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五十三話 役の深掘り

 文化祭準備期間中、一条はいろんな人と関わることになった。藤井や藤井と仲がいい人たちとはうまく話せていないようだが、最低限の会話はできていたようだし、ほかのクラスメートとはごく普通に話をしていた。

 俺についても、ほとんど関わったことがないような人も好意的に話しかけてくれた。棘がある言動であったり尖った態度であったりを全力でやすりにかけたので、おそらくそこまでの悪印象にはなっていないはずだ。精々が多少愛想がなく口下手なやつ、くらいの。うまくはないだろうが、悪い態度ではなかったと思いたい。

 慣れないことをしたせいで、普段の学校生活より数倍は疲れた。

 ため息を吐きだし、俺は自分の部屋に鞄を置いた。

 机に向かい、脚本を取り出す。ただホチキスで留められただけの簡素なものである。紙も特別いいものではない。実に高校生らしい、といった雰囲気のそれをパラパラとめくる。

 演技の基本については、今時ネットで調べればいくらでも出てくる。

 だけどやっぱり、役の深掘りからは逃れられない。

 自分で立候補し、やると決めたのだ。中途半端で終わるわけにいかない。少なくとも、主役二人と並んで霞まないレベルにまでは引き上げなければ。

 とりあえず俺は、スマホのメモに、自分がやる役の行動、台詞を一通りまとめた。それから、脚本から読み取れるプロフィールも。

 名前は、秋山星彦。男。明言されていないが、中学二年生だろう。脚本を見る限り。主役の一人、矢野彩音という人物の幼馴染。作中では、ピアノの天才だとされているが、ピアノを弾くシーンはない。ただの脇役だからな。

 いかんせん台詞数が少ないので内面を考察しにくいが、明るく人当たりがいいことは確かだろう。

 舞台装置としての側面でいえば、このキャラクターは矢野彩音の人物像を深掘りし、感情の動きに深みを与えるために存在しているのだろう。あと、ストーリー展開の緩急をつけることもか。

 矢野の幼馴染、という立場だが、構造的には主役二人と対比する存在だ。ある意味での悪役と言ってもいいかもしれない。

 そもそも、物語は矢野がこいつの影響でピアノを辞めたところから始まるのだ。どれだけ努力しても一向に実力が縮まらない、それどころかどんどん差が開いていくような有様だったから、心が折れたと。

 そこでもう一人の主役、緑川ひかりがピアノを弾いてくれと話しかけることで話が動き出すのだが……まあいいや。

 秋山の出番は物語のターニングポイント。

 矢野がもう一度ピアノを弾いてみようと思いなおしたところで、たまたま街中で会ってしまった場面だ。

 そこで彼は、矢野はもちろんのこと、緑川の神経をも逆撫でして去っていく。無意識のうちに緑川が人と壁を作っていたことに気づき、問いただし、近づこうとしたのだ。

 読んでいると、つい星野を連想する。名前も星が被ってるし。

 要するに、俺はこいつが苦手だ。思考回路がまるで理解できない。

 役の深掘りができない。

 そもそもとしてたった数台詞でどういう考えでどう動くかなんて初心者には難しすぎるんだ。

 いっそ星野だったらすんなり理解できるんだろうか。聞いてみるか? いやめんどくせえなあ。それに、そもそも向こうも忙しいよな。

 そうは思えねえほど鬱陶しいくらい連絡来るけど。ぶっちゃけ怖いんだよな。全友人に対して同じ温度感で返信してそうだし。それに加えてバイオリンや学校生活。あいつのタイムスケジュールどうなってんだよ。星野だけ一日四十二時間で生活してんじゃねえの。

 あ? ならいいか。つか、忙しかったらスルーするよな。

 そういうわけで俺は、星野へ現状を要約したメールを送った。

 まあ、しばらく待たないと返信来ないだろ、と一条から貰った別の脚本を読み始めた。六年強書き溜めてきた脚本があるといい、一冊読み終わると別の物をくれた。雑談の節々から、思考の深さと引き出しの多さが滲み出てはいたが、本当に面白い。ダイレクトに一条の価値観が分かるのもいい。

