仮面夫婦、愛の全面戦争(2/4)
「待ちなさい。逃げてもムダよ」
屋敷を出発してから数時間後。黒衣をまとったミアは貧民街の裏路地で、ある男性を追い詰めていた。
「ぐっ……はあ、はあ……」
ミアのナイフで傷つけられた肩を押さえながら、男性は狭い路地を懸命に走る。ミアは猟犬のように音もなくそのあとを追いかけた。
「……くそっ!」
袋小路に行き着いてしまい、男性が罵り声を上げる。ミアは彼の退路を断つように足を大きく開いた。
「さっきあなたに傷を負わせた武器には毒が仕込んであったの。あなた、どの道あと半日以内に死ぬわよ」
ミアは短剣を構えながら男性ににじり寄る。
「『ジェスターズ・ネスト』の情報を別の組織に流そうとしたんですって? どうしてそんなバカな真似を? 夜鷹が許すわけないでしょう?」
「俺はお前たちのイカれたサロンに忠誠を誓った覚えなんてねえよ!」
男性が喚いた。
「俺はあの屋敷に仕えるただの使用人だ! ご主人様のサロンがおかしな活動をしてるって偶然知っちまって、それで……」
「コソコソ嗅ぎ回って情報を集めた、ってわけね」
ミアは短剣の先を男性に突きつける。彼は情けない声を上げて縮み上がった。
「た、頼む! やめてくれ! 俺はもうすぐ結婚するんだ! だから、だから……!」
「『ジェスターズ・ネスト』の情報を売り渡して、結婚資金にしようとした、ってことかしら?」
毒が回って立っていられなくなったのか、男性は路上にうつ伏せで倒れた。トドメを差そうとミアがかがみ込むと、男性の罵倒が聞こえてくる。
「ご主人様の子飼いめ……!」
喉笛を切り裂かれ、男性は息絶えた。ミアは自分の顔についた血を手の甲で拭う。『6』の字の上に絵の具で走り書きをしたような赤い線が引かれた。
(この人も、誰かを愛さなければサロンの情報をよそに流そうとしなかったでしょうに。それなら死ぬこともなかった。彼を殺したのは愛情なのね。愛は弱さ。分かりきったことだわ)
ミアは短剣を鞘にしまう。『6』の刻印を冷たい目で見下ろした。
(私は死なない。ヴィクターさんなんて愛さないし、逆に彼の愛を利用して生き延びてやるんだから)
ミアは男性の遺体をそのままにして路地裏を出た。黒衣の血を拭い、通路の目立たないところに隠していた服をその上から着込む。
それだけではなく、今回は手袋も嵌めた。
白いコートを羽織り、同じく白いシルクハットに似た帽子を被って、顔にはこれまた白の仮面を身につける。その仮面は、口や鼻に当たる部分が鳥のくちばしのように尖っているデザインだった。
変装したミアが向かったのは、路地の近くにある居酒屋『チャビー・ベアー』だ。
いつものように店は混んでいた。
店内はあまり掃除が行き届いておらず、床にはホコリが溜っていてテーブルは少々ギトギトしている。
だが、客たちはそんなことは気にしていないようだ。店の看板メニュー『シェフの気まぐれグラタン』を突きながら、向かいに座った友人たちと大声でぺちゃくちゃ喋っている。
ここに来るたびにミアはいつも疑問に思うのだが、「シェフ」とは誰のことを指すのだろう。この店にそんな洒落た料理人がいるとはとても思えない。そもそも、店員ですらグラタンの中身を知っているか怪しいくらいなのに。
おかしな仮面で顔を隠しているという怪しい出で立ちではあったが、ミアに特別な関心を払う者は客にも従業員にもいなかった。
貧民街では色々な人間がうろついているのだ。不審な格好をしているからといって、深入りしないのが暗黙の了解である。
ミアは昼間から酔っ払っているダメ人間風の男性たちのケンカに巻き込まれないように注意しつつ店員を呼び止め、「店長と合わせてほしいんだけど」と頼んだ。
店員は慣れた仕草で「どうぞ」と言いながら店の奥を指差す。厨房の手前の店長室だ。
ミアはノックをしてから入室する。すり切れたカーテンの引かれた小さな窓が一つあるだけの狭い室内だ。家具は事務机と椅子のみ。その机の前に中年の男性が立っていた。
