六十二話 熱
学生鞄の中に入っていた薄手のアウターを羽織る。
一条が鞄のチャックを閉め終えると、俺は二人分の鞄を持って立ち上がった。
「一条、歩けるか?」
「すみません、少しふらついてしまうと思います」
「分かった。……とりあえず、保健室出るか」
俺は鞄を手首にひっかけ、保健室を出たすぐそこで一条を背負った。
「じゃ、ありがとうございました」
「うん。一条さん、お大事にね。市川君、ありがとう」
一条だけならともかく、教科書やら参考書で八割埋まってる学生鞄込みでとなると、中々重い。
昇降口で一度降ろす。一条の分の靴を地面に置いてやれば、自分で履くことはできるらしい。俺が手早く靴を履き替えると、一条は言った。
「市川くん、もう歩けます。大丈夫です」
意識はややはっきりしてきているようで、目はしっかりと焦点が合った。
「分かった。じゃあ、代わりに手、つなごうぜ」
また突然倒れそうになるかもしれないからな。不安だ。
「分かりました」
手を差し出して引っ張り上げる。
二人でゆっくり駅に向かう。一条はしばらくして、風が気持ちいいですね、とつぶやいた。熱で上がった頬には、やや鋭い風がちょうどいいらしい。
風邪のせいで力が入らないのか、何度か一条の手がするりと抜けそうになった。そのたびに強く握り直す。
いつもは冷えている手が、心配になるほど熱い。
駅で少し待ったが、問題なく電車に乗れた。
学校から一条の家に行ったことはないが、放課後にちょくちょく寄り道しているので脳内でざっくりとした地図なら描ける。何に乗ればいいかも一発だ。第一、スマホで簡単にわかるしな。
一条は終始ぼんやりした様子で電車に揺られていた。時折意識があるか心配になるほどだ。また逆に、乗り換えのタイミングでは不自然なくらい理知的な動きをするのが、むしろ俺の不安を煽った。
随分と長く感じたが、ようやく一条の家に着いた。
玄関の前に立ち、俺は一条に問いかけた。
「なあ、自分で鍵出せるか?」
「鍵……はい。鞄もらいますね」
怖いのでゆっくりと力を抜く。が、一条は玄関前のコンクリートに鞄を置いた。しゃがみこんでガサゴソと漁り、鍵を取り出す。
それを一条から取った俺は、鍵穴に鍵を突っ込んで回した。一条の鞄を持ってやり、扉を開ける。冷え切った空気が流れてくる。
一条を先に入れ、それからすぐ扉の鍵を閉め、荷物を置いた。
一気に気が抜けたのだろう、一条はジャージを脱ぐと、冷たい廊下にべったりと横になった。両足はしっかり玄関につけたまま。
その状態のまま、ぼーっとした輪郭のはっきりしない声を出した。
「すみません。ありがとうございました。これ以上苦労をかけるわけにいきません。学校に戻ってもらっても構いませんし、お家に帰ってもらっても、その、お好きにどうぞ」
「ここまで来て今のお前を放置する奴はいねえよ」
俺は靴を抜いて、一条の横に足をつけた。とりあえず、一条の靴取るか。
狭い玄関前であぐらをかき、一条のローファーを脱がした。
「……ああ。本当に大丈夫です。市川くんが帰ったあと、一人でできますから」
「眼鏡取るぞ」
無視して続けると、一条は右の頬を床にくっつけたまま、俺を見上げ、目を伏せた。
「……ありがとうございます」
こんなにも弱っている姿を見るのは初めてだ。ところどころで抜けてはいても、なんだかんだ背筋はずっと伸ばしていたから。
眼鏡を取り、ひとまず靴箱の上に乗せる。
「とりあえず、寝室行きたいよな?」
「はい」
動こうと身じろぎしたが、一条は諦めの濃いため息を吐いた。
「すみません。体に力が入りません」
「なら動かなくていい」
風邪には睡眠が一番だ。
多分ここだろうな、と、先に寝室の扉を開け立ち入ると、室内は冷たい空気が充満していた。
ベッドはどこだ、と見渡して、綺麗に畳まれた布団を見つけた。
小さい頃からベッドだったから、布団は修学旅行と林間学校くらいでしか使ったことがない。
手探りでマットレスを敷き、確かこうだったような、と記憶を頼りに布団を広げた。まあ、寝れないことはないだろう。きっと。
布団に触れないようそっと離れ、俺は、廊下に転がった一条の肩と膝に手を回し、持ち上げた。俗にいう、お姫様抱っこってやつだ。
背負うより重い。
マスクが心底邪魔だが、外すのも憚られる。
ゆっくり動かし、一条を布団の上に寝かせた。
これで一応大丈夫か、と息をつき、壁にもたれて座った。上着のチャックを開く。
少し疲れた。
一条は毛布を引き寄せ、胴体部分にだけかけた。
それから軽く顔をこちらに向け、
「ありがとうございます。なにからなにまで」
「いや。あー、なんか買ってくるか? 他になにかしてほしい、こと……」
言いかけて止まった。
ぼーっとした様子のまま、一条が涙を流していた。
「……メンタルが変みたいです。気にしないでください」
気にしないでください、と言われたらそうするほかない。泣いている姿を友達に見られるのなんて嫌だろうし。
それとなく目を逸らしながら、改めて問い直した。
「なんかほしいものとかあるか?」
問うと、なんとも言いづらそうに返答が返ってきた。
