六十八話 不器用な二人の話。
休み時間はタイミングが合わず話しかけられなかったので、俺は昼休み、いつも通り屋上前の階段に座ると口火を切った。
「静乃、放課後一回きちんと話さねえ?」
「……分かりました」
いただきます、と静乃は弁当に手を添えた。黙々と食べ進める彼女を横目に、俺はなにか話しかけることなく、彼女と同じように食べ始めた。
――午後の授業のあと、放課後。
すっかり日が落ちるのが早くなった。
薄暗い空の下駅前のカフェに立ち入り、俺は静乃と向き合った。
紅茶を互いに一杯ずつ頼む。届くまで沈黙が続いていた。
気まずさは不思議と感じない。
カフェの音楽の耳心地がいい。落ち着いた色調で構成されたカフェ店内は非常にくつろぎやすい。椅子もそれなりに居心地がいい。
静乃は、紅茶が来るまでいつも持ち歩いているメモ帳になにやらペンを走らせていた。やや前髪で隠れがちの黒い瞳は、眼鏡の奥で熱を帯びた。少しはねた三つ編みは胸前まで伸びていて、いつものように静謐とした品のある雰囲気を纏っていた。
早くに紅茶が届いた俺は、一人ちびちびと飲み進める。美味しい。
とはいうものの、静乃の紅茶が届くまでそれほど時間は必要なかった。精々が数分の差だろうか。
店員から静乃が紅茶を受け取り、こくりと飲むのを見て、俺は話を切り出した。
「静乃、考え事をしてたって言ったよな。どんなことを考えてたんだ? 洗いざらい吐き出してくれ。俺もそうするから」
「……そうですね」
静乃はカップをそっと置いた。
「弦也くん」
「おう」
姿勢を正してこちらをまっすぐ射抜く静乃につられ、丸まっていた背筋を伸ばす。
「人を好きになる、ということはどういうことですか? いえ、違います。恋愛対象として好きな人と、人間的に好きな人とでは、一体何が違うのですか?」
静乃は言葉を選ぶように視線を泳がせ、再び俺と目を合わせた。
「私は人が好きです。ずっと見ていたい、観察していたいと思います。どれだけ深掘りしても完全に理解しきることはないからです」
明瞭で滑舌がはっきりした声。聞き取りやすいお手本のような抑揚。
「だから私は弦也くんのことだって好きですし、友達として大好きです。いい人だと思います。私風情にだって優しく接してくれるからです。私の好きなことの話を聞いてくれるからです。それから、弦也くんが好きなことを話しているのを聞くのも好きです。好きなことを語っている人ほど魅力的な存在はありません」
静乃の言葉の纏った熱が、徐々に白くなっていく。
「弦也くんと過ごす時間が私は好きです。一緒になにかをしていなくても、ただ各々好きなことをしているだけでもいいんです。貴方が傍にいる空間が心地良いんです。けれども、恐らく私は弦也くんがいなくたって生きていけますし、独占欲を抱くことも、もっと触れていたいと思うことも、少なくとも現状はないと思うのです。弦也くんの言葉に嬉しくなって鼓動を早めることはあっても、それはドキドキと形容するようなものではありません。弦也くんがコンクールで賞を取れたときのような、認められたことへの感動です」
言葉を選ぶ間もなく、静乃はすらすらと言葉を重ねた。表情にはどこかしら必死さが見て取れる。ぎゅっと三つ編みを握りこんでいた。
「よく分かりません。好きってなんですか。私が今抱いているのは恋愛感情なのですか? 一週間後には分かるものですか? そんなわけはありません。ではどうしたらこの感情が分かるのでしょうか。待たせて弦也くんに迷惑をかけたくありません。でも中途半端に近づいて傷つけるのも嫌です。変に私が傷つくのも嫌です」
静乃はふっと息を吐きだした。
「そういうようなことをぐるぐると、ぐるぐると考えていました」
声がどんどん小さくなっていった。
「私はつい考えすぎてしまう癖があるので、脳がどうにかなりそうです。でも、一つだけはっきりしている怖いことがあります」
泣きそうな雰囲気で、静乃は俺をまっすぐ見つめた。
「何よりも、それで貴方との関係が変わるのが怖いのです。もしも私が恋愛感情を抱いていなかったとしたら、貴方は離れて行ってしまうのでしょうか。この先、貴方の想いが風化して、誰かを好きになったとします。将来、そんな貴方に私は関われるのでしょうか。今のままがいいのは我儘でしょうか」
俺は思わず固まった。
ああ、俺は間違っていたのか。人のことを好きになるなんて初めてだったから、間違えた。
でもまだ失敗だったと笑える。やり直せる。
俺は、不器用なりに笑みを浮かべた。
