仮面夫婦、標的を見つける(1/3)
「きゃあ! 痛い!」
中央棟の食堂で、ミアはわざと派手に転んだ。スープを皿に盛りつけていたヴィクターが、何事かと目を丸くする。
一日休みを取ったことで、ヴィクターはすっかり元気になったようだ。自由に動き回る夫を見て、ミアは心からの安堵を覚えていた。
「……何をしているんだ?」
「ああ、痛い、痛いわ! 自力で立てない!」
ミアは大げさに嘆いてみせ、足をこする。
「こんな時、抱きかかえて優しく椅子に座らせてくれる夫がいたらいいのに!」
ミアはヴィクターにチラチラと視線をやる。ようやく、彼は何が起きているのか察したようだ。
「分かったよ」
ヴィクターがミアのほうに手を差し伸べた。ミアは彼に横抱きにされるのだろうと思う。
だが、予想に反してヴィクターはミアを肩に担ぎ上げてしまった。
「ちょっと、ヴィクターさん! 私は魚じゃないのよ! こんな持ち方ってないじゃない!」
ミアはヴィクターの肩の上でジタバタと暴れる。ヴィクターは「大物だけあって活きがいいな」と呑気なことを言っていた。
(くっ……失敗だわ!)
椅子に丁重に乗せられたミアは腕組みした。
昨日ヴィクターが「心中」という恐ろしいセリフを口走ったせいで、ミアは生き残りたいという気持ちをますます強くしていたのだ。そのためには、何が何でもヴィクターの気を惹かなければならない。
こんなやり方は利己的だと批難されても、ミアにはほかに取れる手段など思いつかなかったのである。
(それに、ヴィクターさんだって人のこと言えないわよね?)
ミアを椅子の上に降ろしたヴィクターは彼女の頭をよしよしと撫でた。そして耳元で「残念でした」と囁く。どう考えても誘惑しているとしか思えない声色だ。
ミアは「くすぐったいわ」と言って、ヴィクターの顔の近くで手を振る。ミアから離れたヴィクターの顔には、「手強いな」とはっきりと書いてあった。
微笑み合いながらも、二人は次の一手を考えるように黙り込む。ミアの右手の数字は『3』となっていたが、まだこの愛の全面戦争に決着がつくことはなさそうだった。
「あら、これは……?」
ふと、ミアはテーブルの上に乗っているものに気を取られた。
三段重ねのケーキだ。全体にピンク色のクリームが塗られており、所々それがバラの形に成形されている。各段の上には真っ赤なベリーがお行儀よく並べられていた。
「看病してくれたお礼だよ。僕が作った。朝食のあとに二人で食べよう?」
「い、いいの……!?」
ミアはその場で飛び跳ねそうになった。こんなご馳走にありつけるなんて、と歓喜する。
けれど、すぐに申し訳なさがその感動に取って代わった。
「ヴィクターさんが倒れたのは私のせいなのに……」
「そういえば、看病してくれている時もそんなことを言っていたな。でも、それは間違っているよ」
ヴィクターが優しく笑った。
「あれは僕が悪いんだ。ミアさんには何の責任もない」
「だけど……」
ミアは、ヴィクターが寝込んだのは自分が使った毒のせいだと分かっていた。それなのに、ミアに責任がないなどということはあり得ない。
けれど、そのことを洗いざらい話して謝るわけにはいかなかった。「どうしてそんな毒を持っているんだ?」などと聞かれたら困る。ミアが暗殺者だということは絶対の秘密なのだ。
そういった事情があったから、曖昧な謝罪しかできないのがもどかしい。ミアは視線を泳がせる。
すると、しょうがないな、とでもいいたげな口調でヴィクターが「ほら、口を開けて」と言った。
ヴィクターの手にはスプーンが握られており、その先端にはピンク色のクリームがふんだんに塗られたスポンジが乗っている。テーブルの上の三段重ねのケーキの最上段が、いつの間にか欠けていた。
言われるままにミアは口を開ける。ヴィクターに差し出されたケーキを食べた。
上品な甘みが口いっぱいに広がっていく。その奥に隠されているのは爽やかな酸味だ。ミアは頬を緩める。人を和ませる味わいだ。
「美味しいかい?」
ヴィクターが感想を聞いてくる。ミアはそんな分かりきった質問には答えず、「ヴィクターさんって、ケーキはスプーンで食べる派なの?」と尋ねた。
「時と場合によるかな。でも、今はあえてフォークじゃなくてスプーンにした。先が尖ったものを人に向けたら危ないだろう?」
「それもそうね」
暗殺者であるミアは、「先が尖ったもの」の危険性について誰よりも理解があった。
「このケーキ、本当は朝食後に食べてもらいたかったんだけど、一口くらいなら構わないよね? ……さて、これでもう僕が寝込んでいた時の話はなしだ。お互いにこれからはこのことを話題にしない。たとえ、あなたが何を思っていようとね。……そういうことでいいだろう?」
「……分かったわ」
正直に話せない以上は、ヴィクターの提案に乗るのが一番だろうとミアは思った。罪悪感はあるものの、それに囚われ続けても仕方がないと気持ちを切り替える。
「じゃあ、朝食にしようか」
「そうね。私、お腹ペコペコよ。このご飯もヴィクターさんが作ったの?」
「もちろん。ちなみに今日のメニューは……」
二人は和気あいあいとしたムードで食事を始める。デザートのケーキも綺麗に平らげた。
その後、二人はお互いに人と会う約束をしていたため、別々に屋敷を出る。
今回も命がけの勝負に勝敗はつかなかったけれど、不思議とミアはいい気分だった。





