばれている。火にかけられたやかんのように体が震えていた。
(す……すごく怒ってる!? ……なんで!?)
まさか誇張表現と嘘がバレたのかと思い、ミアは血の気が引く思いがした。ヴィクターが発する殺気に命の危機を感じて、ガーターベルトに仕込んだナイフに手が伸びる。
「どこにでも最悪な親はいるものだな。そんな奴、暗殺してやりたいよ」
ヴィクターが低い声で呟いた。ミアは一瞬、「そんな奴」というのは自分を指しているのかと冷や汗をかいたが、しばらくして彼女の継親の貴族のことだと気づく。
だが、ヴィクターの発言でミアをドキリとさせる部分はほかにもあった。
(暗殺って何!? まさか、私の正体がバレたの!?)
ミアはそれとなくヴィクターの様子を観察したが、彼から感じられるのは強い怒りだけだった。皮肉を言ったわけではなさそうだと判断し、少しだけ肩の力を抜く。
「継親だけど、ヴィクターさんが思ってるようなことはなかったのよ。ただ、くしゃみの音が大きいとか、私がまだ読んでいない本のネタバレをするとか、その程度」
「……そうなのか」
ヴィクターが固く握っていた拳を解いた。風船がしぼむように彼の体から怒りが抜けていくのが分かり、ミアはナイフに触れていた手を引っ込める。
「ヴィクターさんって優しいのね。私のためにそこまで怒ってくれるなんて」
動揺が収まると、今度はときめきが襲ってきた。ミアは唇を噛まずにはいられない。
(私がヴィクターさんを落とすはずだったのに! このままじゃ私が先に落ちちゃう! こうなったら手段なんか選んでいられないわ! 生き残るのは私よ!)
ミアはヴィクターとの距離を一気に詰めた。
「ねえ、キスしてもいい?」
「いきなりどうしたんだ」
「料理を教えてくれたお礼よ」
ミアは精一杯、蠱惑的な笑みを作る。
元々偽装目的で結婚したので、ミアたちは式を挙げていなかった。当然、誓いのキスもなし。ただ、書類を出して夫婦となっただけである。
(そんな私たちの記念すべき初キス! これほど心に残る出来事もないはず。ヴィクターさんも私に惚れること間違いなしだわ!)
ミアはさらにヴィクターに詰め寄る。彼女は呪いが発動する条件を思い出していた。
『先に相手を愛した子は、術が使われてから七日後に心臓が止まって死んじゃう』
(つまり、私がヴィクターさんを好きになること事態は問題ないんだわ。大切なのは順番。ヴィクターさんが先にこっちを好きになれば、私は生き延びられるんだから)
ヴィクターは少しの間ミアの顔をじっと見つめていた。
(ひょっとして断る気?)
ミアは気を揉んだものの、ヴィクターは目を閉じた。彼が見ていないのをいいことに、ミアはにんまりと笑う。作戦成功だ。
(さあ、私を好きになってもらうわよ!)
