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六十四話 コンサート

 帰ってすぐ、母にマスクどうしたの、と聞かれた。

 全て話すと面倒だったから、俺は別に風邪ひいてない、とだけ答えた。母は、ははあとなにか察した様子で、それ以上追及してこなかった。

 それ以外に変わったことはなく、いつも通り夕飯を食べ、風呂に入り、寝た。

 翌日学校に登校すると、一条は欠席だった。

 まあ、あれだけしんどそうだったし、一日じゃ回復しないよな。

 昼休みに一人で弁当を食べたこと以外は別に普通の一日を過ごし、放課後。

 帰ろうと荷物を鞄に入れていると、担任の先生に話しかけられた。

「あ、市川。一条の家知ってるって本当か?」

「知ってますけど」

「もしよければ、今日の課題届けてやってくれないか?」

 これ、と先生は課題についてのプリントを挟んだクリアファイルを渡してきた。

「別にいいですよ」

 言いながら俺は、クリアファイルからプリントを抜いて自分のファイルに入れ直す。

「本当か! いやあ申し訳ない」

 先生は俺から押し返されたクリアファイルを受け取った。

「職員会議は仕方ないですから」

 まあそうでなくとも様子見に行くつもりではあったし。

「ありがとな、市川。一条にお大事にと伝えておいてくれ。気をつけてな」

 そう言うと先生は、やべ、と職員会議に向かった。

 頑張ってください、と適当に返答したが、多分聞こえてねえな。

 一条の家行くか、と俺は教室から出た。

 適当に電車に揺られることおよそ三十分。

 駅前のコンビニでスポドリとゼリー類を買い、家に向かった。

 インターホンを押そうとして、動きを止める。

 寝てるときに鳴らしたら悪いよな。つか、体調悪いんだから出ねえんじゃ……。

 まあ、課題のプリントもあるし仕方ねえよな。

 ピンポーンと鳴らすと、すぐ一条が扉を開けた。中学時代のものらしきジャージ姿でマスクをつけている。

「よお。調子どうだ?」

「熱は下がりました」

「は? マジで?」

 あの熱を一日で?

「昔から一気に上がって一気に下がるんですよ。ひとまず上がって、と言いたいところですが、病人の家に招かれたくはないでしょう。私になにか用事でもありますか?」

「一応これ買ってきたってのと、プリント」

 コンビニのビニール袋とクリアファイルを押しつけた。一条はそれを丁寧に受け取ると、

「わざわざありがとうございます。……それと」

 昨日のことですが、と言われ、ぎくりとした。

「母はむしろ、引き止めるようなことをして申し訳なかった、と言っていました。それで、生々しくはあるけれど、病人を抱えた家にある菓子折りよりは、とこれを」

 玄関口に置いてあったらしいお札を数枚寄こしてきた。

「いや、俺大したことしてねえし。いらねえよ」

「私にとっても、母にとっても、大したことだったんです」

 妙に必死に言い募る。

「市川くんにとっては大したことじゃなかったとしても、嬉しかったんです。市川くんは優しいんですよ」

「俺はんなことねえと思うけど」

「とにかく、これはお受け取りください」

 ね、とぐいぐい現金を押しつけられ、俺は折れた。

「……分かった。ありがたく使わせてもらう。お礼を伝えておいてくれ」

「分かりました。では、また明日学校で」

「あ、おう。また明日」

 ぱたんと扉が閉じた。

 俺は微妙な面持ちで、受け取ってしまった現金を眺めた後、鞄から財布を取り出して、しまった。

 ……今度のコンサート代に充てるか。





 一条もすっかり回復し、いよいよ冬も間近な十一月上旬。

 予約していたコンサートの日だ。

 どうせ一条が待ち合わせより早く来るんだろうと見越して、俺も大分早く行った。ちょうど気になっていたCDショップが近くにあったし、ってのもある。

 スマホはあるし連絡は取れるんだけど、なんでか一条は待ち合わせのときスマホを見ない。

 ……やっぱいた。

 俺は呆れながら、待ち合わせ場所でぼーっとしている一条に話しかけた。

「一条」

「……はい」

 どことなく気まずそうな顔をしてこちらを見る一条に、俺もまた微妙な顔で、

「早い」

「それはそうですが、市川くんも早いです」

「俺はお前が早く行くと思って早めに出たんだよっ。気になってるCDショップもあったし……」

「ああ、なるほど」

 納得顔の一条に、俺は時計を確認しながら言った。

「どうすんだよ、あと二時間もあるぞ」

「二時間程度ならCDショップを回っていたらすぐですね」

「……まあ、そうか」

 どこですか、と問いかける一条に、俺はこっちだと示して歩き始めた。

 しばらくして、自分が待ち合わせ時間まで当たり前に一条と過ごそうとしていることに気がついて唖然とした。

 ……まあ、いいか。

 CDショップを二人であーだこーだ小声で囁き合いながら過ごしていると、一条の言っていた通り、二時間なんてあっという間になくなった。

 それぞれ厳選した一枚を購入し、コンサート会場に向かう。ちなみに服装は制服である。

「制服って便利だよな」

「とても。冠婚葬祭私服兼用、素晴らしいです」

 いい買い物をしました、と真顔で言う。

 会場に着くまで、キラキラわくわくそわそわ、みたいな感じの一条に、俺は会場について話していた気がする。いかんせん頭の中はほとんど楽しみに独占されており、そこに果たして一条が楽しんでくれるだろうかという少し杞憂が混ざっていたってだけなので、ほとんど記憶にない。

