五十七話 文化祭一日目 演劇部と美術部
ポテトとかクレープとか、外の売店を粗方回りつくしたところで、午後、校内展示の方に向かった。
色んな食べ物を食べられた一条は、満足そうにしていた。
「市川くん。ありがとうございます。市川くんがいるおかげで色々なものを食べられました」
柔らかな雰囲気だった。こんな嬉しそうにするとは思わなかったけど、まあよかった。
口許が微妙に緩んだ。
あれこれふらふらと辺りを見渡し、一条はどんどん進んでいった。手元に意識が向かっていて、目の前のことを気にしていない。
流石にあぶねえ。
人とぶつかりかけたところで、俺は一条の腕をひっつかんだ。
一条が思った以上に軽く、俺に引っ張られたことで、ギリギリすれ違うことができた。
ほっと息をつく。
「おい。あぶねえよ」
「……すみません。ありがとうございます」
すっかり気が動転しているらしい一条に、俺はため息を吐いた。
せっかくの文化祭なんだから、自己嫌悪することなく楽しんでほしかったんだけど。
手首を握っていた右手を、一条の左手に移動させる。冷え切っている上に日光にあまり当たっていなさそうな白い肌に、陶器かなにかを触れているような気分になる。
握りこむと、俺は歩き始めた。一条は驚き故か固まっていたので、出来る限り柔らかい声音を意識し、声をかけた。
「ほら、飲み物買いに行くんだろ?」
一条はそれでようやく動き出し、そっと握り返してきた。
何回か繋いだことがあるから、もう慣れた。
「私の記憶ではここ付近に飲み物の売店が……あ、こちらの空き教室ですね」
一条の指さしたほうに目を向け、俺は感心した。
へえ。ラムネか。いろんなフレーバーが混ざってるみたいだ。苦そうなものも酸っぱそうなものもある。
その隣でチュロスを売るのは、まあ中々に合理的だ。
俺と一条各々飲みたいフレーバーのドリンクを注文する。
一条はパインを頼んでいた。
周りの声を拾う限り、結構癖がありそうだな。
ドリンクを受け取って飲んでみると、俺はそこそこ好きだった。ちょうどいい感じのレモンだ。
一条は、ああ、少々癖がありますが美味しいですね、とごくごく飲んでいた。
「お前、本当に好き嫌いねえのな」
「はい。基本的には好きですね。市川くんは、酸味の強いもの、ですよね」
「おお」
大分前に話したことだけど、覚えてたのか。
「まあ、どれも好きだけどな」
「なら、これ飲んでみますか?」
一条が口をつけたストローを差し出された。カランと中の氷が鳴った。
「…………一口だけ」
言葉に詰まったが、一条がせっかく提案してくれたんだ。飲みたくないわけでもねえし、一口すすった。
まあ、なんか、なんとも言えない味だ。少なくともパインではねえよ。
狙ったまずさってわけでもない。何回も飲みたいほど美味くもない。
俺がなんとコメントすべきか悩んでいると、一条はすんとした顔で思い切り吸い上げた。よく飲めるな。
「そろそろ演劇部の方に向かいましょう」
「おお」
両手塞がるのは危ないので、俺より前に行くなよと念押しして手を離した。
演劇部は体育館を勝ち取ったらしい。毎年個人も部活も体育館を使いたくて、選定がシビアになるみたいなんだが。
ちなみに体育館使用のプログラムを組むのは文化祭実行委員の仕事である。当日も見回りがあったりなんだりして、それはもう大変なんだとか。これに立候補できるやつの気持ちが理解できねえ。
薄暗くなった体育館の前の席を確保し、一条は両手で飲み物を握っていた。寒そうだな。
演劇部。といえば、藤井がいるな。
藤井奈々。一条と揉めたらしいやつ。練習をちらっと見た限り、クラスの中で演技が飛びぬけて上手かった。伊達に演劇やってねえよな。
上演の放送があり、劇が始まった。体育館の空間を余すことなく活用したそれは、文化祭って場にふさわしいだけの演技と熱を持っていたように思う。
