仮面夫婦、愛の全面戦争(4/4)
「黒曜石! 一体何をやっているんだ!」
暗殺組織『キャスケット』のアジトの中。ヴィクターはリーダーの黄鉄鉱に大目玉を食らっていた。
「お前が今日会うはずだった男は、待ち合わせ場所に着いた時にはすでに死んでいた、と? 大失態だぞ!」
黄鉄鉱は全身に怒りをみなぎらせていた。白いヒゲがふるふると震えている。
「奴は他の暗殺組織の情報をちらつかせて我々に接触してきたんだ! もしかしたら、そこに小夜啼鳥の話も含まれていたかもしれない! それなのにこのザマだ! すべてはお前が待ち合わせに遅れたせいだぞ!」
「小夜啼鳥の情報を手に入れられたかもしれない、という点には同意します」
怒り狂う黄鉄鉱とは対照的に、ヴィクターは落ち着き払っていた。
「殺しには毒が使われていました。おそらく、小夜啼鳥は自分の情報が余所に渡るのを恐れて裏切り者を始末したのでしょう」
「呑気に状況を分析している場合か! もっと焦ってみせたらどうなんだ!」
「その必要はありません。こちらを」
ヴィクターは赤いサテンを張った小ぶりな箱を懐から取り出した。小洒落た錠前がついているが、ヴィクターの手によって強制的に解錠済みだ。
箱を開けると、ルビーの周囲に煌めくダイヤモンドを散らした指輪が出てくる。仕掛けが作動し、オルゴールが『愛の宴』という結婚行進曲を奏でる音が流れた。
黄鉄鉱が目を見開く。
「これは……結婚指輪か? まるで大貴族や王家が使う品だな。まさか黒曜石、わしにプロポーズでもしようと? こんな時に冗談はやめてくれ」
「これは今日会うはずだった男の遺体を検分した時に出てきたものです」
求婚していると思われたら困るので、ヴィクターは急いで言い添えた。
「おかしいと思いませんか。奴がこんなものを持っているなんて」
二人の間に沈黙が落ちる。オルゴールがその不自然な間を埋めるように、『愛の宴』の陽気なメロディーを奏でていた。
「いいですか、奴は情報提供の見返りに大金を要求してきました。その金を結婚資金に充てたかったからです」
どうやらあまり「おかしい」と思っていない黄鉄鉱に対し、ヴィクターは説明を始める。
「奴の服装を見ても、あまり余裕のある暮らしぶりをしていたとは思えません。それなのに、なぜこのような高価な指輪を買えたのでしょう?」
「盗んだんじゃないのか」
「高価な品ともなれば、売られている時も買われたあとも、それなりに厳重な監視下に置かれるはずです。そんな状況で品物を盗み出せる腕前があるなら、あの男はとっくに怪盗として有名になっていますよ。この指輪は、あの男が意中の相手のために買い求めたもので間違いありません」
それに、とヴィクターは続ける。
「彼は自分の名前が記された宝石店からの受領証も持っていました。ですから、盗んだ品という説はありえません。となると疑問が一つ。奴はどこでそんな資金を得たのか? ……おそらく、うち以外にも情報をリークしたのでしょう。他の組織か、はたまた情報屋かは分かりませんが」
「何だって!」
やっとヴィクターの言いたいことを理解し、黄鉄鉱が目を剥いた。
「もしリーク先が情報屋なら、まだ望みがあるぞ! 黒曜石、名誉挽回のチャンスだ。すぐに街中の情報屋を当たって、小夜啼鳥について知らせがもたらされていないか探してこい!」
「言われなくとも」
ヴィクターは言葉少なに頷き、黄鉄鉱の部屋から出ていった。
****
(疲れた……)
『キャスケット』のアジトを出てから何時間もたったあと。ヴィクターはボードマン家の近くの裏路地にいた。風を受けた黒いローブの裾が夜の闇にコウモリのように広がる。
(十人以上の情報屋に接触したが、手がかりはなし。引き続き調査の必要があるな)
