ヴィクター、ミアに看病される(1/2)
ヴィクターは夢を見ていた。
何十人もの無表情の男女がこちらをじっと見ている。彼らは過去にヴィクターが任務で殺した者たちだった。
(やめろ……。向こうを向いてくれ)
ヴィクターはいつもそう願うけれど、夢の中の死者がそれを聞き入れたことはない。黒曜石がしたことを批難するように、ただ無言でヴィクターを見つめているだけだ。
(やめてくれ……!)
夢の中でヴィクターは大声で叫んだ。それと同時に、頭の中で鐘の音が鳴り響く。
(十二時か……)
そう思うのと同時に意識が徐々に覚醒していく。死者の顔が薄らいでいって、ヴィクターは救われる思いだった。起きた時には、何の夢を見ていたのかもぼんやりとしか思い出せなくなっているだろう。
やがて完全に目が覚めたヴィクターは、反射的に左手の甲に刻印された数字を見ようとしたが、体が重くて言うことを聞かない。
それでも気力を振り絞り、ヴィクターは時間をかけて腕を動かした。
『4』
どうやら自分は随分と長い間、気を失っていたらしい。ミアと作った料理を食べている時に具合が悪くなり退席したところまでは覚えているが、その後の記憶が曖昧だ。たちの悪い風邪でも引いたのだろうか。
(いや、違う……)
ヴィクターは居酒屋で小夜啼鳥と遭遇したことを思い出した。
(小夜啼鳥の仕業だ。彼女は毒の使い手なんだから……)
ヴィクターは戦闘中にうっかり傷を負ってしまったのだ。きっと、小夜啼鳥の武器には毒が塗ってあったのだろう。
そんなことに気づきもしないで妻とのほほんと過ごしていたなんて、自分はなんと愚かなのだろうとヴィクターは自己嫌悪に陥った。
(だが、どうして僕は助かったんだ?)
小夜啼鳥の毒を受けて生き延びたなんて、奇跡でも起きたとしか思えなかった。
彼女はいつか倒さなければならない標的とはいえ、その実力はヴィクターも高く評価している。小夜啼鳥が盛った毒が充分な効力を発揮しなかった、などという事態は考えづらい。
考えにふけっていたヴィクターは、部屋の中に自分以外の気配がすると気づいて身を硬くした。
(まさか、小夜啼鳥か……?)
手の届くところに武器がないことに焦りを覚えながらも、ヴィクターは息を殺して相手の出方を待つ。だが、すぐに向こうの正体に気づいて警戒を解いた。
(なんだ……ミアさんか)
妻と小夜啼鳥を間違えるなんて、自分はよっぽど弱っているらしい、とヴィクターは苦笑いした。確かに背格好は同じくらいだが、二人にはほかに何の共通点もないではないか。
「目が覚めたの、ヴィクターさん?」
ミアが傍に来た。手に持っていたコップを差し出し、「飲んで」と言う。
「……中には何が入っているんだ?」
ヴィクターは顔を引きつらせながら尋ねた。コップの中身はドロドロとした薄緑色の液体だ。とてもではないが、人間が口にしていいものだとは思えない。
「お薬よ。私が作ったの」
「ミアさんのお手製か……」
ヴィクターは眉をひそめる。彼女の手料理で死にかけたことがあるヴィクターとしては、こんなものを飲むのは遠慮したいところだった。
だが、それとは別にこれを口に入れるのを躊躇してしまう理由がほかにもある。
「前にも言ったよね? 僕は他人が作ったものは……」
「ワガママ言わないの! いいから飲む!」
ミアがヴィクターの口元にコップをぐいっと近づけた。
「私、ヴィクターさんに死んでほしくないわ」
ミアがあまりに切実な声で訴えるものだから、ヴィクターも折れないわけにはいかない。渋々コップを受け取り、中身を一気にあおる。
(まずい……)
見た目どおり、味もひどかった。だが、この間彼女が作ったシチューよりはよっぽどマシだ。
(シチューといい薬といい、どうして僕はミアさんの作ったものは最終的に口に入れてしまうんだ? 彼女なら僕に何もしないだろうと無意識の内に判断しているからか?)
