仮面夫婦、追い詰められる(1/1)
帰宅しようとしたミアは、ボードマン家の周りに暗殺者がうようよしているのに気づいた。
(屋根の上に三人。街路樹の影に二人、通行人に紛れ込んだ五人……。もしかしたら、近くの建物の中から見張っている人もいるかもしれないわ)
路地裏に身を潜めながら、ミアは周囲を見回す。
(全員が『ジェスターズ・ネスト』の小鳥ってわけでもなさそうね。ひょっとしたら、『キャスケット』のメンバーも含まれているのかも。……ヴィクターさん、説得に失敗したのね)
予想はしていたが、状況は最悪なことになっているようだった。ヴィクターは無事だろうかとミアは不安を覚える。
不意に背後に気配を感じて、ミアはナイフを片手に素早く振り返り、躊躇うことなく相手に切りかかった。
だが、ミアの刃は弾かれる。そこにいたのはヴィクターだった。
「ヴィクターさん!」
ミアは一瞬で殺気を消し、笑顔になった。歓喜の叫びを上げそうになったが、近くに追っ手がいたと思い出して、急いで口に両手を押し当てる。ヴィクターが気軽な口調で「調子はどう?」と聞いてきた。
「よくないわ。あなたの暗殺中止を進言したら、逆に私が命を狙われることになってしまって……。あなたと私が一緒にいるところをうちのサロンの構成員が見たら、一石二鳥だと思うに違いないわ。だからヴィクターさん、早く逃げて」
「なるほどね。僕もミアさんに同じことを警告しようと思っていたよ」
「私は逃げるわけにはいかないわ。どうしても手に入れないといけないものがあるの」
ミアは屋敷の周りに油断なく視線をやる。大丈夫だ。まだこちらの存在には気づかれていない。
「僕の命とか?」
「毒薬の材料よ!」
こんな時まで飄々と振る舞うヴィクターに、ミアは口を尖らせる。
「私の部屋に保管してあるの。希少なものもあるから、ほかのところで代わりを探すことはできないわ」
犬を散歩中のやたらと目つきが鋭い男が近くを通り過ぎる。間違いなく暗殺者だ。気づかれただろうか。ミアの神経が張りつめる。
「毒薬の材料だって? どうしてそんなものがいるんだい?」
「あなたを助けるためよ!」
先ほどの男性が、郵便配達員の制服を着た男とすれ違う。その瞬間、二人が意味深長に目配せしたのをミアは見逃さなかった。郵便配達員がこちらに目をやる。
「よく聞いて、ヴィクターさん。追っ手くらいなら、私たち二人が協力したら、簡単に倒せるわ。でも、私たちが抱えている問題はそれだけじゃないでしょう? あと二日であなたは死んじゃうのよ!」
ミアは自分の右手の甲の『2』の刻印をヴィクターの目の前に差し出す。すると、ヴィクターは納得がいかなさそうな顔になった。
「何を言っているんだ。死ぬのはミアさんのほうじゃないか。僕のことが好きなんだろう?」
「でも、先に惚れたのはヴィクターさんじゃないの」
「いいや、そんなことはない。ミアさんが最初に僕を好きになったんだ。僕の手料理をあんなに美味しそうに食べていたのに、違うとは言わせないよ」
「胃袋以外は陥落してないわ! この私が任務に失敗するはずがないでしょう? 私は『先にヴィクターさんを落とす』っていう使命をきちんとやり遂げたのよ!」
「あなたも強情だな。素直に自分の負けを認めたらどうなんだ。この愛の全面戦争は僕の勝利だよ」
「何ですって!? それ以上いい加減なことを言うと……」
周囲に殺気が漂っているのに気づいて、ミアは口を閉ざした。
いつの間にか二人の周りに人が集まってきている。全員、手には武器を携えていた。
(しまった……。声が大きすぎたわね)
身を隠していたということも忘れ、二人が呑気に夫婦喧嘩をしている間に、敵に居場所を悟られてしまったらしい。ヴィクターは顔をしかめながら、懐から短剣を取り出した。
「ミアさんの用が済むには、どれくらいかかるんだい?」
「分からないわ」
ミアは武器を構えながら首を振った。
「材料はすぐに取ってこられると思う。でも、調合には少し時間がかかるかもしれないわ。少なくとも、暗殺者が大集合しているボードマン家ではできないし、人目につかない場所を探さないと……。だけど、何が何でも明日中には全ての用意を調えるわ。ヴィクターさんが死んでからじゃ遅いもの」
「いや、だから死ぬのは……」
近くにいた男性がミアに切りかかってきた。それをヴィクターが退ける。男性は、ヴィクターを信じられなさそうな目で見た。
「黒曜石……『キャスケット』を裏切るのか!?」
「愛のために、な。泣かせるだろう?」
冗談めかした口調で言って、ヴィクターは男性に武器を振り下ろして息の根を止める。
「これで僕も立派な反逆者だ。どう責任を取ってくれるんだい、ミアさん?」
「あとでキスでもしてあげるわよ」
「それは嬉しいね」
ヴィクターが素早い身のこなしで、ほかの暗殺者たちに切りかかっていく。
「ここは僕が何とかする。ミアさんは早く欲しいものを取りにいくんだ!」
ミアは一瞬、ヴィクターに加勢しようかと思った。だが、思い直す。こんなところで時間を取られるわけにはいかない。騒ぎが大きくなれば、敵の援軍がやって来るかもしれないのだ。
「屋敷内にも『キャスケット』のメンバーがいるから気をつけて。まあ、今頃彼らはブービートラップの餌食になっているだろうから、ミアさんの相手をするどころじゃないかもしれないけど」
あの罠の手強さはミアも身をもって経験済みだ。いくら暗殺者の集団とはいえ、苦戦すること間違いなしだろう。
「ヴィクターさん! 私たちが逢い引きした場所でまた会いましょう!」
ヴィクターが追っ手を始末して開いてくれた脱出路を走り抜けながら、ミアは叫ぶ。その心の中では、夫の無事を強く願っていた。





