仮面夫婦、呪われる(1/2)
「本当にボードマン夫妻は仲がいいですわねえ」
王城の大広間では、今日も華やかな宴が開かれていた。噂好きな貴婦人たちが、ある夫婦を見て話をしている。
妻の名はミア。
やや童顔気味で、二十七歳という年齢に比べて少し幼く見える女性だ。前髪が眉よりもずっと高い位置で切られているためかもしれない。
身長は平均的。顔のパーツが全体的に小作りのため、目の大きさが際立っている。彼女の薄茶色の長いまつげに縁取られた青い瞳は、いつも何かを夢想するように潤んでいた。
まつげと同じ色の髪は顎よりやや長めで、毛先がふんわりとカールしている。
どちらかといえば平凡な容姿をしているミアに対し、夫のヴィクターは美形だった。
妻と揃いのデザインの白い衣服を着こなす体は細身ながらも筋肉質で、仕草の一つ一つまで洗練されている。優しい蜂蜜色の瞳をしていて、右の目元にはホクロがあった。
髪は金色。長さはミアと同じくらいだが、後ろで小さく一つ結びにしており、前髪は真ん中で分けている。
相手の腕に自分の腕を絡ませ、周囲ににこやかに挨拶をしつつも、出口へと向かう二人を見て、貴婦人たちは首を傾げた。
「お二人とも、もう帰るのかしら? まだパーティーは始まったばかりだというのに」
「仕方ありませんわ。早く二人きりになりたいんでしょう。まだ結婚して三カ月ですもの」
「婚姻前から愛し合っていたものね。立ち入り禁止の庭でこっそり逢い引きしていたくらいなのですから」
ボードマン夫妻が退室していく。貴婦人たちの興味は、新たな噂話の種へと移っていった。
****
馬車の中に入るなり、ボードマン夫妻は組んでいた腕をすぐさま離した。シートの端と端に座り、無言で馬車が動き出すのを待つ。ミアは先ほどのパーティーで見た光景を思い返していた。
(情報どおり、財務副大臣はあの宴に参加していたわね)
ミアは馬車の小窓から外を眺めながら、副大臣の姿を頭に描く。今にもはち切れそうな樽のような体。彼がひっくり返ったら、部屋の一番奥まで床をゴロゴロ転がっていきそうだ。
(本当はあの場で始末したかったけど、ヴィクターさんがいたんじゃね)
ミアは離れたところに座る夫に視線を移す。ヴィクターは膝の上に乗せた本から目を上げる気配はない。まるで車内には自分しか乗っていないかのような振る舞いだ。
(仕方ないわ。あとで出直しましょう)
馬車が止まり、降車する。
ミアとヴィクターは一言も言葉を交わすことなく、屋敷の中に入った。正面玄関の左右から伸びる階段の内、ミアは右側を、ヴィクターは左側をそれぞれ上がっていく。
ボードマン家は中央の棟を挟む形で東棟と西棟に別れており、夫妻はその東西の棟をそれぞれの生活区画として使っていた。東棟はミア、西棟はヴィクターの居住スペースだ。
お互いの居住区画へ移動する間も、二人は一切相手に関心を払わない。使用人も主人たちのそんな態度を特におかしいとは思っていないらしく、平気な顔をしていた。
先ほどのパーティーの出席者がその様子を見たら、あんぐりと口を開けて「あのオシドリ夫婦がケンカでもしたのか!?」と言うかもしれないが、二人は結婚した当初からずっとこうだった。
なにせ、彼らの婚姻は偽装だったのだから。
致し方ない事情があったから結ばれただけ、というあまりロマンチックでない経緯に相応しく、その後も二人の間に愛が芽生えることはなかった。
その結果、ミアとヴィクターは外にいる時だけ仲睦まじいカップルを演じる仮面夫婦となったのである。
ミアは飾り気のない東棟の廊下を進む。廊下の奥にある散らかり放題の自室へ入ると、部屋の窓を大きく開け放った。
ミアは外に誰もいないのを確かめてから、月の輝くバルコニーに出る。
レンガの壁の細かな凹凸を手がかり、足がかりにして下っていき、夜の庭に降り立った。ドレスについた土埃を軽く払い、破れたりほつれたりしているところがないか確認する。
屋敷を出たミアは一際暗い路地を選んで移動し、少し前にお暇したばかりの王城へ戻った。誰にも見つからないように廊下を抜け、パーティー会場の広間が見える控えの間にたどり着く。
扉の影から密かに様子をうかがうと、お目当ての副大臣が酔いでも覚まそうとしたのか、一人で庭園に出るところだった。
(チャンスだわ)
いつもならどうやってターゲットをおびき寄せようかと頭をひねる場面だが、今日は幸先がいい。ミアは近くのテーブルから素早くワインの入ったグラスを拝借すると、副大臣を追って庭に出た。
「これはこれはボードマン夫人」