水差しから汲んだ水を一口飲み、ヴィクターは口の中に残った薬の苦みを洗い流す。確かにひどい味だったが、今は不思議と気分がよかった。ただの思い込みかもしれないが、もしかしてもう薬が効いてきたのだろうか。
(料理は苦手でも、ミアさんには薬を作る才能はあるのか。小夜啼鳥の毒を浄化するなんて並みの人間にできることじゃない)
ヴィクターは自分が命を取り留めたのは、ミアの薬のお陰なのだと気づいた。妻に対する感謝の念が湧き起こってくる。
「汗かいたでしょう? 着替えを持ってきましょうか?」
「いや、いいよ」
ヴィクターは急いで首を横に振った。彼のクローゼットの中には、変装で使うローブや仮面がいくつも置いてあるのだ。一応隠し扉の中に入っているとはいえ、うっかりミアに見つかったら言い訳を考えるはめになってしまう。
「そんなに気を使わなくていいんだよ。僕ならもう平気だ。あなたも疲れているだろう? 自分の部屋に帰って、休んでくれ」
「そういうわけにはいかないわ」
ミアは夫の提案を断固とした調子で拒否したが、ヴィクターは食い下がる。
「僕は誰かから看病されるのは好きじゃないんだ。いいから早く出ていってくれ」
うっかりキツい言い方をしてしまい、ヴィクターはしまったと思った。ミアは塩をかけられた葉物のようにしゅんとなってしまう。
「ごめんなさい。私のせいでこんなことになって……」
「何を言っているんだ。ミアさんは悪くない。僕の不注意が原因だよ。……こちらこそすまなかった。あなたを傷つけるつもりはなかったんだが……」
すべては小夜啼鳥と彼女の攻撃を完全に防ぎきれなかった自分に落ち度があるのだ。ミアにはなんの責任もない。
「お願い、ヴィクターさん。もう少しだけでいいから傍にいさせて。今は安定しているけど、容態が急変することだってあり得るのよ。そうなったら私……」
ミアが頭を下げて頼んできた。声が震えている。泣いているのだろうか。
(演技か……?)
すぐにそんな考えが頭をかすめたけれど、ヴィクターにはミアを信じたい気持ちもあった。しばらく迷った末に、「分かったよ」と呟く。
ミアの表情が一気に晴れやかなものとなった。ヴィクターの体に毛布をかけ直したり、体温を測ったりと、献身的に夫の周りを飛び回り始める。
そんな妻の姿を見ながら、ヴィクターは深く息を吐き出した。
(毒にやられて寝込むなんていつ以来だ?)
昔の嫌な出来事を思い出して、ヴィクターの気持ちが塞ぐ。
けれど、ミアがタオルで額の汗を拭いてくれる感覚がどうにも心地よくて、すぐに不快な気分は吹き飛んでいった。
(……いけないな。すっかりミアさんにほだされてしまって……)
これでは毒の脅威からは逃れられても、愛のために命を散らしてしまう。そんなのは絶対にごめんだ。
生き延びるため、ヴィクターはわざと意地悪なことを言った。
「僕は体が丈夫なんだ。そんなに優しくしなくても、死んだりしないよ。まあ、死なれたら困るのは分かるけどね。ミアさんにとって僕は、あと四日は生きていてほしい相手なんだから」
七日以内に夫婦のどちらかが死ねばもう片方も命はない。この呪いには、そういう理不尽な条件がついているのだ。
ヴィクターは、こう言えばミアはあっさりと肯定するだろうと思っていた。そうすれば、自分が抱きかけているこの甘やかな気持ちを断ち切ることができるだろう。
だが、ミアは予想外のことを言い出した。
「そんなこと、考えてもみなかったわ」
ミアは心底驚いているようだった。椅子から腰を上げかけた不自然な体勢で固まっている。
その反応にヴィクターは困惑しながら尋ねた。
「考えてもみなかった? じゃあ、本気で僕のことを好きになったから、こんなに熱心に看病してくれるのか?」
「……」
冗談めかして聞いたのにミアが黙ってしまったものだから、ヴィクターは気まずい思いをせずにはいられない。「何か言ってくれ」と頼むと、ミアはサイドテーブルから薬の入ったコップを手に取った。
「はい、これ」
「また解毒剤か? さっきも飲んだのに……」
「あの時とは別のものよ。さあ……」
