五十八話 文化祭二日目 手錠と喫茶
文化祭二日目。今日は団体・クラス単位での発表なので、昨日とは毛色が少し違う。
クラス単位の方が当然人数が多いために、人手が必要となる大規模なものも行えるわけだ。
お化け屋敷、メイドカフェ、ダンス、フォトスポット、脱出ゲーム、……色々ある。
一条はどこに行きたいんだろうなと思いつつ登校すると、彼女は悲しそうな笑みでジャージにクラスTシャツを着ていた。
ああ、制服を予備に回したのか。
「昨日の反省を生かし、制服ではなくジャージを着てきました。そもそもスカートは、帰る途中に転んで汚れたので今日はありません」
「結局汚れたのか」
「はい。予備を準備しておいて正解でした。それと」
一条はおもむろに手錠を取り出した。もちろん玩具の。妙に本物っぽく見えるんだが。
「これをつけたら、私、市川くんから離れないと思うのです」
だろうなと思ったわ。
「そりゃ物理的に離れられねえからな」
お前は犬かなにかか、と言いたくなったが、彼女なりに大真面目に検討した結果なのだろう。
「……片手塞がると困らねえ?」
「一心同体になればきっと大丈夫です」
そうか、一心同体になれば……。
俺は考えることを放棄した。
「……鍵持ってるんだよな?」
「はい。もしなくしても安全装置があります」
「……わあったよ。回るときはつけような」
幸いにも、ここには文化祭の浮ついた空気感がある。メイド服とか幽霊が入り混じっているこの空間で、手錠の一つや二つ、目立つとは思えねえし。
「ありがとうございます。これで安心です」
ああ。こいつは周りの目なんざ一ミリも気にかけねえよな。分かってた分かってた。
……俺以外のやつにもこいつはこんな感じなんだろうか。こんな感じなんだろうな。ただただ心配になるんだが。
定期的に思っている気がする。
宣言通り、彼女は回ろうとすると真っ先に手錠をかけてきた。一条の右手と俺の左手。
チャリチャリ音がする。不愉快な音だなこれ。
「そういや、こんなんよく家にあったな」
「昨日の放課後買いました」
行動力すげーな。
「お金は?」
「ちょうど手錠がほしいと思っていたので、想定内の出費です。千円未満のものを買いました」
意外と高くねえかそれ。
「脚本?」
なんで手錠がほしいのか、と考えて真っ先に行き当たった。
「はい。ミステリーを書いてみようと」
実際に手錠が必要なのか。
さっきからちらちら見られているような気がするな。まあ、俺が少し手錠を気にしてしまっているから、人の視線に過敏になっているだけだろう。気にしないようにするか。
そんな状態で、俺と一条は最初にお化け屋敷へと入った。
なかなか本格的で面白かった。いつも使っている教室と同じ場所だとは思えないくらいだ。
俺は内心驚いたししっかり楽しめたんだが、動きに全く影響が出なかった。一条も同じらしく、手錠が枷になってパニックになるなんてことはなかった。
が、手錠をつけていることによる緊張感はあったので、結果としてより楽しめた、と思う。
出口を出て、お互い面白かったなと言い合い、あれは驚いた、これは驚いた、と報告したのだが、お互い相手が驚いていたことに全く気づいていなかった。手錠つけていたのにな。
そんな調子でそこらをほっつき歩いているうち、手錠の感覚にも慣れた。それによる不便は、午前中ほとんど感じることがなかったな。
だから油断していたが、メイド喫茶じゃ流石に邪魔だ。対面に案内されるし、もちろん料理も飲み物も満足に食べたり飲んだりできなかったからな。
致し方なく手錠を外し、なくさないよう鍵ごと俺が持っておいた。
注文した料理を待っている間、俺はぼんやりと一条を観察する。
一条は躊躇なく好きだと言う。今も、独り言なんだか俺に言ってんだかわからん話し方で、こういう如何にも文化祭という雰囲気が好きです、なんて呟いた。
メモ帳を携えて熱心にメモをしているからなにをしているのかと問えば、綺麗に見えた仕草、好きだと思った動きを文章化していると。
「……誰が好き、とか」
一人で考え続けているとどうにかなりそうだった。つい零れ落ちた言葉に、一条は手を止め真っすぐこちらを見やった。
出会ったときから、こいつの真っすぐさは微塵も変わんねえ。
「何が好き、っていうのは、恥じる必要がないはずだよな」
「ええ」
一条は目を伏せ、小さく零した。
「それには私も同感です。ただ、……これが答えになるかは分かりませんが」
静かに語る一条に、俺は心地よさを感じた。
「私は以前、兄に聞いたことがあります。どうして貴方は、好きなものを話すとき躊躇するのと」
……あ?
