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六十六話 お試し

 放課後、すっかり冬になった風に当てられながら、俺と静乃はぼーっと歩いていた。

 学校指定のコートを羽織り、ボタンを開けてちょうどいい程度の気候だった。

 いい値段なだけはある。かっちりした素材は丈夫であり、なにより断熱性能が高い。全部閉め切っていると暑いのだ。俺は楽器に触る関係で、早い時期から手袋をつけるのが当たり前のようになっているし。

 ガチガチにボタンを閉めている静乃は、相変わらず表情に季節感がない。本当に温度を感じているのかすら心配になるくらいには分からない。

 藤崎さんとか静乃のご両親であれば分かるんだろうか。

 などとくだらないことを思いながら、あれこれ熱心に話しかけてくる静乃に返答する。

 ……ぜんっぜん話が途切れねえ。

 いつも通り眼鏡の奥で黒目がきらきらと熱を帯びている。

 別に楽しいからいいんだが。付き合ってくれとか言える空気じゃねえんだけど。

「あ、もうすぐ駅ですね。朔……兄と遊びに行くので、今日はここまでで」

 手を振りホームに向かおうとした静乃に、俺は腹をくくった。

「なあ静乃。前告白しただろ」

「え? はい」

 ぴたりと動きを止め、静乃は真っすぐ俺と向き合った。

 空気に静寂が満ちていく。

「俺は、別になにか変えたいわけじゃねえんだよ」

「はい。分かっていますよ」

 静乃が控えめに微笑を浮かべる。

「俺今から気持ち悪いこと言うけど、いいか?」

「……はあ」

 微妙に分かっていなさそうな顔で首を傾げられた。

「静乃って、もし仮に俺のことが好きだったとして、自覚できると思うか?」

「微塵も思いませんね。一条静乃はそういう人間です」

 無表情の即答に俺は何とも言えない気持ちになった。が、気を取り直して、

「なら、一回俺と、付き合ってみてくれねえかな。俺、静乃に恋人ができるのは、嫌だと思ったから」

 静乃はしばらく考え込むように黙ったあと、頷いた。

「いいと思います。なら、お試しの期限を決めましょう。まずは明日から一週間でいかがですか?」

 一ミリもブレない静乃に、俺はなんとなくほっとした。

「分かった。お互いどちらかが納得できなかったらもうちょい延長な」

「はい。では弦也くん。改めて、これからよろしくお願い致します」

 軽やかに差し出された手を、俺は躊躇なく握った。

 静乃は、では朔斗……兄のところに行ってきます、と去っていった。

 俺はそっと手を振り、電車に乗り込んだ。

 揺られながら、ふと思った。

 俺は今の心地いい関係から変わりたくねえんだよな。

 でも、一回付き合ってみるということはつまり、恋人同士になるわけで。恋人同士ということはつまり、恋人らしいことをしなくてはいけないわけだ。

 それは、なんか、目指している方向と違わないか?

 いや、でも、静乃に恋人ができてほしくないから自分が恋人になるってのはそういうこと、だよな。

 多分その行動自体に抵抗はねえんだ。ねえんだけど……。

 静乃がこれで俺のことが好きだ、と自覚したとしても、好きじゃないなと思ったとしても、どっちにしろ今のままじゃいられなくなるのか……?

 関係変えたくねえんだけど。

 ……俺ってもしかして、相当無茶言ってる?

 一人で若干の自己嫌悪に陥る俺をよそに、電車は無情にも進んでいった。






 翌朝、俺は平常通り支度を済ませ、学校に向かった。

「見てください弦也くん。参考文献です」

 教室に着いて席に座るなり、挨拶もなしに言われ、俺は呆れたように静乃を見上げた。

 両手で持っているのは間違いなく少女漫画である。

 いつぞやの映画のときにもこれを参考文献だのとのたまっていた気がする。

「あ。おはようございます」

「ああ、うん。おはよう」

 色々言いたいんだが、なにから言えばいいものか。

 とりあえず、一番に思いついたことを告げた。

「少女漫画参考にする前に、敬語外したらどうだ」

「私の揺るぎない信条の為に諦めてはいただけませんか」

 きっぱりと断言された。

 今までにないほど真剣で真っすぐな目で見つめられる。

「信条?」

 すると静乃は、すっと目を伏せた。

「……敬語が好きなんです」

「じゃあ俺も敬語で話したほうがいいのか?」

 すると静乃は目を開けた。

「そういう意味の好きではないんです。たとえば兄はコーヒーのことを漢字で書くのが好きですし、果物を水菓子と呼びます。古めかしい言葉を愛しているからです。私の敬語はそれと同じで、ただただ自分の口から発せられる柔らかな敬語の響きを味わいたいだけなんですよ」

 これでも初めに比べれば砕けた方ですよ、と付け足されれば、何も言えない。

 よく分からんが、まあ想像はできる。

 俺がバイオリンを愛しているように、静乃は敬語を愛しているのだろう。多分。きっと。

「それで、これと同じことをすればいいと思うのです」

 開いてみせる。

 ……イヤホンを分け合って聞く?