藤井も例外じゃない。一年なのにキャストとして出て、先輩に負けないくらいの演技をしている。
やっぱりこの高校のやつはすげーよ。真面目に打ち込んできたんだと分かる完成度だ。
実際にやってみてわかった。演技ってむずいんだよ。役の解釈をして、それを落とし込む技術とセンスが必要だ。
常日頃から自分の動き、人の動きを観察していないと、違和感が出てくる。
加えてそこに、感情、キャラクターを乗せなきゃならねえ。
でも、演劇部の演技には違和感が全くないし、キャラが立ってる。実在していて、本当に舞台の上にいるみてえなんだよ。
すげーな、と素直に思った。もちろん、藤井に対しても。彼女だからこそ一条は話しかけたのだろう。つい気になってしまったのだろう。
終わったあと、そこらじゅうで拍手が聞こえた。
魔法が解かれるように体育館に明かりが戻り、面白かったねーなどと言いながら人が席を立ち始める。
俺も立ち上がると、一条に言った。
「面白かったな」
「はい。すごかったです」
はしゃぐように輝いた目に、そりゃこいつはそう言うよな、とどこか安心した。
星野に対する俺みたいに、悔しさが滲んでいる様子もない。いや、一条はそりゃ藤井のこと嫌いなわけじゃねえから当たり前なんだけど。なんか、こう、わずかにもやもやするというか。まあ、俺、当事者じゃねえんだけど。
……考えるのやめるか。
「楽しそうでした」
付け足された言葉に、俺はいつも通りの声音で返した。
「そうか。じゃ、明日が楽しみだな」
「……はい」
一条は微笑を浮かべた。脚本家としての喜色でもあり、演劇好きとしての期待でもあるのだろう。
俺は一条が楽しそうだから、それでいい。
空っぽになったコップ二杯をゴミ箱に捨て、体育館を離れた。
普段何気なく過ごしている廊下に、制服姿以外が散らばっている。あちこちに看板や誘導がある。
感じている非日常感は、コンサート会場に入場しているようでもあり、自分の家に部外者がいるようでもある。
高揚と居心地の悪さとを同時に感じている、というか。
これが文化祭の雰囲気を楽しむ、ってことか? 違う気もするが、あっている気もする。
ちらりと一条を見やる。彼女は三つ編みを弾ませ、きょろきょろと目移りしながらも、目的地めがけ歩いていく。
また人にぶつかりそうになってる。つか、さっき俺より前に出るなっていったよな。
嘆息しつつ、俺は一条の後を追って美術室へと入った。
静かだった。美術部の作品が展示されているらしい。案内役らしい女生徒が、老夫婦らしき二人に穏やかな声音で説明している。
「もしよろしければ、こちらにご感想を。気に入られた作品は、ご購入も可能ですよ」
ゆったりした口調で、紙とペンを示した。一条はそちらを気にしながらも、室内に大量に飾られた絵に魅入られている。
俺は入り口から少し進み、一条の近くへと移動した。机が撤去され、様々な光景を描いた絵がそこかしこに点在する室内は、どことなく幻想的だった。
「それから、募金のご協力も。もちろんこちらも、もしよろしければですが。資金は展覧会などのイベント開催や、画材などに使わせていただきます」
聞いていて惹かれる声だ。どこかで聴いたことがあるような。
「なら、ほんの少しだけれど、これくらい入れようかねえ」
老齢の女性が募金箱に小銭をじゃらじゃらと入れた。
「ご協力、ありがとうございます。有効活用させていただきます」
くすりと、案内役の生徒が笑みを浮かべた。
そうだ、放送か。放送委員だ。放送部と兼部しているやつがほとんどだけど、別にそうしなきゃいけないって規則はない。そもそも、美術部と兼部したっていいわけだしな。
すっきりした俺は、静かなこの雰囲気で一条に話しかけるのも気が引けて(第一絶対に返答が返ってこない)、ぼーっと興味のない絵を眺めていた。
隣を見れば、一条がキラキラと絵を観察している。
