六十三話 看病
冷却シートを持ってリビングから戻ると、一条が体を起こして眼鏡をかけていた。
「……あ、起きたのか。おはよう」
いや待て、午後なのにおはようはおかしいか?と首をひねる。
「あ、はい。おはようございます」
一条はやや気まずそうに目を逸らした。
「その、えーっと。酷い様子を見せました」
「……俺は、別に酷くねえと思うけど。……あー、その、いるか? これ」
上手く言葉が出てこない。ここぞとばかりに口下手が本領を発揮している。つくづく恨めしい。
「いえ。もう大丈夫です。本当にありがとうございます」
返事ができずに沈黙した。
一条はやや不安そうな顔をする。
「なんつーか、その、ごめんな」
「……はい? え」
珍しく声を裏返らせた一条に、俺は言った。
「起きた瞬間、いなかったから」
一条が起きているのを目撃してから、ずっとそれを言いたかった。
「…………」
しばらく首を傾げていたが、一条ははっと目を丸くして、首を振った。
「いえ、そんなの気にしないでください。というか、帰らないでいてくれたんですか。それだけで、と形容するにはあまりに多くのことをしてもらっていますね。起きるまでいてくれたこと、それがただ、その、嬉しい、といいますか。いえ、違いますね」
一条は嬉しさの強い困り笑顔を浮かべた。
「ただただ、有り難いです」
その言葉に、ほんの少し目を見開く。思ってもみなかった。
でもなんか、嬉しいな。うん。嬉しいわ。
「……どういたしまして。ちなみに、お母さんいつ帰ってくるんだ?」
「八時です」
「じゃ、それまでいていいか?」
「いいんですか?」
「おお」
「……本当にありがとうございます。この借りはいつか必ず……」
「気にすんなって。ほんとに俺がしたいだけだ」
それでもまだ一条の顔が晴れないので、俺は付け足した。
「前に俺が風邪で休んだとき、一条が家に来て持ち物とか教えてくれただろ。六月くらいの」
「それは、ありましたね」
「その借りを今返しただけだ。気にすんな」
「それも元々は私が助けられただけですし、それにしては随分と色々してもらいましたが。ありがとうございます」
一条はやや困った様子でいたが、引け目を感じているようには見えない。
よし。
「そういえば、今何時ですか?」
「午後二時」
大分寝ましたね、と他人事のようにつぶやいて、一条は俺をまっすぐ見据えた。
「お昼、食べました?」
「弁当食べた。一条はなんか食べるか? 家にねえなら買ってくるけど」
「いえ。先日買い出しをしたばかりなので、あったはずです」
言いながら、一条は立ち上がろうと布団を剥いだ。ややふらついて心配になったが、存外はっきりと立った。
「私はこれから林檎を剥いて食べます。市川くんもいかがですか」
「俺は大丈夫だ」
「分かりました。それでしたら、くつろいでいてください」
すたすたと歩いていった。リビングに行こうと寝室の電気を消し廊下に出ると、一条は玄関前の鞄から弁当を取り出していた。
「市川くんの鞄、荷物置きの方に置いておきますね」
「あー、俺やるよ」
「……では、私は向こうに行っていますね」
俺は自分の鞄を荷物置きにひっかけて、一条の後を追った。
一条がエプロンをつけ、慣れた調子で林檎の皮を剥いていた。包丁で器用なものだ。
立ち姿には不安定さが見受けられない。寝たことで大分マシになったらしい。
シャリシャリと気持ちのいい音が響き、ぽとんと水に沈む。
毎度のことではあるのだが、一条の出す生活音は心地がいい。
椅子に座ってぼんやりしていると、一条は弁当箱と剥きたての林檎を積んだ皿をテーブルに置いた。
いただきます、と静かに手を合わせ、マスクを外す。
一口一口味わいながら平らげると、洗い物をシンクの中へ。