「は? 好きな音楽プレゼンしてえなら全部貸し出せよ。曲の魅力半減するぞ」

「しかしですね、弦也くん」

 静乃は食い下がった。

「たとえ非効率的な方法であっても、相手の『自分の好きな曲を聴いてほしい』、という気持ちをありがたく受け取り、許容する。そしていい曲だねと笑い合える、それこそがこの行動の根本なのではないでしょうか」

「相手の気持ちを理解してんなら、余計にじっくり聴こうとすべきじゃねえの?」

「よく考えてください、弦也くん。弦也くんは音楽に造詣が深いでしょう。ところがこの世の大半の人間は音楽における進行など理解できませんし、どの楽器がなんの音を鳴らし、どのような効果を生み出しているかなど分からないわけです。片耳イヤホンで音楽を聞くことが、どれほどその曲の魅力を落とすか、実感できずとも仕方ありません。そもそも私も一般人に過ぎません。私はベースとギターの違いすらよく分かりません」

 ベースとギターの違いがよくわからない……?

「一般人の耳では楽器の聞き分けなどできません。ですから、まあいいかと片耳イヤホンするのも仕方がないわけですよ」

「……じゃ、これやるか?」

 静乃は無言で少女漫画をしまった。

「私が間違っていたようです」

 そのタイミングで予鈴が鳴った。

 静乃がどことなく哀愁を漂わせて自席へ戻っていった。

 ……あ。

 少女漫画はフィクションなんだから現実とは違うだろ、って言い忘れた。

 その日の昼休み。

「食べさせるのもいいようです」

「前やらなかったか?」

 意気揚々と俺の弁当箱に箸を入れようとした静乃にそう言うと、彼女は俺をじっと見つめた。

「やりましたね。つまり私と弦也くんはもう恋人であったのかもしれません。よかったですね」

「お前がいいなら俺はそれでいいけど」

 静乃は困ったような気配をにじませた。

「……困りますね。実は思いがすれ違っていたから、というので弦也くんを傷つけたくはありません」

「俺は別に傷つけられてもいいけど」

「私が嫌です」

「だろうな」

 そう言われると分かりつつ一応言っただけだ。

 静乃はしばらく黙って考えたあと、俺を見た。

「そうだ、ぎゅーしてみましょう」

「…………」

 俺がなにも言えずにいると、静乃は首を傾げた。

「……嫌ですか?」

「いや……」

 なんか、熱い。顔。

「昼食べてから考えようぜ」

「そうですね」

 ゆっくりゆっくり静乃は昼ご飯を食べ進めた。

 俺は手元の弁当箱に目を移す。

 ……俺もゆっくり食べるか。

 嫌じゃねえんだけど。いやでは全くねえんだけど。おんぶとかしたし、ぶっちゃけ今更なんだが。なんつーか、改まってなんの理由もなくやるのがはずい。

 黙々と口に弁当を運ぶ。ちらりと静乃を覗き見れば、こっちを見てくる黒と目が合った。

「……なに?」

 やけに見てくるものだからそう聞けば、静乃は悩むような雰囲気で黙り込んだ。

 なんだこいつ。

 意図を推測するのを諦め、俺は弁当箱に向き合いなおした。

 いつもの倍くらいの時間をかけて食べ終わると、静乃はやっぱり俺を観察していた。

 よく分からないから放置して、弁当箱を片付ける。階段の端の方に寄せた。

 そして俺は、静乃を見据えたまま固まった。

 ……俺からやった方がいいのか?

 静乃は動く気配がない。いつも通り背筋を伸ばして規則通りの身だしなみ。やや困惑しているような顔で、真っすぐ見つめられた。

 確認するように肩に手を伸ばす。静乃は両手を膝の上に乗せて、無抵抗にじっとしていた。その様子を見て、俺は静乃の華奢な肩を抱きしめた。

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