五十九話 文化祭二日目 演劇
開演ブザーが鳴っても、しばらく俺の出番はない。つか、そもそもとしてほとんど出番はない。
舞台の上に立つことは慣れているし、緊張を感じたとしても、そう自覚すれば俺は落ち着ける。
よって、案外呑気に舞台裏から二人の演技を鑑賞できた。
藤井の方は流石だな。動きにキャラクターが乗っているし、声も聞き取りやすく感情も乗っていて申し分ない。普段はふわふわしてんのに、今はつい冷たくなってしまう不器用な少女にしか見えねえ。
台詞も吐き捨てるようだから、その冷淡さにズキリとしてしまう人もいるんじゃねえのか。
でも、なによりも月待がやべえ。
生き生きと天真爛漫に舞台中を動き回っている。そのおかげで舞台の見栄えがするし、静かな藤井の方のキャラも立ってる。
舞台から足を滑らせそうになるほど近くに寄ったり、見えなくなるほど遠くに行ったり。
とにかく足音がやかましい。いい意味で。
自然と、緑川ひかりって人間のことが好きになるんだよ。
……なあ、これから俺あそこに行かなきゃなんねえの?
二人に匹敵するだけの演劇に対する情熱もなにもねえ俺が?
きちんと爪痕残さないと、舞台のバランスが崩れる。と、ネットで見た。
俺だって努力はしてきたんだ。それなりにはなった。演者二人はともかく、観客ならこんなんで誤魔化せるだろ、って程度にまではもっていった。
でも俺、一条に楽しめって言われてるんだよな。
俺じゃないキャラを演じなきゃいけねえ。
憂鬱が首をもたげる。とはいえ、劇は順調に進んでいく。
……来た。この台詞。
スポットライトの照らす舞台上に、俺は歩いていった。
演劇は、動きで感情を伝える媒体だ。
動きはやや大げさにゆっくりと、ただしどこか無理をして見えるように。
俺は、秋山はそう歩くんじゃねえかと思ったから。
だけど、二人を見つけた瞬間、嬉しそうに跳ねる。
口許には、明るい笑みを。
「やあ、彩音! 久しぶりじゃないか!」
一気に止まる。この緩急が、見ている側を飽きさせない工夫、らしい。
向こうがたじろいでしまうほど真っすぐ、彩音を見る。彼女は瞬間、酷い動揺を顔に出して後退した。
それに頓着せず、問う。
「おや、そっちの人は?」
出来る限り能天気そうに。
腹が立つくらい、明るく。微塵も距離感を気にせずな。
「わたし、緑川ひかり! 目が見えないから目を合わせてお話しできないけれど、許してね!」
その途端、秋山は安心させるべく、話す。
台詞が現実世界の人間にしては浮いているところといい、気取りすぎて空回ってるんだ。俺はそう解釈した。
「どうしてわざわざ壁を作るんだい? 言わずともわかるさ! その手の杖が君の目なんだろう?!」
ひかりに一歩、近づく。そして、白杖に触れた。
悪気はない。そっと触れているから自由を奪っているわけでもない。ただ、遠慮がなさすぎる。
ひかりは、あはは、と苦笑する。
乾いた諦めと同時に、驚きのようなものを感じた。
「ごめんっ! 今二人とも急いでるから、いいかな?」
それを吹き飛ばすように明るく振舞おう。として失敗した、というような謝り方をして、ひかりは彩音の手を引いて足早に舞台から消えた。
不思議に思うそぶりもなく、秋山は笑顔でまた会おうと手を振り、満足げに歩いて消える。
……終わった。
たった数台詞話して歩いただけなのに、すげー疲れた。
もう二度とやりたくねえ。
今なお演技を続ける主役二人の声や動く音なんかを聞き流す。
あとはもう終わるまで待機だ。
何度も何度も聞いた話だが、聞くたび違った表情が見える。月待と藤井が役の解釈を更新しているからだろうな。それに、俺のこの話に対する解像度も上がっているんだろう。
「ねえ、そんな悲しい声を出すくらい、貴方のピアノはすたれたの? わたし以外の人のことは分からないけど、わたしは大好き! だからね、弾いてほしいの! 聞きたい! ほら、見て。ここにいるみーんな、貴方のピアノを待ってるの」
情感あふれる明るい声が響く。
一条は、なにを思ってこれを書いたのだろう。
矢野彩音は、作中徹頭徹尾凡人として扱われている。
そんな少女に、よりにもよって身近な憧れの人が、貴方のピアノが好きですとぶつける。
悪趣味だ。みんな待っているだとか言われたら、俺なら吐きそうになる。
同じ分野の天才であってもしんどいが、自分が人間性を評価している人からそんなこと言われたら、否定も肯定もできず、困る。
