仮面夫婦、毒を飲む(1/1)
朝から厚い雲が空を覆い、太陽がすっかり姿を隠している午後。小雨が降る中、追っ手を警戒しながら、ヴィクターは王城の庭園を訪れていた。彼の左手の甲の数字は『1』に変化している。
悪天候のためか、幸いにも周囲には人気がない。目的地へと向かう道すがら、ヴィクターはミアと偽装結婚することになったきっかけを思い出していた。
半年前のある日、ヴィクターは王城での暗殺の仕事を終え、現場を引き上げようとしていた。
だが、思ったよりも早く死体が発見されて、逃げ場を失った彼はとっさに庭園の立ち入り禁止区域に隠れた。
ここなら犯人を捕まえようとする人の捜索の手が伸びることもないだろうし、しばらく身を潜めていても安全だろうと思ったのである。
だが、その判断が誤りであったとヴィクターは瞬時に悟った。立ち入りに制限がされている区画であるにもかかわらず、なぜか先客がいたのだ。それがミアだった。
――あなた、こんなところで何をしているのよ! ここは私が先に見つけたのよ!
――それは僕のセリフだ! 早く出ていってくれ!
誰もいないはずの場所で人と鉢合わせ、二人ともすっかりパニックになっていた。
今にして思えば、ミアも仕事帰りだったのだろう。あの日、王城で起きた殺しはもう一件あったのだから。城が騒がしくなって退路を断たれたミアは、ヴィクターと同じようにこの庭に潜伏しようと考えたに違いない。
せっかく見つけた隠れ場所から早く相手を追い出そうと、お互いに必死になっていた。二人が言い合う声が大きいのは今も昔も同様だったようで、あっという間にヴィクターたちは近くを通りかかった人々に発見されてしまう。
――こんなところで何をしているんだ?
立ち入り禁止区域にいる二人組に、皆は疑いの目を向けた。どうしたものかとヴィクターが困り果てていると、ミアがとんでもないことを言い出した。
――逢い引きです!
何という大胆な言い訳だろう、とヴィクターは感心した。一度、怪我をしたミアを病院に運んでいったことを除けば、十数分前にこの区画で顔を合わせるまで、二人はろくに口も利いたことがなかったというのに。
だが、この嘘に乗らない手はないとヴィクターは即決した。
――僕たちは愛し合っているんです!
そう言って、ヴィクターは熱烈にミアを抱きしめてみせたのである。
――まあ、そうだったの!
――それは悪いことをしたわね。さあ、どうぞ続けてくださいな!
あからさま過ぎただろうかと不安になったものの、集まっていた人たちは拍子抜けするくらいあっさりとヴィクターたちの言い分を信じて解散していく。ヴィクターは安堵のあまり脱力しそうになった。
……と、ここまではよかった。だが、問題はそのあとだった。
――あの二人、すごく仲がいいらしいわよ!
――お似合いねえ。
――いつご結婚なさる予定なのかしら?
なんと、王城中に二人の熱愛の噂が広まってしまったのだ。
毎日のように好奇の目で見られ、偶然ミアの近くに行けば周囲がニヤつき、ヴィクターは頭を抱えた。不必要に目立つのは暗殺者にとって致命的なことである。
良くない兆候を感じ取ったヴィクターは、どうするべきか黄鉄鉱に相談した。すると、彼は投げやり気味にこんなことを言ってのける。
――いっそのこと、本当に結婚してしまえ。
こいつはバカかとヴィクターは心の中で罵った。そんな提案、ミアが了承するとは思えない。
なにせ、彼女はヴィクターと同い年の二十七歳だったのだ。
貴族であれ平民であれ、それくらいの年齢ならもう結婚しているはずだし、そうでなければ、その人は独身主義者の可能性が高い。少なくとも、周囲はミアをそんなふうに扱っているようだった。
だが、ものは試しとヴィクターはミアに求婚してみることにしたのである。
――あなたも変な噂を立てられて困っているだろう? 皆の関心をこれ以上引かないようにするために、形だけでも夫婦になってしまうというのはどうだろう?
それは、早い話が偽装結婚の申し出だった。ヴィクターは、当然ミアは笑い飛ばすだろうと思っていた。
――それ、いい考えね!
だから、彼女が即座にこの提案を受け入れた時は聞き間違いかと思った。自分から言っておいて、何を考えているんだろうとミアの正気を疑ってしまったくらいである。
まあ、ミアの正体を考えれば、彼女もヴィクターと同じように目立つ存在にはなりたくなかったのだろうと納得もできるのだが。
こうして二人は偽りの愛で結ばれた。すべては己の利益のためである。
過去を回想している間に、ヴィクターは目的地に到着した。王城の庭園の片隅にある柵で囲われた場所だ。
――私たちが逢い引きした場所でまた会いましょう!