ヴィクターは変装を解いていった。まずはローブを脱ぎ、降ろしていた金の髪も後ろで小さく一つ結びにする。目元だけを覆う銀縁の黒い仮面も外して、手袋も脱いだ。
ヴィクターはそれらをすべて短剣で細切れにしていく。懐からマッチを取り出して火をつけ、たった今脱いだばかりの衣装をすべて燃やした。一度使用したものは持ち歩くとかさばるので、その場で処分するようにしていたのだ。
(まったく……。小夜啼鳥についての情報収集に、こんなに時間を割いている暇はないというのに……)
ヴィクターは炎の明かりに照らされた左手の甲の『6』の字を憎々しげに眺める。
変装道具がすべて消し炭となったのを確認すると、ヴィクターは正面扉から屋敷の中に入った。
(あと六日以内にミアさんを落とさなければ。手ぶらで帰るんじゃなかったな。花でも買ってくればよかった)
だが、こんな時間では花屋はもう閉店しているだろう。小夜啼鳥の情報を手に入れられなかった失望も重なり、ヴィクターのイライラは募るばかりだ。
「お帰りなさいませ、ヴィクター様。ミア様が食堂でお待ちですよ」
自室へ戻ろうとしたヴィクターが西棟に続く階段を登っていると、使用人が話しかけてきた。
「何でも、お夕食を手作りなさったとか。一緒に食べようとお帰りをお待ちしていらっしゃいます」
ヴィクターたちが仮面夫婦だと知っている使用人は首を傾げた。
「お二人ともいかがなさったのです? 今日はやけに仲がいいではありませんか」
「そんなことはない。僕たちは全面戦争の真っ最中だ。お互いの命を賭けて戦っているんだよ」
ヴィクターは当惑する使用人を置いて、中央棟の食堂へ向かった。
今朝方はヴィクターが作った朝食が並べられていたテーブルには、今度は手頃な大きさの鍋が一つ乗っている。その鍋の正面にミアが座っていた。待ちきれなくなったのか、机に突っ伏してすやすやと寝息を立てている。
(呑気なものだな……)
そうぼやいたものの、ミアの邪気のない寝顔を見ている内に、ヴィクターはどこか癒やされたような心地になった。
暗殺者という仕事柄、ヴィクターの心は時々荒むこともあるが、ごく普通の貴族であるミアはそんな気持ちになることはないだろう。
ミアは自分とは違う世界の住民だ。たとえ仮面夫婦でなくとも、そんな妻はヴィクターにとっては近いようで遠い存在である。だからこそ、安らいだ寝顔の彼女を見ていると和んだ気分になってしまうのかもしれない。
それは今に限ったことではなかった。今朝の出来事を思い返す。
ヴィクターは今まで自分のためにしか料理をしたことがなかった。それが、思いもかけずミアに手料理を振る舞うことになったのだ。
そういったことをするのは初めてだったものの、試みは成功を収めたといっていいだろう。ミアが料理を喜んで頬張る姿は今でも思い出すことができる。それはヴィクターにとって嬉しい体験だった。
(ミアさんが僕を好きになるように誘導するという作戦が上手くいったからか? けれど……それだけではないはず)
やはりヴィクターにとって、ミアは気分を和ませてくれる存在なのかもしれない。そう思うとなんとなく愉快な気持ちになる。
(だが、この料理はどうしようか……)
ヴィクターは困りながら上着を脱いで、ミアにかけてやろうとした。だが、ヴィクターの手が触れるか触れないかのところまで近づくと、ミアがガバッと跳ね起きた。そして、異様ともいえる速さでヴィクターから距離を取る。
「あら……ヴィクターさんだったの」
ミアは意外そうに目を丸くしたが、ヴィクターも驚いていた。
(なんて素早い動きだ。たとえ僕が刺客だったとしても、今の彼女なら身をかわせただろう。僕にこっそり薬を盛った時といい、彼女は暗殺者の才能があるな。……うちの組織にスカウトしてみようか?)