ミアの姿を認めると、副大臣は赤ら顔に人のよさそうな笑みを浮かべた。
「てっきりお帰りになったかと思っていましたが」
「あら、そうでしたか」
ミアはすっとぼけながら副大臣にワインを勧めた。人からのもらい物は断れないタイプなのか、彼は何も疑わずにグラスを受け取り、中身を一口すする。
(十、九、八……)
ミアは頭の中で秒読みを始めた。そんなことはつゆ知らず、副大臣は呑気に話をしている。
頭の中のカウントダウンがゼロになった瞬間に、副大臣の手からグラスが転がり落ちた。ワインの残りが芝生にこぼれる。みずみずしい緑の葉に真っ赤な液体が飛び散る様は、この先の副大臣の運命を暗示しているようだった。
副大臣が喉を押さえ、地面に膝をつく。
「ボ、ボードマン夫人……、医者を……」
この段階になっても、副大臣はミアを疑っていなかった。きっと、急病か何かだと思ったのだろう。その人のよさにミアは哀れみを覚える。
「すみません、副大臣。あなたには何の恨みもないのですが……」
ミアはまとっていた白いドレスを素早く脱いだ。
服の下に着込んでいたのは、首、手首、足首をすっぽりと包む、体にピタリとしたデザインの皮の黒衣だった。ミアは太ももに巻きつけていたベルトからナイフを引き抜く。
「これも仕事なんです。大人しく死んでください。……ただ、その前に一つだけ質問に答えてくれますか?」
「死んでもらうだって……!? あなたは一体……。ま、まさか暗殺者……!? お、お願いだ! やめてくれ。誰か助けてくれ……!」
ようやくミアの正体を悟った副大臣が目を見開いた。喉の奥からガラガラした声を出す。騒がれてもミアは動じなかった。宴の会場から漏れてくる騒音が、副大臣の必死の叫びを掻き消すことは計算済みだ。
「私がいなくなれば、財務大臣はどのような無茶な法律を作るか分からない! 犬を飼っている者は税金を十倍にするとか、黄色い服を着ている日は、王室に金の延べ棒を納めなければならないとか……。そんなことになったら国中が大混乱だ!」
「……でしょうね」
そういう最高にバカバカしい事態を招くためにあなたを殺すのだから、とはかわいそうでとても言えなかった。ミアはナイフを副大臣の喉元に突きつける。
「苦しいでしょう? そろそろ本格的に毒が回ってくる頃ですから。質問に答えてくれたらすぐに楽にしてあげますよ。……あなた、『黒曜石』という人物を知りませんか?」
「こく……よう……?」
「『キャスケット』という組織の構成員です。私の同業ですよ。副大臣クラスになれば、そういったところに仕事の依頼をすることもあるでしょう?」
「わ……私が暗殺の依頼だって……? 冗談じゃない……!」
「……つまり、知らないんですね」
今回もハズレだ。ミアは落胆しながら副大臣の喉をナイフで掻き切った。黒衣と芝生に返り血が跳ねる。
放っておいても毒でやられてあの世行きだったが、念には念を入れなければならない。前に一度、最期の力を振り絞ったターゲットに怪我を負わされて以来、ミアは慎重に事を運ぶようになっていた。
ミアはナイフや服についた血をハンカチで綺麗に拭うと、再びドレスを着込んだ。死体には一瞥もくれずに、来た時と同じく誰にも見られることなく帰宅する。
ミアは屋敷を出た時のように、壁を伝って窓から自室へ帰った。仕事の首尾は上々だ。唯一、欲しかった情報が手に入らなかったことだけが悔やまれる。
「ミア様、お客様がいらしていますよ」
ドアにノックの音がしたものだから、ミアは慌てふためいた。ちょうど、黒衣を脱ごうとしていたところだったのだ。
「すぐに行くわ」
「かしこまりました。中央棟の客間までお越しください」
使用人の足音が遠ざかっていく。ミアは胸をなで下ろした。
一般的な貴族と違い、ミアは着替えに人の手を借りることはないし、仕事着も自分で洗濯している。
ヴィクターと仮面夫婦であることは使用人には周知の事実だが、彼女の裏の顔までは夫も含めて誰も知らない。ミアが暗殺者であることは絶対の秘密だった。
服を変えただけでなく体も軽く洗ってから、ミアは東棟を出て中央棟へ向かう。すると、客間の前でヴィクターと鉢合わせた。
(呼ばれたのは私だけかと思っていたんだけど……)
もしかして、夫婦二人の客だったのだろうか。一日に二回も夫と顔を合わせるなんて、今日は奇妙な一日だ。
どちらからともなく腕を絡み合わせ、二人はいかにも仲良しカップルといった笑顔の仮面を貼りつける。ミアは表情を作るのは得意ではないが、冷め切った夫婦仲を相手に悟らせないためには仕方のないことだった。