ミアがヴィクターの唇に無理やりコップを押し当てる。中身が今にも鼻に入りそうになり、ヴィクターは顔を背けた。
「どうせ飲むなら、もう少しまともな味がするものがいいんだが……」
「好き嫌いが多いのね」
ミアは呆れ顔になった。
「分かったわ。私が作ったすごく美味しいジュースに混ぜてあげるわよ。それなら飲めるでしょう?」
「それだけはやめてくれ。トドメを差されてしまう」
ヴィクターは急いでコップを受け取って、薬を飲み込んだ。やはりひどい味だ。
「もう少し寝たほうがいいわ。体力を回復させないとね」
ヴィクターが薬を飲み干すのを見届けると、ミアは夫の頭のてっぺんまで毛布を掛けた。その上からヴィクターの頭をポンポンと叩く。まるで幽霊を怖がる子どもを慰める母親のようだ。
ドアが閉まる音がした。どうやらミアは退室したらしい。
(一体何だっていうんだ……)
ソワソワと落ち着かない気持ちになりながらも、ヴィクターは目を閉じる。そうしている内に、彼はいつの間にか眠りに落ちていった。
****
「情報をくれないか?」
毒を受けたヴィクターが寝込んでいた頃。貧民街にある居酒屋『チャビー・ベアー』を一人の男が訪れていた。
居酒屋の店主である情報屋は、男を素早く観察する。
どこにでもいそうなぱっとしない太り気味の容姿。前歯が出ている顔は小動物のようだ。背丈はせいぜい情報屋の顎くらいまでしかなく、ハゲかけている頭部には緊張のためか汗が浮かんでいた。
身につけているものも、少々粗末だという以外は、これといって特徴のない服である。みすぼらしいというほどでもないが、そこまで懐具合のよくなさそうな身なりに情報屋は内心で落胆した。
いつものように肝心なところにはなかなか触れず、できるだけ相手から金を搾り取る作戦もこの男が相手では効果が薄いだろう。
どうやら今回は、あまり実りのいい取引にはなりそうもない。ここは適当にあしらうことにしよう、と情報屋は決めた。
「何が知りたいんだい?」
「ある二人の大物暗殺者のことだ。小夜啼鳥と黒曜石。もちろん、あんたはそいつらの情報も持ってるんだろう?」
「俺が情報を持ってるか、だって? それはあんたが出す金次第で決まるね」
またあの二人について知りたい奴が来たのか、と情報屋は思った。昨日も怪しい格好の者たち――黒ずくめのハーフマスクの男と鳥の仮面をつけた女が接触してきたことを思い出す。
といっても、情報屋は彼らの正体を見抜いていたのだが。ボードマン夫妻は探しているターゲットが自分のすぐ近くにいると知ったら、どのような反応をするのだろうか。
「金なら奮発しよう」
客の男は憑かれたような目つきで言った。
「俺はもうあとがないんだ。デカい失敗をしでかしたせいで、組織の上層部に目をつけられちまった。そのやらかしと帳消しになるくらいの手柄を立てないと、命が危ないんだよ……!」
男は情報屋が自分にあまり関心を払っていないのが分かったのか、気を引こうとするように窮状を語る。どうやらこの男もどこかの暗殺者の組織に所属しているらしい。
「で、小夜啼鳥と黒曜石に目をつけたってわけか。あいつらを暗殺するつもりだな? 確かにあの二人を消すことができたら、裏世界での地位も上がる。あんたの組織のお偉いさんも鼻が高いだろうよ。……よし、事情は分かったぜ」
情報屋は表面上は協力的な素振りを見せつつも、心の中では舌なめずりをした。
この手の追い詰められた客はいいものだ。足元を見られていると気づかないことが多いのだから。これは第一印象に反してたんまりと稼がせてもらえそうである。
情報屋を味方につけることができたと錯覚した男は、安心したように重そうな麻袋を机の上に置いた。
銭が触れ合う小気味よい音がする。この音を何よりも愛している情報屋は、こうした秘密の取引にはあえて硬貨を使うように客たちに伝えてあった。
「それじゃあ、何から話そうかね……」
情報屋は貪欲な獣のような目で麻袋の中身を確認する。そして、上機嫌になった。頭の中では早くも、この取引が終わる頃にはこの袋がいくつ机の上に積み上がっているだろう、と考えていた。