 相当重傷だと思う。

 唯一記憶に残っているのは、席の真ん中と端、前と後ろじゃ全然音圧がちげえの、マジで全然変わるから。ほかにも会場によって音の響き変わるし……などとまくしたてていたということだけ。間違っても初心者に話すことじゃない。もっとこう、曲とか演奏者とか、別に話すことがあった。

 会場が見えた時点でそわそわしていた一条に、念のためマナーなんかを口頭で確認しながら、予約していた席に座った。

 空いていた中では一番いい席だ。せっかくだしと思って、S席を取った。舞台のS席と同じような値段らしいし、ちょうどいいんじゃねえかとも考えたんだ。

 楽しんでくれなかったら悲しいし、妥協せず一番いいのを聴かせてやりたかった。料金は俺持ちだったし、まあいいかと思って。

 静まり返った緊張感のある雰囲気に、一条は案外慣れていた。舞台をよく見に行っているからだろうか。

 まあ、遠慮なく楽しんでくれ、と思いつつ、もう俺の頭の中は目の前のクラシックしかなかった。

 開演五分前のベルが鳴り、俺はつい頬を緩ませた。





 コンサートが終わったあと、一条はそれはそれはもう大はしゃぎで、すごいすごいと俺の肩を揺さぶってきた。

 もうロビーとか会場とかどうでもいいらしく、話すのに夢中で転びかけていた。

「人生の半分を損していた気分です、すごい! 本当に音源と全然違う! 感動しました。それにそれに、……!」

「ちょ、おい」

「初めて聴く曲ばかりでした! あとでじっくり聴いて……いや、この感情を残しておくのがさきでしょうか! 楽しかった、すごく楽しかったです市川くん!」

「ああそうだな、一旦落ち着け――」

「私二曲目が一番好みでした! ああでも、こういうのって通しで聴くことに意味があるのですよね、一番なんて話野暮ですねっ。本当に楽しかったです、知識があるともっと楽しいのでしょうか!」

「分かったって! 一旦落ち着け! 耳がいてえしちけえよ!!」

 無理矢理俺から一条をひっぺはがす。

 会場出た後でよかったわ。迷惑になるレベルだった。

「あ、すみません……」

 どうやら正気に戻ったらしく、落ち込んだ様子だった。

「……楽しかったんならよかった。俺も話したい事いっぱいあるし、カラオケでも行くか?」

 あそこなら騒音問題にならねえだろ。カフェの予定だったが思っていたよりも一条の熱が強い。

「行きますっ」

 力強い返答に若干困惑気味になりながら、俺は一条とカラオケに向かった。

 ポテトやら唐揚げやらをつまみつつ、あれがよかったこれがヤバかった楽しかったと語っていると、びっくりするほど早く時間が過ぎ去っていった。

 具体的には、五時間ほど。

 一条が、クラシックにこそ無知なものの、音楽史や歴史背景に詳しかったせいだ。

 もう一生止まんねえの。話が。俺がつい音楽用語を使ってしまって、その音楽用語についての説明をしたり、一条が照明の効果について話してくれたり、とかやってると、マジで終わりが見えねえわけ。

 気づいたら午後五時。

 スマホで時間確認しなかったら延々と話していた気がする。危なかった。

 二人して喉カラカラになりながらカラオケを出る。

 精算は俺持ちにした。コンサート誘ったの俺だし。心底フリータイムにしておいてよかったと安堵する。延長とかやってたらいくらになってたか……。

 お互い無言で駅まで歩みを進める。話し始めたら最後だと分かっているからだ。あと単純に一回我に返って喉が枯れてきているのを自覚したのもあると思う。

 何度か一条が口を開きかけてはやめにしていた。

 冬の色が漏れ出ている秋の夜。外はほとんど日が落ちていて、風も強く吹くようになる。

 端的に言うと、すげー寒い。

 二人で寒さを耐え忍びつつ駅に着く。

「じゃ、また明日、学校でな」

「……市川くん」

 耐え切れなくなったらしい一条は自販機で買った缶のカフェオレを飲み、俺を呼んだ。

 休日のせいか、駅は帰ろうとする人で賑わっていた。

 その中の人の少ないところで、一条は俺に呼びかけた。

「なんだ?」

 上げかけた手を下ろし、歩き出しかけた足を止めて振り返った。踵を返して一条をまっすぐ見据える。

「……一つ、お願いしてもいいですか?」

「おお」

 なんだか改まった雰囲気に、俺は不思議に思った。

 舞台観たらまたコンサート行こうって約束したし、誘ってくれてありがとうとも言ってもらった。他になんかあるか?

「静乃、と、呼んでくれませんか?」

 少ない言葉に息をたっぷり詰めたみたいな声に、俺は驚いてまじまじと一条を見た。

「……家族以外に、静乃と呼んでもらったこと、なかったんです」

 苦笑の気配をにじませ、一条は照れるように目を細めた。

「お母さんに向かって、市川くんが私のことを静乃と呼んだとき、なんだかとても嬉しくて。心臓がふんわり暖まる感じがしたんです。だから、静乃って呼んでほしくて」

 どくりと心臓が音を立てた。

「じゃあ、静乃も俺のこと、弦也って呼んでくれ」

 静乃は、驚いたように目を見開いたあと、心底嬉しそうに微笑んだ。

「はい。また明日、弦也くん」

 そう手を振って、一条は去っていった。

 俺はほっと息を吐きだした。

 ……引かれなくてよかった。いや、自分は下の名前で呼んでくれって言うくせに、自分が下の名前で呼ぶのを嫌がるってあんまねえだろうけど。

 俺も、初めて友達に下の名前を呼ばれた。

 やべえ、すげー嬉しい。なんだこれ。

 あれ? でも。

 …………友達、でいいのか?

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