ミアが言っていたのは、十中八九、この庭園の立ち入り禁止区域のことだろう。二人が「逢い引き」したのは一度きり。この庭に偶然居合わせたあの時だけなのだから。
ヴィクターは柵を乗り越えた。雨でぬかるんだ地面を調べると、足跡がついている。つい最近誰かがここに立ち寄ったのだろう。大きさからして、女性のようだ。
「ミアさん?」
ヴィクターは声を落として呼びかけた。返事はない。
この区画にはヴィクターの背よりも少し高い木がいくつも生えており、視界はあまり良好とはいえない。加えてこの天気だ。彼女がどこかに隠れていたとしても、すぐには気づかないだろう。ヴィクターは木立を分け入って進む。
そうしている間に雨脚が強くなり、ヴィクターはすっかりずぶ濡れになっていた。
この場所が立ち入り禁止になっているのは、何十年も前にここの区画の池で遊んでいた貴族の子どもが溺れかけたからだ。
といっても、その池は大人のヴィクターなら余裕で足がつく深さだし、ほかに危険なものがあるわけではない。
ヴィクターが警戒しないといけないものといえば、追跡者くらいだろう。
待ち伏せは考えなくてもいいはずだ。ミアと最後に会った時に居合わせた暗殺者たちは、皆ヴィクターの手で始末したのだから。ミアとどこで会うのか知っている者は誰もいない。
ヴィクターは区画をぐるりと一周したが、ミアの姿はなかった。手持ち無沙汰になったヴィクターは、池のほとりにたたずむ。
(まさか……彼女はもう捕まってしまったんだろうか? その挙げ句に殺されてしまった……?)
最悪の想像だった。ヴィクターは頭を振ってその考えを追いやろうとする。
その際に、地面に靴跡を見つけた。ヴィクターが立っている場所のすぐ傍に生えた木の根元だ。
気になったヴィクターは、その木を調べた。すると、洞の中に何かがあるのを発見する。ガラス製の小瓶だ。中には透明な液体が入っており、瓶には紙が巻きつけてある。
その紙を解くと、文字が書いてあった。
『ここに二人でいるのはいい選択とは思えませんから、私は安全なところに身を隠すことにします。一緒にいるとどうにも目立ちすぎてしまいますので』
その書き出しで、ヴィクターはこれはミアが残した置き手紙だと分かった。安堵の息を漏らす。きっと彼女はまだ無事だと直感したからである。
だが、一息ついている暇はなさそうだ。激しさを増す雨がミアの手紙を濡らしていく。インクがにじみ、文字がかすれ始めた。
この区画には、雨を完全にしのげる場所はない。ヴィクターは慌てて続きを読んだ。
『この瓶に入っているのは毒薬です。これを飲むと、一時間後に心臓が停止します。私たちは日付が変わる前にこれを飲まなくてはいけません。分かりますか? 心中しましょう、ということです。呪いに殺されるのは嫌でしょう? それに、死ねばもう組織から追われることもなくなりますから』
ここまで読んだヴィクターはポカンと口を開け、雨に打たれるままにしばらく立ち竦んだ。
やっと衝撃が収まった頃には、雨でインクが完全ににじんでしまい、もう手紙の文字は判別不能になっている。
(まだ先があったはずだが……)
そう思いつつも、目を通した部分の内容については、ヴィクターははっきりと覚えていた。
『私たちは日付が変わる前にこれを飲まなくてはいけません』
(まったく……ミアさんも無茶を言ってくれる!)
ヴィクターは笑いそうになった。
(この僕に自分から毒を飲め、だって? 冗談じゃない!)
ミアはヴィクターの過去について何も知らないからこんなことが言えたのだろう。でなければ、近親者に毒を盛られたヴィクターに、今度は自発的に毒を飲んでほしいなどと頼めるわけがない。
(ほのめかすだけじゃなくて、もっときちんと僕の身に起きたことについて話しておくべきだったな。それならミアさんもこんなことは言わなかっただろうに)
それとも、彼女はヴィクターの過去などとっくに察しているのだろうか。だとしたら、ミアもなかなか意地悪なことをしてくれる。
夫の気を引く目的で母に毒を盛られていると気づいたヴィクターは、もう誰にも利用されない強さを身につけるために、家を出て暗殺者になった。
そして心身共に鍛えたあと、彼は家に戻って、母のやったことはすべてお見通しだと本人に面と向かって言ってやったのだ。
それからというもの、今度から母は自分で毒を飲むようになった。もうヴィクターが自分の思いどおりになる幼い子どもではないと気づいたのだろう。
けれど、やはり夫の歓心を買うことはできなかった。それでも諦めずに、母は今でも毒を飲み続けているのだろう。そんなことをしていれば、その内に体が弱って死んでしまうかもしれないというのに。
そんな母を見ていられなくなり、ヴィクターは今度こそは本当に家出……というよりも両親と永遠に離れて暮らす決意をした。