ミアはヴィクターの頬に触れた。その瞬間、背筋を悪寒が駆け抜ける。
(え……何これ……)
ヴィクターの体は氷のように冷たかった。
「ヴィクターさん……大丈夫?」
ヴィクターが目を開けた。彼の蜂蜜色の瞳に宿る光は、どこかぼんやりとしている。
「そういえば……少しだけ具合が悪いかな」
ヴィクターが体温を確認するように額に手を当てた。
「すまない、ミアさん。僕はもう下がらせてもらうよ。片付けは使用人に頼んでおくから」
ヴィクターが食堂から出ていく。その様子をミアは不安な眼差しで見送った。
(ヴィクターさん、風邪でも引いたのかしら? ついさっきまで、あんなに元気そうだったのに……)
どこか胸騒ぎがしたが、安静にしていればすぐにいつもの調子に戻るだろうとミアは自分を納得させた。
それにミアにはヴィクターの体の心配以外にも、やるべきことがあったのだ。
(黒曜石と接触したこと、夜鷹に話しておかないと。それに、裏切り者が『ジェスターズ・ネスト』について情報屋にリークしていたことも報告する必要があるわ)
本当ならこの件を知った時点ですぐに夜鷹の屋敷に向かうべきだったのだろうが、ミアはヴィクターとの約束を優先させたのである。けれど、これ以上報告を先延ばしにするわけにはいかなかった。
(ヴィクターさんのことは気になるけど、きっと死ぬような病気じゃないはず。でも、『ジェスターズ・ネスト』の情報が漏れた件は、サロンの小鳥たちの身の安全に関わってくる話だもの)
同胞を守るため、ミアはすぐに夜鷹の屋敷に行こうと決意し、食堂を出た。
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(早く……あれを片づけないと……)
食堂から出たヴィクターは、ボードマン家の庭に出ていた。体が重くて、足がふらつく。どうやら自分で思っている以上に具合がよくないらしい。
けれど、ヴィクターにはどうしてもやらなければならないことがあった。部屋で休むのはそのあとだ。
ヴィクターは正面玄関の近くに生えている植え込みの傍らにしゃがみ込んだ。茂みを掻き分け、目当てのものがまだあったことに胸をなで下ろす。庭師あたりが見つけて、不審がっていたらどうしようと心配していたのだ。
(この衣装……さっさと処分しなければ……)
ヴィクターが植え込みから取り出したのは、変装用の黒いローブと仮面だった。
いつもは屋敷に帰る前に衣装を処分するのだが、今日はミアとの約束の時間が押していたため、そんなことをしている暇がなかったのだ。だから、処分は後回しにして、仕方なしに脱いだ服を手近にある植え込みの中に隠したのである。
(すぐに燃やしてしまおう)
「ヴィクターさん!? こんなところで何をしているの!?」
不意に、ヴィクターを呼ぶ声が辺りに響いた。
ヴィクターはとっさに衣装をもう一度植え込みの中に突っ込んで振り向く。正面玄関から出てきたのはミアだった。
「てっきり部屋で休んでいるのかと……。寝ていないとダメでしょう!」
「その……野良猫にエサでもあげようと思って……」
「猫? そんなのがいるの?」
動物が好きなのか、ミアの剣幕が少し和らぐ。彼女の注意をそらせたことに、ヴィクターはほっとした。
けれど、ミアは予想外の行動に出る。
「どんな子? 私にも見せて」
ミアは茂みを手で大きく掻き分けた。当然そこに隠れているのは猫などではなく、ヴィクターの変装用の衣装だけだ。ヴィクターは息が止まりそうになる。
「え……これって……」
ミアは口元に手を当てた。彼女は信じられないものを見るような目を衣装に向けている。
普段なら、なぜそんな反応をするのかと訝しむところだが、今のヴィクターは体調不良と焦りのせいで、そんなことを気にするどころではなかった。
「どこかの不届き者が庭にゴミを捨てていったようだね。困ったものだ」
「本当ね」
ヴィクターの早口の言い訳に、ミアが上ずった声で同意した。
ミアの態度にはどことなく不審なところがあったものの、気が動転していたヴィクターはそれを察知できない。逆に、何とかミアを口車に乗せることができたと安心していた。
「これは僕が処分しておくよ」
一刻も早く証拠隠滅したくて、ヴィクターはミアから衣装を受け取ろうとした。だが、彼女は命綱にでもつかまっているように、ぎゅっと握ってなかなか離してくれない。
それでも、ヴィクターはほとんど強引にミアの手からローブと仮面をもぎ取った。そして、ふらつく足が許す限りの速さで屋敷の中へ戻る。
これで衣装は無事に回収できた。すっかり気が抜けていたヴィクターは、彼の後ろ姿をミアがじっと見つめていることには気づかなかった。