「いらっしゃい。何か情報をお探しかな」
恰幅のよい男性だ。まくった袖から大木のような毛深い腕が伸びている。『太っちょの熊さん』という店名に相応しい見た目から分かるとおり、彼がこの店の経営者だった。
だが、彼はただの飲食店の店長ではない。ミアと同じで、彼にも裏の顔があるのだ。表向きは居酒屋の店主をしているのだが、実は情報屋を営んでもいるのである。
「黒曜石っていう暗殺者について知りたいの」
ミアは机の上に手のひら大の麻袋を置いた。中には金貨が何枚か入っている。情報屋は中身を検分してから、「昨日、王城で二件の殺しがあった。片方は黒曜石の仕業って話だ」と言った。
絶妙に役に立たない情報だ。きっと、料金が足りないということなのだろう。ミアは金貨の袋をもう一つ追加した。
情報屋は中身をあらためて満足そうな顔になる。どうやら、夜鷹からもらったお小遣いでどうにかまかなえそうだとミアはほっとした。
「明日の昼頃また来てくれ。いいネタを仕入れておこう」
「分かったわ」
約束を取りつけ、ミアは店長室をあとにした。居酒屋を出ると変装を解き、コートと仮面、それに帽子を服の中に隠す。今日は黒衣もまとっているので着ぶくれして見えるし、やや動きにくいが、仕方がない。
(お腹空いたわ……)
『チャビー・ベアー』で骨つき肉や魚のフライの油っぽい匂いを嗅いでいる内に、ミアは空腹になっていた。帰宅するのは昼食を取ってからにしようと、貴族街にある飲食店が集まる区画に向かうことにする。
貧民街と貴族街の間には、平民街が広がっていた。この三カ所は柵などで区切られているわけではないが、まるでグラデーションを描くように辺りの様子が変わっていくのが特徴だ。
貧民街では無計画に立てられた質素な家が並び、もう何年も整備されていない路上に廃材が放置されている光景が至る所に広がっている。
『チャビー・ベアー』があるのは、貧民街の中では裕福な地区である。一際貧しい住民のいる区画では、みすぼらしい毛布を体の上にかけて道の真ん中で寝ている者も大勢いた。
貧民街と比べれば、平民街は随分と小綺麗だ。路上で寝ているのは、休日の夜に深酒をして酔っ払った者くらいである。
顔を上げれば、建物と建物の間に渡したロープにぶら下がる洗濯物が、風にパタパタと揺れているのが見える。通りも賑やかで、お喋りする女性たちの声が音楽のようにあちこちから聞こえていた。
それに対し、貴族街はもっと静かだった。広い庭を持つ家が多いので、外に音が漏れないためかもしれない。お喋りは路上でせず、自宅かよその屋敷でするのが基本だ。その辺を歩いている猫でさえお上品に見える。
といっても、貴族街ならどこも静かというわけでもない。
現に、飲食店が立ち並ぶ地区は、テラス席に座る客などの声がそこら中から聞こえてくる。あぶったナッツの香ばしい香りや、パンが焼けるいい匂いを嗅ぎながら、ミアはどこの店で食事をしようかと物色し始めた。
「ミアさん」
背後から殺気を含んだ声が聞こえてきて、ミアは素早く振り向いた。てっきり暗殺者でもいるのかと思ったが、声をかけてきたのはヴィクターだった。
「あなた、何をしたんだ? 気がついたら食堂の床に寝ていたんだが」
ヴィクターの血走った目を見れば、媚薬の効果はとっくに切れていることは明白だった。ミアは息を呑む。怒ったヴィクターの迫力はとてつもない。目線だけで人を殺してしまえそうだ。
「どうして私がここにいると分かったの……?」
ミアは言うことを聞かない猛獣を相手にする調教師のような気分で、おそるおそるヴィクターに話しかけた。ヴィクターは、「もう昼時だから、どこかの店で食事でもしているかと思ったんだ」とぶっきらぼうに答える。
「今はそんなことはどうでもいい。あなた、まさか僕に薬を盛ったのか? そんなことができるなんて、ミアさんは一体何者なんだ?」
ヴィクターが詰め寄ってくる。正体を勘ぐられそうになり、ミアは冷や汗をかいた。どう誤魔化そうかと必死で頭を悩ませる。