 黙々と脚本を読み進めていると、スマホの通知が鳴った。一瞬訝しく思い、ああ、星野に連絡したのだった、と思い出した。

 メールを読み進め、俺は苦い顔をせざるを得なかった。が、案外意志は簡単に定まる。ため息をつき、俺は承諾する旨を返信したのだった。





 会う約束をした週末。にこにこと手を振ってくる星野に、やや辟易しつつ、控えめに手を振り返した。背にはバイオリンケース。

「あ、約束通り持ってきてくれたんだな」

 星野が俺の右手を見る。

「バイオリンケース、久しぶりに持ち出したわ」

 右手に感じる重量感。およそ一年半ぶりか? いや、コンクール以来だからもっと前だったか?

 星野は、面白いからその脚本を見てみたい、さらにはいい機会だし弦也の演奏が聴きたい、俺も弾くからさ、と返してきたのだ。

 星野がちゃんとしたスタジオを予約してくれているらしい。話の発端を持ち出してきたのは俺だし、俺が払うと言ったのだが、頑なに拒否されたので費用は全て星野持ちである。

 スタジオにたどり着くと、慣れた動きで星野は受付を済ませた。時々気分転換でスタジオを使い練習することがあるらしい。

 迷いなく進んだ星野は、受付で貰った鍵を突っ込み、ドアを開けた。

 汚れの少ない、落ち着いた木目の床。それに対し暗めの壁。オレンジの風合いが混ざった白色の照明。あと、ドラムやキーボード、ギターなども合わさって、いかにも音楽スタジオって雰囲気だ。楽譜台もある。

 久しぶりに来るとテンション上がるな。多分こういう機会でもない限り、もう来ないだろう。バイオリンレッスン辞めたから。

 星野はというと、そこらに置いてあった椅子を適当に運んで座った。お先に演奏どうぞ、ということらしい。

「……なにがいい?」

 邪魔にならないような場所まで歩き、しゃがむ。バイオリンケースを開きながら問えば、非常に単純な答えが返ってきた。

「弦也が今一番弾きたい曲がいい!」

 手が止まる。

「ああそう」

 バイオリンに俺の影が落ちる。バイオリンって見た目からして綺麗だよな。

 弓を取り出して、弓の毛を張る。松脂をまんべんなく塗る。

 こういう作業の一つ一つが、俺は好きだ。

 視線を感じて星野の方を向いたら、信じられないほどキラキラした目をしていた。

 チューニングしている間までずっとそんな調子だったので、ものすごくやりづらかった。

「……マジで一年半のブランクあるから期待すんなよ」

 勝手に期待されても困る。本当に大したことないんだ。誰かに聴かせられるレベルに達していない。まして耳の肥えてる、しかも自分よりも断然上手い、比べるのもおこがましい相手に聴かせるようなもんじゃない。正直嫌で嫌で仕方ない。本当に嫌だ。