「あら、ナイジェルさん……」
客間に入ると、中で待っていたのはミアの知り合いの男性だった。彼の顔をこんなところで見るとは思っていなかったミアは戸惑う。
ナイジェルは絡み合った二人の腕に視線をやると、紅茶のカップを乱暴にソーサーの上に置いた。
「よう、お二人さん」
ナイジェルはミアだけではなくヴィクターにも声をかけた。夫の交友関係などまるで把握していないミアだが、どうやらナイジェルはヴィクターの知り合いでもあるらしいと気づく。
「随分と仲がよろしいことで」
「いや、それほどでも……」
ヴィクターがセリフを途中で切った。ナイジェルの言葉にトゲがあると気づいたからだろう。
ヴィクターの腕がかすかに強ばるのを感じる。ミアも警戒心を強くした。今のナイジェルから漂っているのは、殺気としか表現しようのない負のオーラだったからだ。
ミアはナイジェルが武器を携帯していないか素早く観察した。だが、彼が持っているのは一冊の古びた本だけだった。角で殴られたら痛いかもしれないが、死ぬことはなさそうだ。
もっとも、背表紙やページの間に危険物を仕込んでいないとも限らないが。
「俺の前でも見せつけてくるなんて感じが悪いな。まったく嫌な夫婦だ」
夫妻がナイジェルの向かいに並んで座ると、彼は敵意を剥き出しにした。ミアはふと不安な気持ちになる。
(ナイジェルさん……。まさか、私たちが仮面夫婦だって気づいたのかしら?)
ミアは眉をひそめる。
(それで私たちを脅迫しにきたとか? ……どうしましょう? 殺す?)
暗殺者らしく、ミアの思考はすぐさま物騒なところへ飛んだ。
(でも、息の根を止めるにしても、ヴィクターさんの前ではまずいわね。ここはしばらく話を合わせて、相手の出方を見ましょう)
ミアの決意も知らず、ナイジェルは憎々しげに語り始める。
「ミア……一年前のことを覚えているか? お前は思わせぶりな態度で俺を誘惑した。それなのに、しばらくしたらあっさり離れていきやがって……」
「あら、誘惑なんてしていないわ」
ミアは嘘を吐いた。
ナイジェルの言うとおり、一年前のミアは彼に気のある素振りを何度も見せていた。といっても、本当にナイジェルが好きだったわけではなく、彼の持っている情報が欲しかっただけだ。
ナイジェルは顔が広いことで有名だった。当時、ミアはある商人の命を狙っていたのだが、彼の詳しい情報をナイジェルなら持っているだろうと思って接触したのである。
本当なら色仕掛けなど不得手なミアだったが、ナイジェルはすんなりと引っかかってくれた。
まあ、無理もないかもしれない。身も蓋もない言い方をしてしまえば、ナイジェルは醜男だったのだ。まるで顔に鉄球が直撃したように、鼻は潰れ、目も埋没している。今まで彼は、一度たりとも女性に言い寄られたことなどなかったはずだ。
しかし、ナイジェルがここまで執念深い性格だったとは知らなかった。ミアがほかの男性と結ばれた時点で、端から脈なしだったと諦めてくれればよかったのに。
それどころか家まで押しかけてきて、夫の前で恨み言を口にするなんて想定外だ。
「それにお前もだぞ、ヴィクター」
驚いたことに、ナイジェルはミアの夫にも憎らしそうな目を向けた。
「お前、ミアが去っていったあとで俺を慰めたよな? それなのに、どうしてそいつと結婚したんだ? しかも、二人はずっと昔から愛し合っていたと宮廷中が噂しているじゃないか」
「いや、それは……」
「黙れ! 言い訳は聞きたくない!」
ナイジェルはヴィクターの話を遮り、拳でテーブルを叩いた。ティーカップがカタカタと揺れる。
「お前たち、裏で繋がっていたんだろう! 俺をバカにして笑っていたんだな!?」
「ナイジェルさん、それは誤解よ」
「まったくだ。少し落ち着いてくれ」
(何はともあれ、ナイジェルさんを殺す必要はなさそうね)
ミアは冷静に判断する。ナイジェルはミアたちの秘密に勘づいたわけではない。ただ嫉妬に駆られているだけだ。
大体、ミアはヴィクターと結婚するまで、彼とは満足に話したこともなかったのだ。それなのに、影で手を組んでいたはずがないではないか。
ヴィクターが失恋したナイジェルに優しくした、というのも、大方ナイジェルの傷心が作り出した妄想だろう。
「落ち着けだと? どの口が言うんだ! まさか、お前たちは本当は愛し合ってなどいないから、俺が気を揉むことなど何もないとでも言いたいのか!?」
ナイジェルがヒステリックに叫んで、傍らの本を手に取った。ミアは緊張をみなぎらせる。
(まさか、本当に仕込み武器が……!?)
