六十七話 失敗
色んなところが細い。首に、静乃のたおやかな黒髪が当たった。本当に人を抱きしめているのか不安になるくらい冷たい。けど柔らかい。少し力入れたら全身が折れそうだ。
頬が熱い。
静乃が控えめに俺のブレザーを掴んだ。感覚を掴んだのかなんなのか、次の瞬間胸と胸がくっつくくらい強めに引き寄せられる。静乃の呼吸の動きがなんとなく伝わってきた。不自然な深呼吸の音も。
心臓の鼓動が早い。脳が沸騰しそうだ。血液が一気に流れてきて、上手く身体が動かない。
「……合ってるんでしょうか、これ」
「分からん。人を抱きしめるなんて十年くらいしてねえ気がする」
いや、そうでもないのか?
数秒は落ち着かない気分だったが、慣れてくると柔らかくて心地いい。人と触れ合うの、好きじゃなかったはずなんだが。
「私は居心地がいいです。……なんででしょう」
「俺に聞かれても分からねえよ。あと耳元でうるせえ」
「あ、ごめんなさい。……私、囁き声苦手です」
「ああ下手くそだな。別にいいけど」
耳にぞわぞわした音が残る。が、不思議と悪い気分ではねえ。
「弦也くん、科学的に好ましいハグの時間は七秒から三十秒らしいですよ。脳のホルモン分泌にかかる時間が三十秒で、十秒を超えると気まずく感じやすいようです」
「なげえな」
「ちなみに今十秒超えました。あと二……十七秒くらいですかね」
「へえ」
静乃はなんでこんなこと知ってるんだ。
「……あの、弦也くんはこれ心地いいのですか?」
「まあ。なんで?」
「いえ。……あのですね、弦也くん」
どことなく真剣な声で、静乃が俺の耳元で呟いた。
「もしかすると私は、弦也くんのことが好きなのかもしれません」
「俺はそれ聞いてなんて言えばいい?」
数秒悩み、静乃は言った。
「分かりませんね」
「だろうな」
「しかし、比較対象がいないと意味がない気がします」
「比較対象?」
ところでこれはいつ離れたらいいんだろうか。
「ええ。朔、兄……は、比較対象になりませんよね。家族ですから」
「そうだな」
「村上さんも駄目です。私は異性愛者ですから。多分」
ほかには……と続けかけたところで、静乃は一旦言葉を切った。
「あ、三十秒経ちました」
「へえ。意外と早いな」
身体を離した。……静乃に熱を奪われて身体が冷えたな。
悩まし気に顎に手を当て、静乃は黙り込んでいた。
「静乃」
「はい」
静乃はさっと顔を上げ、眼鏡を整えた。ゆったりとしているのに素早い。騒ぎ立てるようではないのに目を引く、落ち着き払ったその仕草が、俺はどうも好きらしい。
一泊置いて、俺は聞いた。
「お前の負担にはなってないんだよな?」
「ええ。楽しいです」
静乃は口許に、ほんのわずかに微笑を含んだ。
「珍しい感性の奴だな」
「確かに私は多少変わっていますが、今回に限っては多分大体の人がこう思うのではないですか。知らなかったことを知るのは楽しいものですから」
彼女は両手の拳を握ったり開いたりさせ、それをじっと観察していた。
知らないかったことを知るのは楽しい、か。
俺も経験がある。初めて銀賞を取ったときの気持ち。あの感覚を知ることができたのは、何物にも代えがたい経験だろう。
静乃が深く考え込んでいるのをぼーっと眺めながら、俺は心地よい沈黙の時を過ごした。
昼休みが終わる間際になっても静乃は口を開く様子がないので、俺は声をかけた。
「静乃」
「…………」
開き切った瞳孔を虚空に向けている。
「静乃」
呼びかけながら肩を軽く叩いても反応がない。
「静乃、昼休み終わるぞ」
どんだけ集中してるんだよ。
俺は目を合わせるように動きつつ、静乃の肩をゆすった。
はっと我に返った様子で、静乃は瞬きを繰り返した。
「ああ……すみません。ありがとうございます、弦也くん」
ようやく戻った静乃に安堵のため息を吐きだした。
俺と静乃は立ち上がり、教室へと歩き出す。
その間、静乃はやっぱり静かに黙り込んでいた。
放課後は特に何事もなく帰り、翌日。
登校すると、静乃は少し疲れた様子で近づいてきた。
「弦也くん、おはようございます」
「ああ、おはよう」
うっすらと隈が見える気がする。
……大丈夫か?