「いや、滅茶苦茶期待するから」

 鬱陶しいくらいに輝いた顔。存外真剣な目に、なにを返しても無駄だと悟った。

「……」

 俺は多分心底嫌そうな顔をしていたと思う。

 バイオリンを構える。

 目を閉じる。うん。暗譜できてる。

 正直、ほとんど感覚は戻ってる、んだとは、思う。ただ、バイオリンをやっていない期間がよりにもよって成長期に丸被りしたせいで、大分感覚が変わってる。

 軽く音を鳴らす。まあたった今チューニングしたばっかだし、音は合ってる。

 心臓がバクバク言い出す。久しぶりだし、星野相手だからすげー緊張してるわ。

 そう自覚してしまえば、なんてことなく緊張は収まってくる。

 少し目を伏せ気味にする。昔から、なんかこれが一番落ち着く。

 弓を弦に沿わせ、なめらかに動かす。

 弾き始めた瞬間、星野は黙って目を閉じ、耳を澄ませた。

 思っていたよりまともに体が動く。

 そのことにほっとしながら、頭の中の楽譜をなぞる。下手だけど、一応音程はほとんど完璧なはずだ。そのレベルなのが悲しいところだが。

 ボーイングへったくそ。

 別に一人なら笑えばいいんだが、星野に聴かせるもんじゃねえな。

 音も今、ズレた。

 真面目にやればやるほど自分の下手さが浮き彫りになる。一気に現実に引き戻されたみたいだ。

 勝手に一人ダメージを受けながら、なんとか一曲弾き終える。

 途端、拍手の音が耳に届く。

 目を輝かせた星野だ。

 彼が拍手をやめ、なにやら話しだそうとしたところで、多分やさぐれていた俺は、つい零した。

「……聞く価値もない演奏に、よくそんな拍手できるよな」

 皮肉にしか感じられない残念な俺の頭は、星野の悪意ない賞賛を素直に受け取れないようだった。

 もっとも、俺でなくとも今のは上手く笑えなかっただろうが。自分より上手い同い年相手に拍手されても煽りにしか聞こえない。

 零した言葉に、大した意味はなかった。

 だからまさか、星野が顔を歪めて怒るとは思っていなかったんだ。

「俺が好きな演奏を、聞く価値がないなんていうなよっ!」

 立ち上がった星野に、やや目を見開きながらも、俺は言い返した。

「そうはいっても事実だろ。こんなボロボロの演奏、無理に肯定されたって嬉しくねえよ」

 すると星野は、俺がしっかりと左手にバイオリン、右手に弓を持っていることを確認し、思いっきり胸倉を掴んできた。

「無理に肯定なんかするかっ。俺が! バイオリンに対して! 嘘つくわけないだろっ!」

 俺は言葉を失った。

 わけがわかんねえ。自分の弾く音はどんなでも嫌いだ、バイオリンが好きになれないと言ってみたり、バイオリンに対しての誠実さを主張してみたり。

 滅茶苦茶だ。

 ……いや。

『ごめん。えーっと、まあつまり、何が言いたいかっていうと、俺にバイオリンの良さを教えてくれて、ありがとうって話だよ』

「……お前ってさ」

「へ、あ、ごめん」

 俺がふと思いついたことを聞こうとすると、星野は俺から手を離した。服、すげーしわになってんだけど。まあいいや。

「バイオリンは良いものだと思ってるけど、好きではないのか?」

「え? ああ、なんていうんだろ」

 俺はバイオリンを片付けながら言葉を待っていると、長い沈黙のあと、聞こえた。

「腐れ縁、かな。外から見てる分には普通にいいなって思えるんだけど、でも多分今後一生離れられないから、なんか、特別好きになれない。うーん、俺がバイオリンを使うのが解釈違い、みたいな? いや、それもまたなんか若干違うような。よくも悪くもバイオリンにこだわりがあるというかなんというか……。なんだろうね。まあはっきりしてるのは、バイオリンの音色とかは別にいいなー、好きだなーって思うんだけど、演奏することは特別好きじゃない、ってことかなあ!」

「よくわかんね」

「うん、俺も」

 星野があっけらかんと言い放つ。俺は思考を放棄し、星野が使っていたのとは別の椅子に座り、ふと星野を見た。

「……あー、ごめん。お前の言葉を、嘘みたいに言って」

「や、こっちこそごめん」

 気まずそうに頬を引っ掻く。が、星野は眩しくなるほど真っすぐに俺と目を合わせた。

「胸倉掴んで。突然叫んだりして。うん、マジごめん」

「別にいい」

「ありがとう」

 あっさり礼を言う。俺がほんの少し伝えるのに躊躇する言葉を、星野はなんのためらいもなく使える。毎度のことではあるが、ちょっとうらやましくなるな。

 星野は素早く準備を終えると、やや緊張した面持ちでバイオリンを手に取って、構えた。

 洗練された姿勢。

 静寂の満ちた空気の中、ふーっと息を吐くと、星野は口許から笑みを消した。

 そして次の瞬間。弦に、弓が、かかった。

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