「……怪我でもしているのか?」
不意にヴィクターの敵意が和らいだ。ミアは突然のことに戸惑いながら、「してないわ」と返す。
「だが、体から血の匂いが……」
ミアの顔が引きつる。ヴィクターはきっと、ミアが裏切り者を始末した時に浴びた返り血の匂いを嗅ぎつけたに違いない。
(血はきちんと拭ったはずなのに……。ヴィクターさんって嗅覚がかなり鋭いのね。暗殺者として五感を鍛えてきた私といい勝負だわ。……いいえ、呑気に感心している場合じゃないわね)
ミアは即興で言い訳を考えた。
「さっきそこで、転んで怪我をしていた子どもがいたの。放っておけなかったから手当てしてあげたのよ」
「転んで怪我? だが、あなたから漂ってくる血の匂いは相当なものだ。まるで誰かの動脈を切って、そこから溢れた血を浴びたような……」
「その子、転んだ拍子に足が五本くらい吹っ飛んでいっちゃったのよ。そんなことより、お腹空かない? あっ、あそこにカフェがあるわ! お昼にしましょう!」
ミアは無理やり話をそらした。表面上は冷静を装っていたが、内心では焦りまくっていたのである。ヴィクターを強引に引っ張って、真っ先に目についた店に入った。
「いらっしゃいませ」
カフェの店内では、糊の利いたエプロン姿の店員が笑顔で出迎えてくれた。天井からはドライフラワーが吊され、壁にはかわいらしい字で書かれたメニュー一覧が貼りつけてある。
漂ってくるのは、嗅いでいるだけでリラックスしてくるコーヒーの匂いだ。ピカピカに磨かれたテーブルで談笑する客たちの中には、酔っ払っている者など誰もいない。
先ほどまで貧民街の居酒屋にいたため、ミアには店も客もやたらと清潔に見えた。席に案内されてもどこか落ち着かない気分だ。
「ねえ見て、ボードマン夫妻よ!」
「夫婦揃ってお出かけなんて、相変わらず仲良しねえ~」
しかも、即行で身バレしてしまって余計に気まずい。ミアはメニューで顔を隠すようにして、ほかの客の視線を遮った。
(キノコのリゾットか……美味しそう! でも、こっちのシーフードピッツァも捨てがたいわね。ううん……どうしましょう)
悩んでいたミアは、ある妙案を思いついてメニューから顔を上げ、ヴィクターに話しかけた。
「ヴィクターさん、このピッツァ、半分こしない?」
色々なメニューを楽しむには他人とシェアするに限る。ついでに、料理を分け合うオシドリ夫婦という印象も周りに与えられて一石二鳥だ。
だが、ヴィクターはミアの提案を「いいや、やめておくよ」と断った。
「どうして? シーフードは嫌い?」
「そうじゃなくて、こういうところで食事はしないことに決めているんだ」
「ヴィクターさん、もしかして外食が嫌いなの? なんだか意外……」
悲鳴が聞こえてきて、ミアは言葉を切った。カウンターのレジ係が、包丁を持った男に脅されている。
(強盗だわ……!)
貴族街は平民街や貧民街と比べて治安がいいはずだが、悪党というのはどこにでもいるのだろう。慌てて店から出ようとした客に向かって、強盗が「動くんじゃねえ!」と怒鳴った。
「全員、金目のものをここに置いて、店の奥に一列に並べ!」
強盗が手近なテーブルに乗っていた皿を腕で払いのける。食べかけの料理がこぼれ、チリ一つ落ちていない床に、トマトソースや卵が色とりどりの染みになって飛び散った。
「ちょっとあなた!」
食べ物を粗末にされ、ミアは一瞬で頭に血が上ってしまった。ヴィクターが止めるのも聞かず、強盗にズカズカと近づいていく。
「貧民街では食べる物がない人もいるのよ!」
ミアは強盗の手から包丁を叩き落として、顔に飛び膝蹴りを食らわせてやろうとした。
だが、強盗の呆気にとられたような表情を見ている内にハッとなる。貴族の奥方は……いや、平民の女性であっても普通はそういうことはしない。というより、できない。そんな芸当が可能なのは訓練された暗殺者だけだ。
(危ない! 正体がバレるところだったわ!)