もう一度絵を見る。へえ、としか思えない。
――羨ましい、と思った。
今、明確に。
自覚して、やや目を見開く。
彼女の見ている世界は多分、俺が見ているそれよりずっと、解像度が高く色彩豊かだ。
それが俺は羨ましい。
俺は今、楽しい。一条がいるから。彼女が楽しそうだから。
だけど、彼女が楽しいというそれらは、楽しくないわけではないが、楽しさ、面白さが疲労、値段に見合っていないと思う。
結局のところ、俺の性根は変わっていない。
バイオリンに縋り、それ以外をなかったことにした中学の頃から。何に対しても興味を持てなかった幼少期から。
俺はそれでいいと思ってたし、そこに劣等感を覚えたことはない。まあ、楽しめるんならそれが一番だとは思ってたが。
だけど、今この瞬間、楽しめない自分に嫌気がさした。
成長でも進歩でもない。ただの変化だ。
そこまで考えて、俺は小さくため息を漏らした。
だったらなんだ、って話だ。
別に好きなこと以外どうでもいいってのは、悪いことじゃないはずだ。そこそこ上手くやれてんのなら。その結果好きなことにまで悪感情を持つことが嫌なだけで。
過去の自分を特別否定してやる必要も、今の自分を特別持ち上げるわけもねえ。
あー、そっか。俺は今楽しめないことが嫌だから、自分を否定したい気分になったわけだ。
めんどくせ。んなことしたって意味ねえわ。感性が急に変わるはずねえんだから。
一条はすげえ。それで終わりだ。
「そちらは私が描いたものですね」
先程の女生徒に声を掛けられ、俺ははじかれるように顔を向けた。
「ああ、こちらの」
「ええ」
それから一条の背に、
「気に入っていただけましたか?」
完全に一条に向かって問いかけているのだが、悲しいかな、一条は熱心に絵を見ていて気づいていない。桁違いの集中力が悪い方に発揮されちまった。
おい一条、と軽く肩に触れると、ようやく顔を上げた。
「お前が見てた絵の作者さんだと」
「あ。素晴らしい絵ですね。細かなところまで観察してしまいたくなります」
距離が近くなりそうだったのでさりげなくブレーキをかけてやる。俺が肩ひっつかんで止めてやらないと、顔の真ん前まで行くからな。こいつはそういうやつだ。
「お褒めいただいて光栄です。そうだ。君、一組の脚本家さんですよね。明日の劇、観に行かせていただきますよ」
控えめに手を合わせた生徒に、一条はぴたりと動きを止めた。
「ありがとうございます。東先輩」
二年と作品名の横に書かれていた。一条の言葉に、その人はにこにこと笑みで返した。
「楽しみにしています。知っていますか? 私は実行委員の友達がいるのですが、村上ちゃんと平井くんが、会うたび演劇の期待を煽ってくるんですって。村上ちゃんに至っては、脚本家兼総監督が面白い子で、いっぱい働いてくれてるんだと言ってたみたいですよ」
平井、というのはもう一人の実行委員の名だ。
一条は少しばかり目を見開くと、嬉しそうに少しだけ微笑んだ。
「そうなのですか。それは、嬉しいことです」
その表情が暖かで、よかっただとか、一条はやっぱすげえな、とか思うと同時に、ハードル高くなってんじゃねえか、と微妙な気持ちになった。主役二人はともかく、それ以外はずぶの素人なんだぞ。いくら優秀な我が高校の生徒とはいえ。
一条はお気持ちばかり、と募金箱にお金を入れ、美術室を後にした。
じんわり嬉しさを噛みしめる一条を横目に、俺はどうもこいつの感性が好きらしいぞと実感した。
つか、喜んでる顔が好きなのか。
艶やかな黒髪が少し不格好に三つ編みにされているのを眺めつつ、改めて自覚すると、なんだか少し、こそばゆい気持ちになった。
……なんでだ? 別に好きなもんを好きって思うのに、なんらおかしなことはねえはずなのに。
不思議に思いながらも、軽音部の演奏やら個人発表やらを満喫し、文化祭一日目は終わった。