前会ったときや一条の話からは全くそんなこと思わなかったが。
数年前、あるいはもっと小さい頃は違ったってことか? 想像できねえな……。
「私の兄が言うには、何か、どなたかを好きだと告げることは、自分の一番脆い部分を見せることと同義ではないだろうか、と。脆い部分を見せるのは誰しも抵抗があるだろうし、たとえば否定されたり、拒絶されたりなんかしてしまったら、そのあと脆い部分を見せることに拒否反応を起こしてしまうのも、仕方ないと思わせてほしい。そう答えが返ってきました」
そのタイミングで一条の頼んだオムライスが届いた。意識がそちらに向いたらしく、一条は店員がノリノリでケチャップがかけるのを、わくわくと見守っていた。
楽しそうだな、と眺めていると、終わったのか店員が離れていった。一条はやや興奮気味に、
「本当のメイドさんみたいですね」
「本当のメイドはそんなことしねえよ」
どの時代のどの役職かによっても変わってくるが。少なくとも、ご主人様も一緒に、ハートを作ってくださいね、などとは絶対に言わない。
「それもそうですね」
いただきます、と手を合わせた。既に美味しそうな顔をしている。
スプーンで掬い、一口。ゆるゆると頬を緩め、味わって食べた後、俺を見て言った。
「美味しいです」
「よかったな」
俺は多分、一条の声も話し方も好きだ。
……一番脆い部分を見せる、か。
一条とどうなりたいとかもねえし、改めて言葉にするようなもんでもねえけど。
一条はそういう、言葉にするまでもないようなことを一つ一つ拾い上げて、言葉にするんだよな。
私、市川くんのこと、好きですよ、って。
俺だって、そう生きてきたんだよな。
だったら、ちゃんと恋愛的に好きですって言うべきなんじゃねえの?
「……弱みを全て吐き出せる関係は素敵ですが。何もかもに素直になれたらいいですが。たとえば背伸びをしあう関係でも、私は良いと思いますよ」
唐突に一条が話しかけてきた。一瞬なんの話かと思った。が、ああ、さっきの話の続きか、と理解した。
そうか、別に全部開示する必要もねえのか。
俺が言いたいと思ったときでいいか。
心を見透かされたような発言だったから、ちょっとびっくりしたわ。
オムライスを半分ほど進めたところで、一条が申し訳なさそうに皿を差し出してきた。
予想ついてたわと思いつつ、無言で受け取り食べた。今更なにも気にしない。
沈黙が続く中、俺を観察している一条は、なんだかにこにことした雰囲気でいる。メモ帳を手にして満足げなところを見るに、なんか好きな仕草なり表情なりがあったんだろう。
居心地悪く感じながらオムライスを平らげ、席を立った。
もうそろそろ午前の部が終わる。全体で休憩が入るんだ。生徒会が体育館で余興をしているらしいってので、一条と体育館に向かった。
俺としては、そろそろ星野が帰ってくれていることを祈る。頼む。帰ってくれ。つか来ないでくれ。
バイオリンの話をしているときかバイオリンを弾いているときのあいつはむしろ好きだし楽しいんだが、それ以外だとどうしても苦手なんだ。申し訳ないがどうしても苦手なんだ。
休憩中、ほぼ唯一の楽しみがここなので、当然のように人が殺到した。
手錠をつけていなければ、おそらく一条とはぐれていたことだろう。手錠って便利なんだな。
などと至極どうでもいいことを考えながら生徒会の発表を終え、午後の部。
俺と一条のクラスは最後の最後なので、まだまだ時間がある。
最後までしっかり楽しんで、手錠を外し、控室へと入っていった。
とはいえ、パーティーションで区切られただけのスペースだが。
衣装に着替えたり化粧を施したりすれば、もう別人だ。髪のセットも変えてしまえば誰だかわからねえ。
目つきの悪さも化粧で上手く誤魔化されていて、それほど威圧感があるように見えない。
すげー、と手鏡を持って感動していると、化粧担当の女子は大慌てて主役の方へと走っていった。大変だな。
が、意識してみればどこもかしこも浮足立っている。ピリッとして感じるのは、緊張からくる固さが出てしまっているのだろう。
コンクールの前、舞台の上では堂々として見えた人たちも、こんな風に緊張していた。ああ、俺と同じく緊張するのか、と少し親近感のようなものを覚えたっけ。
つか。今まさに、気さくに話しかけてくれているにも関わらず、なんとなく遠く感じていた人たちを、ほんの少し身近に感じてるわ。
同時に、より遠くにも感じてんだけど。
どいつもこいつも真面目なんだよ。緊張してしまうほど一生懸命打ち込めたんだろ? その態度は賞賛すべきことじゃねえの?
ここにいるやつら全員それ当たり前だと思ってっけど。なんでそれを当たり前だと思えるんだ。
やっぱなんか微妙に合わねえな。まあ、微妙に合わねえ俺に話しかけてくれるいい人しかいねえんだけど。
誰よりも緊張でガッタガタになっていそうな一条は、意外にも動きまわっていた。
衣装や道具以外の、本番動くメンバーに頑張ってくださいと伝えている。
もっとも、ちょくちょく逆効果なやつがいるが。
藤井なんて顕著だ。化粧済みの顔で、思い切り引きつり笑いを浮かべている。
じゃあもう一人の主役の方はというと、緊張で顔色を悪くしていた。血が通っているか心配になる。
こいつ――月待のせいで引っ張られている奴が何人かいるんじゃねえの。黒井なんかいつもより口数多いぞ。
心配になりつつ眺めていると、よく話している人と話していくうち、月待はようやく微笑をこぼした。
それによって、明らかに空気が弛緩した。緊張からの緩和からか、月待に釣られてか、笑う人がそこそこ出てくる。
練習のときから思ってたが、こういう影響力の強さは、確かに舞台にうってつけだろう。
……まあ、それが悪い方に左右することもありそうだが。
いつも通りの和やかな雰囲気に戻ったここに、本番五分前の一ベルが鳴った。
「市川くん」
本番出番がないやつはもう観客席側に回ってるんじゃねえのかよ。
少々驚きながら散漫な返事を返すと、一条はいつも通りの落ち着いた声音にやや期待を乗せ、
「楽しんでください」
俺は少しのためらいもなく、こう言っていた。
「おお」