つまり、両親と住んでいた領地の屋敷を出て、王都で一人暮らしをすることにしたのである。
母の異常な行動を知っていたヴィクターにとって、自分から進んで毒を摂取するなど論外だった。誰かに強制的に毒を飲まされるのと同じくらい避けたい事態である。
(僕は絶対にこんなものは飲まないからな)
ヴィクターは瓶の中身を捨てるために蓋を開けようとした。だが、手紙に書かれたある記述を再び思い出す。
『私たちは日付が変わる前にこれを飲まなくてはいけません』
(ミアさんもこれを飲むのか……)
だとしたら、彼女は一人で死んでいくことになる。ヴィクターは唇を噛んだ。
(僕たちがこれを飲もうが飲むまいが、どっちみち彼女の心臓が止まるのは避けられないじゃないか……)
ヴィクターは生き残るのは自分だと疑っていなかった。だとしたら、こんな薬を飲む意味はどこにもない。
(……こんなこと、ミアさんに直接言ったらまた喧嘩になってしまうだろうな)
ヴィクターは苦笑いした。ふと、彼女に会いたくてたまらなくなる。手紙に書かれていた「心中」という言葉が頭に浮かんできた。
ヴィクターは小瓶を軽く振る。飲んだ者を死に至らしめる毒が、中でちゃぷちゃぷとかすかな音を立てた。
(ミアさんは呪いなんかが僕を殺すのを許せなかった。だから、こんな薬を用意したんだ。それに、二人とも生き残れないのなら、いっそのこと一緒に死んだほうがいいとも思った……)
母に毒を盛られた幼少期のことが嫌でも脳裏に蘇る。母もミアも私利私欲のためにヴィクターに毒を与えようとしている。どうして自分はいつも同じことを繰り返してしまうのだろう、とヴィクターは嫌気が差した。
だが、今回は当時とは状況が違うと思い至る。
(この毒を飲むも飲まないも、僕の意思一つだ)
毒入りとは知らずに母の手料理を食べていた昔とは違う。今のヴィクターには選択の自由がある。
(もしかして、ミアさんはあえて僕に選ばせようとしているのか……?)
ヴィクターは自分が選べる道を一つずつ検証した。
(一つ目。僕は小瓶の中身には手をつけない。けれど、ミアさんは毒を飲むから……)
夫婦の片割れが期間内に死亡したら、もう片方の命もない。つまり、この選択をした場合、ヴィクターはあの世行きだ。
(二つ目。僕もミアさんも毒を飲む。……そして、二人とも死ぬ)
ヴィクターは大きく息を吐き出した。ミアの居所が分からず、彼女が毒を飲むのを止められない以上、今の彼が取れる選択肢はこの二つだけだ。
つまり、どうやってもヴィクターの命はないということである。
ヴィクターにできるのは、二つの悪い事柄から、よりマシなほうを選ぶことだけだった。
(それでも、選択は選択だ)
ミアはヴィクターが毒を飲むほうに賭けたのだろう。
ヴィクターなら自分と心中してくれると思った。呪いのせいで仕方なく死ぬのではなく、自らの意思でミアと一緒にあの世へ旅立つことを決意してくれると考えた。ヴィクターを信じたのだ。
信頼。
その言葉がヴィクターの胸に深く刺さった。どうしてミアはヴィクターを信じることができたというのか。彼女にとって、ヴィクターが特別な存在……夫だからか?
(愛しているから……?)
そう思い至った瞬間、ヴィクターはその場に崩れ落ちそうになった。
彼は気づいたのだ。自分が毒を飲むか飲まないかというのは表面的な事柄に過ぎない。大切なのは、ミアがヴィクターを信じたように、ヴィクターもまた、ミアを信頼するかどうかなのだ、と。
そして、今のヴィクターにとっての信頼とは、ミアに自分のすべてを委ねることだった。
(だったら、答えなんて決まり切っているじゃないか)
愛しても裏切られるだけ。愛した相手といえど、信用する価値はない。信頼に対して信頼で応えるなど、彼には無理だ。
ヴィクターは小瓶の蓋を開けた。瓶をそっと傾ける。中の液体が瓶の外に向かって、ゆっくりと流れていく。
(ミアさん……)
ヴィクターは今にもこぼれ落ちそうな液体をじっと見つめていた。この七日間の出来事に想いを馳せる。ミアと結婚してから三カ月たつが、この一週間は夫婦にとって一番濃密な日々の連続だった。
(これが僕の答えだよ)
ヴィクターは瓶の注ぎ口を自分の口に宛がい、中身を一気に飲み干した。
「まったく、僕も大概愚かだな」
ヴィクターは自分自身をあざ笑いながら、空っぽになった瓶を池に捨てた。手紙も細かく裂いて、同じく水の底に沈める。
(証拠隠滅はこれでよし)
すでに辺りは日が落ちかけている。ヴィクターは池の側に座り込んだ。
それから一時間後、ミアが約束したその時がやって来た。
先ほどまでの土砂降りが嘘のように空は晴れ渡り、月が明るく輝いている。ヴィクターは煌めく星空を見上げながら、鼓動が次第に弱くなっていくのを感じていた。
ヴィクターは目を閉じる。
そして、彼の心臓は止まった。