余った林檎はタッパーに詰め冷蔵庫へしまう。棚に向かって風邪薬を取り出すと、キッチンに戻る。
コップに水道水を注ぎ入れて口に流すと、錠剤を投げ入れた。
一条は変なところで変なのに、変なところで手慣れた動きを見せる。
さらさらと洗い物を終わらせると、机に引っかけた鞄から勉強道具を取り出した。
「もしもお時間があるのなら、勉強を教えてくださいませんか」
まだ熱っぽさの残る顔で言われ、一部始終をただ眺めていた俺は聞いた。
「俺はいいけど、お前大丈夫かよ」
「大丈夫です。早退したんですから勉強しませんと」
時計に目を走らせると、現在午後三時。
「じゃ、休憩挟みながらやるか」
一条はほっとしたような空気になり、俺の向かい側のテーブルに座った。
三時間後。
午後六時、外もすっかり暗くなったころ。
「ありがとうございます。とりあえず今日はもうやめておきます」
トントンと使った参考書をそろえ、一条は勉強を切り上げた。
「雨戸閉めますか」
一条はそう言って窓に向かい、雨戸を閉めた。
彼女は辺りを見渡したあと、本を読み始めた。好きなように過ごそう、ということだろう。
一条は時折、顔を上げては音楽を聴いている俺に雑談を吹っ掛けた。俺も適当に返事をして、適当に話しかけ……と、二人してだらだらしていると、ガタガタと慌てたような調子で扉が開く音がした。
「静乃! 大丈夫? 熱出たって……」
一条の母親か。
弾かれたように一条は本を閉じ、駆け出した。
扉を開け、冷える廊下へと走る。俺も一条に着いていく。ところで、俺は一体どんな顔をすればいいんだろうか。
「お母さん、おかえり」
「ああ、ただいま」
ホワイトブロンドに染まった髪を一つ結びにした女性が一条に笑いかけた。品のいいベージュのコートを着こなしている。
笑みの雰囲気は、どちらかといえば藤崎さんに似ているような気がする。
「よかった、思ったより元気そうね」
一条の顔色を眺めたほっと息を吐いたあと、彼女は俺の方に目をやった。
「もしかして、市川くん? 娘がお世話になっております」
洗練された動きで頭を下げられ、俺は戸惑うしかなかった。
「その、頭を上げてください。むしろこちらがお世話になっておりまして」
既視感。藤崎さんともこんなやり取りをしたな、そういや。
「私はそろそろ、家に帰ります。長居しすぎるのもご迷惑でしょうし」
傍にあった鞄を掴む。
そろそろ口が回らなくなってくる。
つか普通に気まずい。
「ああ、娘のためにわざわざ……もうなんとお礼を申し上げたらいいか……」
なんでだ。なんで泣きそうになってるんだ。
いや、分かる。友達少ない娘が仲いい友達作っていることに対する感動だというくらいの見当はつく。
が、俺なんもしてねえだろ。
でもなんか言わねえと。
半分パニクりながら、必死に言葉を絞り出した。
「ああ、その、どうでもいいので」
ぴしりと空気が凍り付いた。違う、間違えた。ミスった。
「あ、違います。いえ、違わないんすけど。……いち……静乃、さんにはよく、お世話になっているので。お礼はいりません。今までのお礼ですから。じゃ、その、帰ります」
「え? ちょ、待ってください、せめてご夕食でも」
慌てて靴を脱ぎ、玄関に一条の母が来たのをいいことに、俺はさっと抜け出した。
「結構です。あ、一条。お大事に」
言うだけ言って、俺は扉を開け、閉めた。
……流石に失礼だったか?
これ以上ボロ出すわけにはと思ったんだが。
そもそも、そんな大したことしてねえし。ただの自己満足にお礼だのなんだの言われても、正直気が引けるというか、いたたまれないというか。
……あとで謝罪の連絡入れとくか。
今から帰ると母に連絡し、俺はすっかり冷え込んだ外へと歩みを進めたのだった。




