仮面夫婦、愛の全面戦争(3/4)
「さっきは庇ってくれてありがとう」
家路につきながら、ミアはヴィクターに礼を言う。
「ああいうことしてくれたのは、あなたが初めてよ。今まで私を守ってくれた人は誰もいなかったから」
ミアは仕事の時はいつも単独行動をしていた。そのため、どんなに危ない目に遭っても、ピンチに駆けつけてくれる人などいなかったのだ。
それは暗殺者になる前も同様だった。だからこそ、ヴィクターが自分を助けてくれたという事実にひどく心を動かされていた。ミアは自然と熱のこもった目で夫を見つめる。
だが、ヴィクターの次の一言でミアは我に返った。
「もしかして、僕に惚れたか?」
いたずらっぽい笑みが返ってきて、ミアは慌てて「そんなわけないでしょう!」とそっぽを向いた。頬を両手で押さえる。
(危ない! ときめいたらダメ、ときめいたらダメ……!)
ミアは右手の『6』の刻印を見て、必死で冷静さを取り戻そうとした。
(生き残るのは私よ! 絶対にヴィクターさんのことなんか好きになるもんですか!)
狼狽えるミアがよっぽどおかしかったのか、ヴィクターの笑い声が聞こえてくる。ミアは唇を噛んだ。悔しいが、生き残りを賭けたこの局地戦はミアの敗北となりそうだ。
「そもそも、僕がミアさんを助けるのは初めてじゃないだろう?」
「え? どういうこと?」
「忘れたのか? 何年か前に、僕が怪我をしたあなたを医師のところまで連れていったじゃないか」
「まさか! 私がそんな情けない姿をさらすわけが……。……あっ」
ミアは思い出した。
彼の言うとおりだった。ミアは怪我をして苦しんでいたところをたまたま通りかかった人に助けてもらったことがあるのだ。
あれは、ミアが珍しく任務で失態を働いた時のことだった。標的に毒が回りきったと油断したせいで、最期の力を振り絞ったターゲットに足をペーパーナイフで刺されてしまったのだ。
幸いにも命が危ぶまれるような傷ではなかったものの、暗殺相手の家から引き上げた時のミアは真っ直ぐに歩くことができなくなっていた。そんな彼女を通行人が保護し、病院まで連れていってくれたのだ。
「あれは……ヴィクターさんだったのね……」
当時のミアは冒したばかりの失敗に気を取られて、救助者が誰なのか確認する余裕がなかったのだ。
(私……二回もヴィクターさんに守られていたの……?)
ときめいてはいけないと先ほど自分に言い聞かせたばかりなのに、またしても胸の高鳴りを感じる。ミアは胸元で固く指を組んだ。余計な事実を伝えたヴィクターが恨めしい。
ミアは負け惜しみを口にした。
「ヴィクターさんが私に恋することはあっても、その逆はないわ。私は生き延びてみせるから」
「僕だって同じだ。さっきカフェでミアさんを庇ったのも、僕の命惜しさの行動だよ」
二人がお互いの腹の内を明かしたのは、今回が初めてだった。夫妻は静かに火花を散らし合う。
だが、しばらくしてヴィクターはしまった、とでも言いたげな顔になった。
「……いや、ミアさんが好きだから助けたんだよ」
「今さら取り繕っても遅いわよ。あなた、意外と嘘が下手なのね」
「こういうのは専門外なんだ」
(じゃあ、何だったら専門なのよ。攻撃に特化しているとか? 暗殺者じゃあるまいし)
ミアはやれやれと首を振った。
(まあ、私も人のことは言えないんだけど。ハニートラップなんて全然分からないもの)
ミアは、ヴィクターに「好き」と言ったり、扇情的な態度で接したりしてもまるで上手くいかなかったことを思い出してうんざりとなる。媚薬を盛るのは成功したが、次からは彼も警戒するだろうし、この作戦は二度と使えないだろう。
「僕がミアさんを好きかどうかは置いておくとして、強盗からあなたを庇ったのは、罪のない人が傷つけられるのが許せなかったから、っていうのもあるんだよ」
「私があなたの心を奪おうとするのはいいの? ヴィクターさんを殺そうとしてるってことなのに」
「未遂だからね。息の根が確実に止まるまでは『殺した』とは言えないだろう」
(この人、私と似た考え方をするのね。本当にどこもかしこも暗殺者そっくりだわ。ヴィクターさんって、絶対にただ者じゃないわよ。……それにしても、『罪のない人が傷つけられるのが許せなかったから』なんて)
ミアは暗い気持ちになる。
(私、全然『罪のない人』じゃないのに。ヴィクターさんは私の裏の顔を知らないものね。私が暗殺者だって分かったら、ヴィクターさんは絶対に私のことを好きにならないわ……)
ミアは自分の手のひらを見つめる。今日も彼女はこの手で一人の命を奪ったのだ。
(……嫌だ。私、何を考えているの?)
思考がどんどんマイナスへ傾いていると気づいて、ミアは額を指先で押さえた。
(今までと同じく、私が暗殺者だってことくらい、隠しとおせばいいだけでしょう。私のすべてを好きになってもらう必要なんかないもの。私がするべきなのはヴィクターさんに「ミア・ボードマン」を好いてもらうことだけ。「小夜啼鳥」まで愛してもらう必要はないのよ。そこまで望むなんて……まるで私がヴィクターさんを好きみたいじゃない)
屋敷が見えてくる。気持ちを整理する時間が必要だと判断したミアは、今は少しだけヴィクターと離れておこうと思った。
「そういえばヴィクターさん、今日は誰かに会う予定があったんじゃないの?」
「あっ……そうだった……」
ヴィクターはショックを受けたような顔になる。懐中時計を取り出し、眉根を寄せた。
「しまった……大遅刻だ。ミアさんを探すことに気を取られてすっかり忘れていた。……悪いけど、先に帰っていてくれ」
ミアの返事も聞かずに、ヴィクターは来た道を戻っていった。一方のミアは、ヴィクターの「ミアに会うことばかり考えていた」という言葉に胸の疼きを覚える。
(ああ、もう……! 好きになっちゃダメなのに!)
ミアは地団駄を踏んだ。抗議するようにお腹がぐうぐう鳴る。
(お昼、食べ損なったんだっけ……)
カフェで食べられなかったリゾットとピッツァは、屋敷の料理人に作ってもらうとしよう。そんなことを考えていたミアの脳裏に、ある素晴らしい作戦が閃く。
(そうだ……! 料理! 私も料理を作りましょう!)
今朝のミアは、ヴィクターの手作り料理にすっかり夢中になってしまったのだ。美味しい料理には人の心を動かす力がある。ミアがヴィクターのために最高の一品を提供すれば、彼もミアに惚れるはずだ。
(料理なんてやったことないけど、大丈夫でしょう。私、薬品の調合は得意だもの!)
ミアは意気揚々と屋敷の門を潜っていった。