「お帰りなさい。待っていたのよ」
ヴィクターが取り留めもないことを考えていると、ミアが鍋の中身をいそいそと皿によそい始めた。
「お腹空いてるでしょう? すごく美味しいシチューを作ったのよ。たくさんあるから、いっぱい食べてちょうだい」
「いや、僕は他人の手料理は苦手で……」
ヴィクターは言葉を切った。ミアが差し出してきた皿に乗ったものに目が釘付けになる。
(何だ、これは……)
一瞬、石膏かと思った。おそらく分離したホワイトソースが分厚く固まっているのだろう。具がまったく見えない。
「……そうだったの?」
ミアはしゅんとした顔になる。
「ごめんなさい。そんなことちっとも知らなくて……」
ミアはあからさまにしょげ返ってしまった。ヴィクターは先ほどの無邪気な寝顔のミアを思い出して、かすかな胸の痛みを感じる。六日後に死んでもらわなければならない相手とはいえ、彼女のこんな顔は見たくなかった。
「……一口だけだぞ」
こんなの、まったく自分らしくない、と自嘲しながらヴィクターは皿を引き寄せた。
ミアの顔が華やぐのを見て、想像以上に満たされた気分になってしまったことに少々狼狽えつつも、スプーンの先をゆっくりシチューの中に沈める。
「安心して。毒なんて入れてないから」
冗談めかしたミアの言葉を聞きながら、ヴィクターはシチューを口へ運んだ。
(……よかった。見た目は何ともいえない出来だが、味はふ……つう……)
口の中で何かがポンッ! と弾け、ヴィクターはスプーンを取り落とした。
苦み、酸味、えぐみがほとばしり、舌の上で踊り狂う。ブニョブニョした塊が暴れ回る。ヴィクターは床に膝をついた。飲み込みたくても、喉が糊づけされてしまったように上手く開いてくれない。
ヴィクターは震える手でピッチャーから水をくみ、グラスに移した。中身があらかたこぼれてしまったせいでテーブルクロスに透明な染みができ、布が吸いきれなかった水が滝のように床に流れ落ちる。
ヴィクターはグラスの中身を一気にあおり、シチューを無理やり喉の奥に流し込んだ。コップから溢れた水で服や顎がびしょ濡れだ。ヴィクターはハアハアと荒い息をした。
「何が『毒は入れていない』だ!」
ヴィクターは胸元をさすりながら涙目になって叫んだ。
「死ぬかと思ったじゃないか!」
「もう、大げさね」
ミアはのほほんとした表情で笑っている。
「確かに少し失敗したかもしれないけど、食べられる物しか入れてないわよ。死ぬわけないじゃない」
ヴィクターが止める間もなく、ミアは殺人シチューを口の中に入れた。
そこからの彼女は、まるで数分前のヴィクターの反応を再生しているかのようだった。グラスの水を飲み干したミアは悲鳴を上げる。
「何これ、すごくまずいじゃない! 誰がこんなもの作ったのよ!」
「ミアさんだろ」
ヴィクターは胃の中で食材が暴れ回っているのを感じながら、腹部をさすった。
「一体何を入れたらこうなるんだ?」
「何って……。鶏肉とか、野菜とか……。あとは秘密の調味料も少々」
ヴィクターが何気なく鍋を見ると、トサカがついた鳥の頭のようなものが分厚いホワイトソースの層を突き破ってにゅっと飛び出ているのが目に入った。
ヴィクターは慌てて何も見なかったふりをし、視界に入れてしまったものを記憶から消そうと懸命になる。
「はあ……料理って難しいのね……」
ミアは懐から小瓶を出し、中身を飲み干した。胃薬だろうか、とヴィクターは思う。
(まあ、この料理に必要なのは胃薬というより毒消しの薬だろうが……)
「どうしてこんなに作っちゃったのかしら……」
ブツブツと文句を言いながら、ミアはシチューを皿によそっていく。ヴィクターはポカンと口を開けた。
「ミアさん……。まさか、まだそれを食べる気なのか?」
「当たり前でしょう? 私、食べ物を粗末にするのは嫌いなの」
ミアは死んだ目でシチューをかき込んでいく。皿の中身が空になるとまた鍋から追加して食べ始めた。
「なぜそこまで……」
「食べ物があるって普通のことじゃないからよ。どんなにまずくても、お腹の中に入れるものがあるだけありがた……うっ!」
「ミアさん!」
「……大丈夫よ。完食したわ」
ミアは誇らしげに鍋の中身を指す。鶏の頭蓋骨が視界に入ってきて、ヴィクターはふいと目をそらした。
「私……料理を覚えたほうがいいかもしれないわね」
「ぜひそうしてくれ。このままだと死人が出る」
「じゃあ、ヴィクターさんが教えてくれる? 料理、得意でしょう? 今朝のご飯もすごく美味しかったし」
「別に構わないが……」
「……よかった」
掠れた声で言って、ミアはぐったりと椅子にもたれかかった。そのままピクリとも動かなくなる。どうやら気絶したようだ。
「……本当に毒は入っていなかったのか?」
ヴィクターはミアを横抱きにする。私室で休ませてあげようと思ったのだ。
(ミアさん……少し重いな)
細身なのに意外だ。それに、こうして腕に抱いていると体つきがしっかりしているのが感じられる。
(運動が好きなんだろうか?)
