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五十四話 天才

 音圧が空気を変える。一瞬で音楽の世界観に引っ張り込まれた。

 胸の奥がぞわぞわする。

 一音一音が心に直接ぶち込まれてるみたいだ。

 また上手くなってる。

 くるくるバイオリンの音の感情が変わる。バイオリン自体が歌ってる。

 ああ、やっぱバイオリンいいな。つか、星野の演奏がいいな。

 ゆらゆら弓が押しては引いて、引いては押してを繰り返す。

 当然のことだけど。俺の演奏とは比べ物にならない。

 一曲終わっても俺は、すぐに切り替えることができなかった。圧倒されていた。

 余韻に浸って、浸って、ようやく気がついて、ぽつぽつと拍手し始めると、やがて熱狂するような音へと変わった。

「やっぱお前、いい演奏するよな」

 苦い思いがないわけではないが、つい笑っちまうほど素晴らしい演奏だった。

 マジで、ヤバかった。最高だった。

 星野は照れたように頬をかいた。

「へへへ、どうも」

 自分の演奏が好きなわけじゃねえのに褒められると照れるのか。つくづくよくわかんねえ。

 微妙な気持ちで星野を眺めていると、あのさ、と笑み混じりながら真剣そうに見つめられた。

「一緒になんか弾かね? ダメ?」

「は? なに、なんで?」

 本気で言ってんのか。これで馬鹿にする意図がないとか、本当嫌になる。

 二重奏を星野と? 俺が?