ミアはとっさにガーターベルトに挟んでいたナイフにドレスの上から触れる。ナイジェルの一挙手一投足を見逃すまいと、大きな目を険しく細めた。
「呪ってやる……。お前たち二人とも……!」
ミアは本の表紙に書かれたタイトルに目をやった。
『黒魔術大全』
ミアは初めて焦りを覚える。飛んでくるのが拳や毒矢ならやり過ごせる自信があったが、呪いの防ぎ方は知らなかったのだ。
ナイジェルが低い声で呪文を呟いた。途端に、ミアの右手の甲に焼きごてでも押し当てられたような激痛が走る。
暗殺者として痛みに耐性はあったが、いきなりのことで身構える暇もなかったため、ミアは「きゃ……!」と悲鳴を上げた。
「ナイジェル、何をした……?」
普段は穏やかなヴィクターが剣呑な声でナイジェルに詰め寄る。ミアが傷つけられたから怒ったのではないだろう。ヴィクターは怪我したところを庇うように、自分の左手の甲を押さえていた。
「お前たちに呪いをかけたんだ! 見てみろよ、自分の命があとどれくらいなのかを!」
ナイジェルは正気を失っているとしか思えない声色になっていた。何を言っているんだと訝しみつつも、ミアは何気なく痛みが引いた右手の甲に目をやる。
『7』
ミアの白い手の甲に、タトゥーでも彫ったように数字が刻印されていた。今まではなかったものだ。
「……何だ、これは」
ヴィクターも呆然となっている。彼の左手の甲にも『7』の数字が刻まれていた。
「お前たちの命はあと七日だ」
ナイジェルはニタニタ笑いながら言った。
「お前たちは俺をあざ笑うためだけに結婚した、仮初めの夫婦だもんなあ。だが、偽物の夫婦ではあっても、これから先、愛が芽生えるかもしれない。俺を散々笑いものにしておいて、そんなの許せるわけないだろう?」
「何を言っているのよ」
この私が誰かを愛するなんてバカらしい、とミアは心の中で反論する。ナイジェルはミアの話など聞かなかったように続けた。
「だから、俺はお前たちに呪いをかけた。愛があってもなくても七日後に死ぬ呪いだ。ざまあ見ろ! ハハハハッ!」
ナイジェルは狂気の高笑いを残して客間から走り去った。呆気にとられていたミアとヴィクターが慌てて彼のあとを追いかける。ミアは「待ちなさい!」と声を荒げた。だが、返ってきたのは罵倒だけだった。
「破滅しろ、悪党ども! 冷たい結婚の罰を受けるんだ! 二人の間に愛が生まれた瞬間が、お前たちの地獄の……」
地獄の何なのかは聞けなかった。通りを猛スピードで走ってきた馬車がナイジェルの体を弾き飛ばしたからである。
宙を舞ったナイジェルは石畳の上に勢いよく叩きつけられた。首が明らかにおかしな方向へ曲がってしまっている。もう生きてはいないだろう。
「ああ、なんということだ……!」
御者がまっ青になって馬車から降りてきた。ボードマン夫妻は顔を見合わせる。ミアだけでなく、ヴィクターも直感していたのだろう。どうやら自分たちは大変なことに巻き込まれてしまったらしい、と。