いや違うんだ。自分はそんな大層な人間じゃない。それはお前がただただ無知なだけだろう、とすら思ってしまうかもしれない。人によっては馬鹿にされていると感じるだろうか。
だけど藤井は、舞台の上に立つ矢野彩音は、それで救われて終わる。
リハーサルだと、そうだった。
矢野彩音は、いろんな感情がないまぜになったような息をほんのわずかに発し、舞台裏へと歩いてきた。
そのまま、事前に月雪が録音した音声データが流れる。主役二人とも弾けなかったからな。クラスどころか学年単位でも随一の技術を持ってる月雪が弾くのは当然の成り行きだった。
心臓が跳ねる。しっとりした進行の中に、濃くはっきりと感情が滲んでくる。
前の音を引きずりつつもからからと移り変わっていく音色。完全に吹っ切れたようではなく、ハッピーエンドでもほろ苦さを感じる。
全て引っ張り上げるような力強さがあるのに、不思議と柔らかな歌声が乗る。
刺々しくも晴れやかなハモリ。
つい笑みが漏れた。
マジか。演劇って面白いな。いや、分かったつもりではいたんだが。
なんつうの、これ。
おもしれえわ。リハーサルと印象が百八十度変わる。歌を通して、わずかに残っていたわだかまりが溶けていく。
聴いていると、それに伴って今までの台詞も前向きに押し出される。
なんていうか、キャラの心情が腑に落ちた。
彩音は、思い上がっていたかった、のか?
なにも知らない人から、貴方のピアノが好きだと肯定されたかったのか? それで、自分は天才だと信じていたかったのかもしれねえ。
……あとで台本読み返すか。
そして一条は、おそらく藤井に向けてこの役をチューニングした。
矢野彩音にとってのピアノは、藤井にとってなんなのだろう。
答えは決まっている。演劇だ。
だとするともしかして……いや。
考える必要ねえか。
なんにせよ面白かった。何度も読み返していたが、新しい解釈を味わった。
演目が終わったところで、パーティーションの中に生徒が集まってきた。
全員さっぱりした面持ちだ。
一条はまず主役二人に駆け寄り、凄い勢いで褒め始めた。
踵が床から離れている。
一通り満足したらしい。
おそらくは二人の気を損ねないうちにと、そそくさと一条が離れようとした瞬間、藤井は肩を掴むようにして一条を引き止た。一条の耳元に口を寄せ、一言二言話したあと友達の方へと歩いていった。
一条はしばらく固まって、そのあとにじわじわと嬉しそうな顔をして、俺の方に来た。
「市川くん。いい演技でした。楽しめましたか?」
「あー、それは分かんねえわ」
今のところ疲労感が強い。
「でも、面白い経験にはなった。……ああ。だから、誘ってくれてありがとう」
一条をまっすぐ見やる。一条はにこやかに、いえ、と静かに微笑した。やや頬が赤く見える。
訝しく思うも、一条がメモ帳を取り出し楽しそうにメモを始めたので、話しかける余裕がなかった。
が、流石にぶつかりそうになるのは看過できない。
足元に転がっている小道具のせいで転びかけていたので、慌てて肩をひっつかんで止めた。
ふらつくので、俺はやっぱり焦りながら両肩を両手で支え直す。
「……お前どうした?」
おかしくねえかと問うも、いえ、と目線すらこちらによこさない。
こいつは嬉しいんだろうな。そこらでお疲れとかすごかったよとか交わされているこの空間にいられるのが。
一体藤井になにを言われたのか気になるが、まあ聞く必要もねえか。
「市川君も一条さんもお疲れー!」
村上と女子数人とに話しかけていた黒井が、端の方にいた俺と一条の方に来た。
「特に一条さんなんて主役と並ぶ、どころかそれ以上の重労働だったじゃん」
「いえ。こちらこそ、私を総監督として指名いただいてありがとうございます。おかげで得難い貴重な経験をさせていただきました」
「こんなにみんな楽しくやれたのは一条さんのおかげだよ! ありがとー!」
ぎゅー、と衣装班の女子に抱きつかれ、一条は困り果てていた。ズレた眼鏡をかけたまま、俺を見る。
「そうだよ一条! お疲れ!」
小道具のリーダーからも言われ、一条はいえ、とたじたじになっていた。ひっついていた女子が離れ、にこーっとする。
黒井をきっかけに、話を一度切り上げ、クラスメートのほとんどが一条の方に感謝と労いの言葉をかけていった。
一条はやや義務的な返答ではあるものの、ほのかに微笑を乗せ、こちらこそありがとうございます、と丁寧に礼を述べた。
その様子をぼんやりと眺めていると、ただただよかったと感じ入るんだ。