「俺も、静乃と同じだ。このままがいい。だから、関係を無理に変える必要ねえ」
静乃はぱっと目を見開いて、ほっと、心底安心したような息を長く吐き出した。若干自分に呆れたような表情で、
「そうですか。よかった。……私が一人空回っただけですか」
「いや。多分俺も一緒に空回ってた」
改めて考えると馬鹿みてえ、と俺はぎこちなく苦笑した。
恋人って言葉に踊らされすぎた。好きって感情を特別視しすぎてた。
あれこれ考えず、素直に自分の気持ちを伝えればよかったんだよな。
「俺は静乃のことが好きだ。一緒にいると楽しい。ちゃんと静乃と同じだ。でも俺は、静乃に恋人ができてほしくねえ。藤崎さんが静乃のお兄さんだって知る前、少し嫉妬したこともある。ああそうだ、これだけは断言できる。もし静乃に恋愛感情がなくたって、俺が静乃のことを好きじゃなくなったって、多分俺が静乃から離れることはねえよ」
「……そうですか。はっきり言葉にされると、存外安心するものですね」
静乃はほっと微笑した。
「それで、これからどうするかって話なんだけど」
あれこれ思い浮かぶ言葉はあるが、とりあえず俺はこれを伝えたい。これさえ伝われば、他はいつか伝わればいい。
彼女に、丁寧に言葉を選びながら告げる。
「関係が変わらないって、お互いが安心するために付き合えねえかな」
ちゃんと伝えられてるか、と不安になる。伝えきれるよう、言葉を尽くす。
「なんつーか、本当に何も変える必要はねえんだ。ただ、お互いにこの関係を尊重して、壊さないよう努力します、って契約みたいなもんで」
初対面のときと変わらず熱心にこちらを見てくれる黒い目に、初めて会ったときにしてくれたみたいに、自分の気持ちを伝えたい。
カップから手を離した。手を落ち着けられなかった。
「そうやったって関係が崩れるかもしれねえし、人間関係を築くうえで鬱陶しく感じるかもしれねえ。でも、それはそのときに考えりゃいいことなんじゃねえかな。静乃が俺に対して抱いてる感情が恋愛感情じゃなくてもいい。今までと同じなんだから。恋人だとか付き合ってるとかってのは、分かりやすいからその言葉を置いているだけで、別にどうだっていい。俺も静乃も求めてねえ。……あー、つまり、俺が言いたいのは」
なにが言いたいのか分からなくてぐちゃぐちゃだし、無駄も多い。内容の精査はせず、心情に近いかどうかしか考えていない言葉をつらつらと並べ立てている。
静乃をまっすぐに見据え、俺は言った。
「俺は、静乃にとって大切な人になりたい」
そうだ。静乃のことを指すときに俺は、恋人でも友達でも、大切な人だって言いたい。
そして、静乃にもそう思っていてほしい。
それが、この関係を変えないってことなんじゃねえかな。俺が求めていたことなんじゃねえかな。多分。
もし間違えても、今日みたいに新しく関係を定義づければいい。と思う。
中学の頃の俺じゃ、そう考えられなかったかもしれねえな。
俺も少しは成長できてんだよな。
不器用なりに、人と関われるのを楽しもうと思えるようになったし、行事もできれば楽しもうと意識するようになった。
遠回りしたりショートカットしたり変な縮め方したけど、静乃のことを好きだと胸張って言えるくらい、彼女と関わった。
人と出会ってさ、会話するのって楽しいんだな。初めて知った。
一緒にあーだこーだ言いながら昼食べんのも、昼休み過ごすのも、案外楽しいもんなんだな。
映画とか舞台とか観て感想で盛り上がるのも楽しかった。
俺はきっと、静乃からどんな返答が来ても満足だ。
静乃はしばらく黙り込んでいた。やがて、静かな微笑と共に口を開いた。
「何度目かになりますが、質問をしてもいいですか?」
「ああ」
「私は弦也くんのことが恋愛的に好きなのか分かりません」
「知ってる」
「変な人間です」
「知ってる」
「傷つけてしまうかもしれません」
「お互い様だ」
端的な言葉の応酬。入学式の日からずっとしている。
この空間が心地いい。
「それでもいいですか?」
「ああ」
静乃ははっきりと笑みを浮かべ、俺に手を差し出した。
「不束者ですが、私は弦也くんのことが大切です」
俺はその答えに笑みを零し、彼女の華奢な手を握り返した。
「俺も」
一応は区切りとなりますが、今後も僕が書きたいときに短編が更新されると思います。
とんでもなく遅筆な僕と彼らにお付き合いいただきありがとうございました。あとがきを活動報告に載せておりますので、宜しければ覗いてみてね。