「なあ、静乃――」
「弦也くん、膝枕しましょう」
「話を聞け」
すると静乃は一気に自信を失ったような顔をした。
「嫌ですか? また私は間違えましたか?」
「そうじゃねえけど」
「膝枕をするとリラックスできるみたいなんです。好きであれば。恋愛的に好きであれば」
静乃の顔が輝く。
さっきからやたらと情緒がおかしい。絶対になにかおかしい。
「静乃、お前今顔色悪い。何時間寝た?」
「考え事をしていたら朝が来てしまいました、でも大丈夫です。以前も脚本を書いていたときに数日徹夜はしました。若いうちはまだ平気です」
ぱっと見はいつも通りの微笑を浮かべた。
「脚本なら好きにしたら、いや心配にはなるが。メンタルおかしくなってるだろ今。俺のせいだろそれ」
「違いますっ」
思いもよらぬ叫び声に、俺はぴたりと伸ばしかけた手を止めた。静乃は傷ついた顔で、
「弦也くんと関わるのは本当に楽しいんですっ。そんなこと言わないでください」
……こいつこんな面倒くさいやつだったか? 俺のせいでなんかおかしくなっている。
どうしたらいいんだよ、俺分かんねえよ。
心配と焦りがじわじわと湧き上がってくる。
一日だぞ。なんで急にこんな。
「……ああ、ごめんなさい。またやりました、私」
一気に声のトーンを落とした静乃は、平静そうに告げた。
「いつも考えすぎるのです。一度頭を冷やしてきます」
「は? いや」
引き留めようと言葉を口にしかけたが、自責の念かなにかに押しつぶされそうになっている静乃を見て言葉を止めた。
多分放っておいた方がいい。一人の方がいいってときくらいある。
俺はひとりでに自己嫌悪のため息を吐きだした。
分かりにくいけど、静乃はこういうやつだった。考えなしに好奇心のまま行動して、後から考えこんじまうようなやつだった。
分かってたんだから、俺ももう少し慎重になればよかった。
「おはよー。……なんか元気ない?」
ぼーっとしていると、黒井がそう笑いかけてきた。彼がテキパキと鞄を片付け椅子に座る。
こいつは相変わらず目敏いな。
「で? なんでそんな憂鬱そうな顔してるのかなあ?」
にやつきながら問いかけてきた黒井に、俺は顔をしかめた。うわこわ、と笑い交じりに呟かれる。
実際こいつに話せば解決しそうな気がする。
「恋人、って難しいんだな、と思ったんだよ」
ほう、と面白いものを見つけた顔に、俺はつい苦々しい表情になるのを抑えられなかった。騒ぎ立てないならまあいいが。
わくわくと続きを促す黒井に、俺は言葉を選んだ。
「俺今、一旦静乃と付き合ってるんだよ。静乃が俺に抱いているのが恋愛感情かどうかわかるようにしよう、ってので」
「へー、オーケーもらえたんだ」
「おお。昨日恋人同士として一緒にお昼食べたり、距離を近づけてみたりしたんだよ。で、今朝顔色が悪いから聞いたら、静乃が考え事していたせいで徹夜したんだと」
俺は静乃に苦しんでほしいわけじゃねえんだけどな。
「前々から思ってはいたけれども、一条さんは相当に真摯だね」
黒井は苦笑交じりに言った。
真摯か。そうだな。真面目過ぎるほどに真面目だ。俺の言うことをまっすぐ受け止めて考え込んでくれている。
恋愛感情ってのはなんなのか、俺が考えさせてる。
俺は机を睨み黙り込んだ。じっとりとした自罰意識が再び湧いてくる。黒井は声を出して笑った。
はあ?と顔を上げたら、黒井は呆れを含んだ顔をしていた。
「君も真摯だね」
黒井はおもむろにスマホを取り出し、操作し始めた。
俺が真摯? それなりに不真面目な自覚はあるつもりだが。好きなこと以外に関しては面倒くさがりだぞ。
「もっと適当に生きればいいんだよ。って言ったって、君みたいな人間はそう簡単に変わらないんだよね。――心理テストでもしようか」
「あ?」
なにを言い出してるんだ、と胡乱な目を向けるも、黒井はお構いなしにスマホに載っているだろう文を読み上げた。
「あなたは森の中に迷い込んでしまいました。目の前には二つの道があります。一つが木々が集まる先の見えない道。もう一つが見える限りずっと続いている道です。あなたはどちらの道に進みますか?」
一体これにどんな意図があるのか分からないが、少し考えた後、俺は答えた。
「先の見えない道」
「ふーん。これは人生を左右するような重要な選択を迫られたときの判断基準です。前者を選んだあなたは、安定ではなく挑戦を選ぶでしょう。先の見えない中でも果敢に進んでいくのがあなたの長所です。反対に……面倒だからもういいか。合ってた?」
「合っていると言えば合ってるし、合ってないと言えば合ってない」
つまりただのバーナム効果だ。当たり障りのない情報を適当に羅列しているだけ。
「そりゃそうだね。所詮はネットに転がってるような心理テストだ。就活やら面接やらになれば、自分の長所も短所も自分で分析しなくちゃならないし、心理テストに惑わされて自分をそれに寄せ始めたら、本末転倒ってものだ。それと同じことを君は今しているんじゃないかな?」
俺は真顔で耳を傾けた。
言われてみれば、無意識のうちに恋人って言葉に引っ張られすぎたような気がしないでもない。
「恋愛もさ、恋人らしいとか、恋人なんだからこうしなきゃ、なんてのはないんだよ。君らが幸せであればいいわけ。で、君ら二人が幸せになれる関係ってのはお互いに話し合わないと分からないじゃん? 恋愛どうこうって先入観抜きに、今後どうしたいか話し合ってみたら?」
「なるほどな。ありがとう」
素直に俺は礼を告げた。すると黒井は、真面目な話はちょいと照れるね、と苦笑した。
「ところで言文の課題写させてくれたりしない?」
「……別にいいけど」
またかよ、こいつ大丈夫か。
そう思いつつ俺は、少しばかり頬を緩ませ、課題のプリントを黒井に差し出したのだった。
※黒井が使った心理テストは作者がそれっぽくでっち上げたでたらめです。もし似ている心理テストがあったとしても一切関係ありません。
あと次回最終回です。