もしかしたら腹筋も割れていたりするのかもしれない。好奇心を覚えたヴィクターは、ミアの服をめくって確かめてみようかと思ったが、さすがにやめておいた。
第一、そこまで筋力が発達しているわけがないではないか。暗殺者ではあるまいし、とヴィクターは軽く笑った。
食堂を出たヴィクターは東棟のミアの寝室に行き、ベッドの上に妻を寝かせてあげる。
「まったく……」
ミアは悪夢を見る一歩手前、といった表情で寝込んでいる。彼女の顔を曇らせたくなくて手料理を食べたのに、どうしてこうなってしまったのやら。
ヴィクターはベッドの端に腰掛け、妻の顔にかかった薄茶色の髪を横に撫でつけた。
(それにしても、すごい部屋だな……)
使用人に掃除を命じていないのか、ミアの寝室はかなり散らかっていた。
服や本やハンカチが床に散らばっていて、何かを踏まずには移動できない。座り心地に違和感を覚えたヴィクターが腰を浮かすと、片方だけの靴下が尻の下から出てきた。
(……面白い人だ)
ヴィクターはミアを見つめてクスクス笑った。
料理がダメで、整理整頓も苦手。今まで関心を払ってこなかった相手の思わぬ人間味を発見し、ヴィクターは微笑ましい気分になっている。
(これは、掃除も僕が教えることになるんだろうか?)
ミアの部屋から退室したヴィクターは、今度は西棟にある彼専用のキッチンへ入った。
帰宅した時は空腹を覚えていたのに、ミアの手料理を食べた途端に、胃の中がいっぱいになってしまったような奇妙な満腹感を覚えている。
だが、口内にはまだあの恐るべきシチューの味が残っていた。口直しをしなければ、今日の夢見は最悪なことになるだろうと思い、ヴィクターはエプロンを身につける。
ヴィクターはカウンターの上からキュウリやピーマンなど、目についた野菜を適当に取り出し、小さく角切りにしていった。
棚の中の種類別に分けられた皿の中からボウルを出して、そこにトマトジュースと先ほどの野菜を入れる。そしてオリーブオイルをさっと垂らした。
あっという間にトマトの冷製スープの完成だ。
スプーンですくい、一口目を口内へ。トマトのまろやかな味と、野菜の苦みやみずみずしさ、オリーブオイルのフルーティーな味わいが舌を喜ばせる。ヴィクターはふう、と息をついた。
(よかった……。あのシチューを食べても、僕の味覚はまだ正常なようだ)
口と胃を浄化しようと、ヴィクターはスープを次々に口へ運んでいく。素朴な味に心が癒やされていくのが分かった。
(……だけど、何かが足りない)
空になったボウルを見ながら、ヴィクターは物足りなさを覚えていた。
(入れ忘れた具はないし、味付けにも問題はなかったはず……)
それなら、何が欠けているというのだろう?
ヴィクターは落ち着かない気持ちで辺りを見回し、ふと、自分は今一人きりだと気づく。
(ここにミアさんがいればな……)
食堂では大変な目に遭ったが、その分賑やかだった。悪くない時間を過ごせたといえよう。
そんなことを考えてしまう自分にヴィクターは戸惑った。左手の甲の数字が『5』に変化しているのに気づいて、口元を引き結ぶ。
(ミアさんを叩き起こして、僕が食器の片付けをするところでも見せてやろうか。……いや、それでは当てこすりをしているようだな。かわいそうだからやめておこう)
ヴィクターは空っぽのボウルを持って立ち上がった。おかしなことを考えてしまうのはきっと疲れているからだ。今日はもう休もう。
(別に……ミアさんに惹かれているとか、そういうわけでは……)
ヴィクターは渋い表情で食器を洗い始めた。