 そんなことしたら俺の下手さが浮き彫りになるだけじゃねえか。

 やや睨みがちになってしまったが、そんなことおかまいなしに星野は言葉を並べ立て始めた。

「せっかく借りたし、二人ってちょうどいいし! あ、1stと2ndどっちがいい? てか曲なにがいい? 楽譜、もしあれだったら今急いで買ってくるけど!」

 ペラペラペラペラキラキラキラキラ鬱陶しい。

 どうせ話聞いてくれねえよなこれ。嫌なんだけど。どうすりゃやんなくて済むかな。

 帰るのは流石にお金がもったいねえし、つかそもそも星野と会った目的ってそれじゃねえし。ここで脚本見せるなら、やっぱりスタジオ代がもったいねえし。

 必死に頭を回したが、結局いい策は思いつかない。

 俺はいやいやながら、ため息をつき言った。

「お前1stな」

 これだけは譲れない。こいつの土台の上で主旋律なんて弾きたくねえ。

「やった! なあなあ、曲何がいい?」

 言いつつ、おもむろにスマホを取り出し、俺を見た。

「記念に写真撮ろうぜ!」

「なんでだよ。せめて録音だろ」

「えっ! 録音していいのか?!」

「……」

 余計なことを言った。嫌だ。こいつのスマホの録音データの中に俺のバイオリンの音声が残るなんて耐えられない。

 俺の気も知らず能天気に曲を探している星野に、出来る限り2ndが単純なものを、と考え、思い当たる数曲を候補に挙げ、選ばせた。

 あー、いやだ。

 憂鬱な気分になりつつ、俺はバイオリンを構えた。視界の右端に星野が映るくらいの角度。見えてないと流石に厳しい気がする。

 まだ覚えてるよな、と軽く指を動かしながら、星野をしっかりと見ると、今まで見たことないほど緊張した様子でいた。

「……お前って緊張することあるんだな」

「俺のことなんだと思ってる? 普通にあるよ。友達の試合見に行ったときとか」

「コンクールのとき、お前が緊張していた記憶がないんだけど」

 見かけなかっただけだろうか。

「まあ、コンクールのときは。誰にどう思われようと気にしないし、今まで練習してきたし、客観的に上手なのは分かってるから」

 言いつつ、弓を取り落としそうになっている。変な奴だな。

「……よし」

 覚悟を決めたかのように弓を握り直すと、星野は一音目を響かせた。

 弾き始めると緊張の色は消え、輝き始める。

 聞き惚れそうなほど美しい音色。さっきとは打って変わって華やかで楽しそうだ。

 一瞬でも油断すると、手が止まりかかる。そのせいで音が上手く伸ばせない。ぎこちない。

 顔が歪んでいくのが分かる。自分の音が完全に邪魔になっている気がする。

 嫌になるほど実力の差を見せつけられる。

 辛うじて頭の中の楽譜を追っている状態だ。時折音楽記号を忘れそうになるし、意識していても思ったようにできない。少しずつ、少しずつ息が詰まっていくようだ。

 気を抜けば、演奏姿勢が崩れそうになる。

 それでも、星野の演奏に乗せられるように音が跳ねる。

 何一つ思い通りにならないことに悔しさと苛立ちを感じながら、俺は笑っていた。

 人と合わせたことなんて数えるほどしかない。同年代なら一回もないかもしれない。

 楽しい。

 キラキラ輝く音色のおかげで、埃みたいな俺の演奏も煌めいて聴こえる。

 下手でも弾いていていいように思える。

 弦を弓から離す。

 バイオリンの音で満たされていた室内が、しんと静まった。

 一曲だけのつもりだったが、星野が次あれ弾こうと持ちかけてくると、当然のように受け入れていた。

 そして、何曲目かも忘れたときに、はっと時計に目を走らせれば、スタジオの終了時間ギリギリになっていた。

 大慌ててで椅子やらなにやらを元に戻し、バイオリンを片付け、慌ただしく部屋を後にした。

「それで、脚本だっけ? 見せてよ!」

 本来の要件とは全く違うところに時間を取られたがまあいい。楽しかったし。

 適当なカフェに寄り、俺は星野に脚本を渡した。彼は表情がころころ変わる。十分ほどで読み終えると、面白かったとにこやかに脚本を返してきた。

「俺、この子好きかも。緑川さん」

「なんで?」

 呼び鈴が鳴る。

「発言がポジティブだから。やっぱ人は前向きでなきゃだめだよな!」

 星野は水を飲んだ。うわ、手ーつめた、とこぼす。

「弦也がやるのは秋山くんだっけ」

「おお」

 紅茶を一口飲む。アイスだから、冷たい。

 星野は手についた水をぽたぽたと机の上に垂らした。放置するのかそれ。

「なんかずっと孤独だな」

 遠くで、お待たせしましたーと店員の声が飛んだ。

 孤独か。言われてみればそうだな。

 主役二人は友人関係だし、ほかにでてくる脇役も四人グループの話だ。

 脚本をパラパラとめくる。

 幼馴染だというわりに、矢野と秋山の関係は天才と凡才で終わっている。他の人は全員未熟さというか、人間味が描写されているのに欠点が出てこないし。

 一人だけ異質だ。

 だけどそれを悲観する様子は見られない。第一そんな胸中を吐き出すほど矢野も緑川も秋山に関わっていないのだ。

 秋山から壁を作っているわけではない。二人から壁を作っている。でも、そうさせたのは秋山の方だ。

 他人の心に土足で踏み込んだ。もしもこれを他の人に向けてもやっていたとしたら、彼に友人はいるのだろうか。

 客観的事実として確定しているのは、ピアノの天才ということだけだ。

 表面上は明るく、いかにも人望がありそうに見えるが、もしもそんなことなかったら。それでも前を向いているのだとしたら。

 それこそが、一条の用意した秋山の人間味、魅力だとしたら。

 一条に似ている。

「……なるほどな」

 彼がどういう感情を持ってこの発言、行動をしたのか、俺なりに推測できそうだ。

「……これ面白いな」

 読み直すと、印象がガラッと変わる。

 大分新鮮な体験だ。

「よくわからんけど、弦也の役に立てたならよかった!」

 星野は水を飲み込んだ。こいつは今ホットケーキを待っている最中である。

 ……二重奏、楽しかったなぁ……。

 …………。

「お前ってさ、バイオリンを弾くの、別に好きじゃないんだっけ?」

「おお! 嫌いかは分かんないけど、好きではないかな!」

 きっぱりと断言した。そういや、始めたきっかけも自分からじゃなかったもんな。

「好きじゃないのに、今もやってんのか」

「好きになりたいと思ったからな。それに、弾いてて特別苦痛ってわけじゃないし! 一回辞めるともう二度と弾かなくなりそうだし。嫌になるまでは続けてもいいかって思ったんだ」

「へえ」

 まあ、元々好きじゃなかったら、俺も中学のときにバイオリン売ってたかもな。そうなったら弾こうかと仮に思ったとしたって、多分買い直しはしなかったろうし……。

 そうしてなくてよかった。このバイオリンはもう二度と手に入らないだろうから。

 手放していたらと思うと、ちょっと、ぞっとする。

「聴くのは?」

「大好きだよ」

「じゃ、今度どっかコンサート行こうぜ」

「おう! ……え?」

「なんだその顔。つかどっちだよ」

 鳩が豆鉄砲食らったみてえな顔してんだけど。そんな変なこと言ったか?

 まあ確かに突然だったけど。でも人誘うときって絶対唐突にならねえ? 今から誘うね、とか言わんだろ。

「いいよ! どこ行く? なんか目星ある?」

 前のめりになられると、すげー邪魔だ。やや眉に力が入ったが、あからさまに避けるような真似はしなかった。

「いや。星野が行きたいとこでいい」

「じゃあ探しとくな! ちょうどどっか行きたいなーって思ってたとこなんだよ! 本選終わって余裕できたし」

 当たり前のようにチケットを貰ったので、コンクールの本選は聴かせてもらった。どの参加者もレベル高くて聴きごたえがあったな。

「お待たせしましたー。こちら、ホットケーキになります」

 さっと席に腰を落ち着けた星野は、あ、ありがとうございます!と店員に笑顔を向けた。最初に出された水は飲み切って、空のコップだけが残っている。追加で飲み物を注文する気配はない。

 紅茶を飲み干した俺は、立ち上がり言った。

「じゃ、俺はそろそろ帰るわ」

「え? あ、おう、うん」

 先程差し込まれたばかりの伝票を抜き取り、ポケットに突っ込む。

 美味しそ!とホットケーキに蜂蜜をだらだらとかけた星野に、若干慄いた。

「お前それ、飲み物なしで食べんのか」

 つい聞いてしまった。星野は平然とした顔で返してきた。

「おお。今日はそういう気分!」

「そうか……」

 何とも言えずにいると、ナイフとフォークを握った星野はこちらを向いた。あぶねえからよそ見すんなよ。

「そうだ、文化祭頑張ってな! 気が向いたら誘ってくれよ!」

「ああ。まあ、気が向いたらな」

「楽しみにしてるから!」

 当然のようにプレッシャーをかけてくる星野に多少辟易を感じつつ、俺はレジの方へと向かった。

 精算を終え、カフェを出る。

 すっかり深くなった秋風に吹かれ、今日は楽しかったな、と思った。

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