ミアは大きく息を吐いた。強盗の肩にポンポンと手を置く。
「そういうわけだから、こんなことはやめましょう? 自首するなら、警邏隊の本部まで着いていってあげるから」
「てめえ……」
我に返った強盗が憎々しげにミアを睨む。自分の肩の上からミアの手を振り落とした。
「ふざけやがって! 痛い目見ねえと分かんねえのか!?」
強盗がミアを包丁で刺そうとした。だが、彼女はまったく恐怖を覚えない。
(隙だらけだわ……。素人め)
ミアは強盗に軽蔑しきった視線を送った。この程度の攻撃、目をつむっていてもかわせる。
(身の程知らずにもこの小夜啼鳥に向かってくるなんて。少し遊んであげようかしら?)
先ほどまで正体を隠そうとしていたことも忘れ、ミアは強盗に反撃する気満々だった。
だが、ミアと強盗の間に誰かが飛び込んできたことによって、出鼻を挫かれてしまう。
「やめろ! その人は僕の命だ! 彼女が死んだら僕も死なないといけない!」
ヴィクターだった。包丁を握る強盗の腕をつかみ、ミアに危害が及ばないようにしている。
思いもかけない展開に、ミアはその場に立ち竦んだ。
(私……今、ヴィクターさんに守られてるの……?)
心臓に甘い疼きが走るのを感じた。生まれて初めての感覚だ。
「次から次へと……!」
強盗はすっかり逆上してしまっている。ヴィクターの手を振り解くと、今度は彼を包丁で刺そうとした。
だが、ヴィクターは落ち着き払っていた。突っ込んでくる強盗をひらりとかわすと、傍のテーブルからナイフを一本取る。
「何もかもがなっていないな。刃物というのはこう使うんだよ」
ヴィクターは目にも留まらぬ速さで、包丁を握る強盗の手首をナイフで突き刺した。そして、包丁が床に落ちるよりも早く、ナイフの柄で強盗の首の後ろを強打する。
戦闘に要した時間はたったの一、二秒ほど。勝敗は誰の目にも明らかだ。ヴィクターはかすり傷一つ負っていないのに対し、強盗は床の上で気絶している。
「素人が」
ヴィクターが侮蔑の言葉を呟く。客たちはしんと静まり返っているし、ミアも唖然としていた。
(何……今の……。まるで暗殺者みたいだったわ……!)
おそらく、周囲の人たちはヴィクターの動きが速すぎて、何が起きたのかさっぱり分からなかっただろう。しかも、先ほどの彼の戦法はただの護身術の域を超えている。あれは完全に人を殺める時の戦い方だった。
(初めて知ったわ。貴族って、こんな物騒なことまで教養として学ぶのね。……それもそのはずだわ。王都は昔から危ないところだって聞いたことがあるし)
傷害、殺人事件は王都の花。平民だろうが貴族だろうが、厄介ごとに巻き込まれる時は巻き込まれる。この街にはそういった諦めに近い暗黙の了解があったのだ。
もちろん、護衛を雇う人もいないわけではない。
けれど、ボディーガードの人数を競う貴族たちが続出し、王城が人で溢れかえった結果、公務に支障が出たり、王族が怪我をしたりという事件が過去にあったせいで、いつの頃からか王城内で護衛を連れ歩くのは禁止になってしまったのだ。
これは暗殺者にとってはありがたい話だった。すご腕の仕事人なら護衛の有無など関係ないとはいえ、やはりターゲットが一人で動いているほうが任務を遂行しやすい。
きちんと数えたことはないものの、この街の殺人事件の半数以上は王城内で発生しているだろうとミアは思っていた。
そんな物騒な街だから、一介の貴族が高い戦闘能力を持っていることは納得である。
(きっと、このお店のお客さんたちも、本気を出せば強盗くらい一撃で倒せたんだわ。私も負けていられないわね……!)
一般人にすら劣る暗殺者など論外だ。ミアは、これからは訓練にさらに身を入れることにしようと誓う。
「行こうか」
ヴィクターに促され、ミアはまだ衝撃から冷め切っていないカフェの人たちを残して店を出た。