「……その、もしよろしければでいいのですけれど。水と冷却シートがほしいです」
「分かった。なんかこだわりあるか?」
「特には。水はそこらにあるコップに注いだ水道水で構いませんし、冷却シートは冷蔵庫の上の方の棚にあります」
「水は、氷入れた方がいいか?」
「……はい。もしできるのであれば」
鼻声にちょっと待ってろと言い残し、廊下に転がった鞄を端に寄せた後、リビングに向かった。
既に手遅れな気もするが手を洗った。
引き出しのマグカップを取り出す。水道水を注いだ。冷蔵庫の製氷室の氷を五個くらい放り込んでキッチンに置いたあと、冷蔵庫を開けた。指定された部分を見れば、確かに冷却シートがある。一枚取り、カップを持つと、急いで一条のところに戻った。
「体起こせるか?」
まずは水分がほしいだろと思い問いかけると、一条はマスクを外しながら身を起こした。その動きから、相当に辛いだろうと分かった。
まあ、運動が苦手で人付き合いが上手くできないのに、文化祭一日中動き回っては人に声をかけていたのだ。どう見ても頑張りすぎだった。
俺からカップを受け取り、一条はちびちびと水を飲んだ。顔が真っ赤だ。
俺は自然と、眉根にしわが寄った。
「……美味しいです」
「よかったな」
もしも放置して帰っていたら、彼女はこの部屋にこの体調で一人だったのか。
ついてきてよかった。
「冷却シート張るぞ?」
「ありがとうございます」
まだ半分ほど残ったカップを床に置き、俺は冷却シートのフィルムを剥がした。
前髪をそっとよけ、冷却シートを張る。
じっと見られると、居心地が悪い。
一条の顔の熱さにつられたのか、俺まで頬が熱くなってきた。つか、単純にマスクに熱がこもって気持ち悪い。
「ほかにほしいの、あるか?」
黙って天井を見上げる一条に問いかけると、一条はああ、と弱く声を吐き出すと、沈黙した。
困惑しながら、俺は一条の言葉を待った。
「私は今日も、市川くんにいっぱいご迷惑をかけました」
「気にすんな。俺が一条と関わりたいから関わってるだけだ」
「……まだ、甘えてもいいのでしょうか」
「いい。いくらでも付き合う」
数拍置いたあと、
「もう少しだけ、傍にいてほしいな、なんて言っても、いいですか」
緊張ゆえかやや震えの滲む静かな声に、俺は思わず口許に笑みを浮かべた。
「一条の気が済むまでいるから。大丈夫だ」
俺の言葉に、一条はなんだか安心したように微笑んだ。
「ありがとうございます。……私が寝たら、帰ってもらって構いませんから……」
言いながら、一条は目を閉じた。
「……いや、戸締りどうすんだよ」
つい小声で聞いてしまったが、返事はこない。
まさかもう寝たのか、と顔を観察してみたが、マスクと冷却シートでほとんど見えねえ。
が、数秒して寝息がし始めたので、俺は息を吐いた。
……心臓がバクバクする。
頼って、くれたんだよな。多分。
保健室の前で、一緒にいてくれませんか、とか。
……今、とか。
嬉しかった、と思っちゃダメか。
しばらく一条の顔をぼんやりと眺めた後、俺は一条が起きる前にと玄関前に戻った。
眼鏡を回収し、一条の枕元に置く。俺の鞄はまあ廊下に放置でいいとして、一条の鞄は鍵を取った関係でチャックが開いてる。それを閉め、鍵は先程まで眼鏡を置いていたところへ。
地面に置いたから、汚れていないか裏面を確認し、あれこれ悩んだ結果、結局俺の鞄の傍に置いた。
スマホを取り出して、イヤホンを耳につけた。
適当に座って壁にもたれ、音楽を聴く。
一条が起きるまではいるつもりだ。戸締りできねえし、色々心配になるだろ。自分で体温調節が難しいやつ一人置いて帰るのもよくねえし。
その状態から一時間ほど経って、ふと思い立って参考書を取り出した。今日の課題を今終わらせてしまえば、家で好きなことできる。
父に教えてもらったブログに、ちょくちょくギターカバーをあげていたら、たまにコメントがつくようになった。
だからどうということもないが、なんとなく楽しいので続いている。著作権について詳しくなったってメリットもついてきたな。興味を持った母から質問攻めにされたので余計に。
そういや、もう少しで母の日にあげた本、学び終えるんだと言っていたような。ただでさえ仕事漬けなのに、いつ勉強してんだろうな。
父の日と誕生日が近いから、一度にプレゼントしたら父さんに苦笑されたの、もうだいぶ前か。来年は分けてやろ。
なんてことを考えながら課題を進めたら、案外集中できてあっさり終わってしまった。
定期的に一条の顔色を確認し、プレイリストを聴き流す。
目を閉じて聴き入れば、あっという間に数時間が経つ。
気づけばもう、学校が終わる時間だ。とはいえ、今日は文化祭振り返りの部活動に重点を置かれているから、帰宅部の生徒は早帰りだが。
部活動ごとに反省、改善案ノートを作り、来年に生かすらしい。黒井は、自分が高校生でいた証がしっかり残るのが嬉しい、なんて語っていたっけか。
まだ起きそうにないので、母に帰り遅れると連絡をした。
一条が寝ていることをよく確かめ、俺はゆっくり立ち上がった。




