五十二話 綺麗
「一条」
帰り、俺はそう話しかけた。
最近は駅のホームまで一緒だし、時折藤崎さんとの会話に巻き込んでくれるので、前より長く一緒にいるようになった。
「なんでしょう」
俺の隣を歩いていた一条は、俺を見上げた。すっと通った鼻にかけられた眼鏡が、夕日色にやや染まる。
「なんで月待が主役をやると推測し、なにを根拠に演技に問題はないと判断したんだ」
演劇部の藤井は分かる。でも、月待は推薦だったんだ。予測できないはずだし、力量もわかるはずがない。
「中学の頃、舞台でお見かけしまして。お小遣いを貯めて、兄についてきてもらって、そうしてやっと、初めて遠出できたときのことですから、そのときのことは全てよく覚えています」
一条は懐かしそうに目を細めた。
「劇団明星の公演を見に行ったのです」
「へえ」
生憎舞台や劇の知識はない。よって、劇団明星とやらがどんなものなのかも知らない。
だけど、まあ。いかにも楽しいです、といった表情で語られると、ちょっと気になってくる。このまま話を聞き続けてもいいんだが、どこかでまた聞けることもあるだろう。
それより今は、ほかに気になることがあるから。
「……月待のことをその公演で見かけて、しかもそれを覚えてたなんて、すげー偶然だな」
「そうでもありません」
秋風に吹かれ、三つ編みが揺らめいた。
「当時、劇団明星はそれほど知名度のある方ではなかったので、公演は限られていました。劇団明星を知っていたのなら、同じ舞台を観たのはある意味必然と言えるでしょう。それに」
にこり、とはっきり笑みを浮かべた。
「舞台を見る目が、舞台を作る側のそれであったようでしたから、印象に残っていたのです。共に観劇したのであれば、きっと私はどんな場所であっても忘れなかったと思います」
並外れた記憶力と観察力だな。俺も人並みよりは多少記憶力がいい自信があるが、流石にそんなこと覚えていられない。
「じゃ、次な」
「まだあるのですか」
やや困惑が滲んだあと、すんと表情を戻した。
「なんで俺に役者をやってほしかったんだよ」
間髪入れずに答えた。
「市川くんに、憧れになってほしかったからです」
「は? どういう意味だよ」
眉をひそめた。一条は俺の顔を見た後、言葉を選ぶように沈黙してから、
「中学一年の冬でしたか。両親が離婚するということで、兄と離れました。そのときの私にとって、兄の言葉こそが存在価値で、勉強で成果を出すことこそが生きることへの免罪符のようでした」
それがどうさっきの話につながるのか。相変わらず話の切り出し方が下手くそだが、最後は繋げてくれると分かっているから、黙って話を聞く。
「そんな中で、兄と離れる。父と離れることも、淋しかったことは違いありません。ですが、別に一生会えないということもありません。元々父は仕事が忙しい人でしたから、そこまでダメージはなかったのです。母とも、お互いストレスになるから離れようというだけで、離婚してから母が父の悪口を言っているのを聞いたことがありませんでしたし。ですが、兄と離れるのは、耐えられなかった」
そこで一条は、すみません、と謝罪した。
「関係ない話をしました。聞いてほしかったのかもしれません」
「好きに話せばいい」
「ありがとうございます」
ややにこりと顔を上げた。
「生きる理由となっていた、兄の言葉がなくなりました。当時、兄は兄で父と微妙な関係であったり、私と同じように学校での人間関係で苦労したりしていたようで、たまに送ると言われた手紙は、離婚してから一年経っても送られてこないのでした。他に縋るものもなかった私は、勉強しなければと焦りに駆られ、プレッシャーに感じ、結果としてテスト時に頭が真っ白になり最低点をたたき出しました。人間関係もうまくいかず、いよいよ生きていいと許される理由がなくなったように感じたのです」
話に似つかわしくないほどはっきり笑って、一条は言った。
「そんなときに、市川くんのバイオリンの動画を、偶然見かけたのです。なんて綺麗なんだろうと思いました。私、市川くんがバイオリンを弾く姿、好きなんです。大好きなんです」
一条は、両手で俺の右手を取った。一条の手は、俺より冷たい。それがややぬるくなる。俺の手から熱が移る。
熱暴走したようにも見える黒い瞳が、キラキラと俺を見上げた。夕日が逆光になる。眩しい。
「今までに見た、綺麗なものであふれていた世界を思い出させてくれました。もう少し生きてみたいと思いました。どんなに自分が嫌いでも、生きる理由が見つからなくても、存在価値がなくても、この綺麗で大好きなものを置いて死んでいってしまうのは、嫌だと思ったのです」
一条は俺の手を離した。だらんと、握られていた右手が垂れる。
「どんな形でもいいから、皆から憧れる存在になってみてほしかったのです。私が憧れた人だから」
……俺が立候補して決まった役は、確かに、作中憧れとされている。
「あとはただ、知りたかったんです。市川くんがあの人をどう演じるのか」
「……ふうん」
よくわかんねえけど、言われて悪い気はしない。
一条が奪っていったせいで熱が抜けた右手を左手で暖めてやる。意味もなく手を握ったり開いたりした。
じんわり熱が戻ってきた。
……なんか。めっちゃ嬉しい、な。
これ以上じっくり味わうとにやつきで顔が酷いことになりそうなので、話を変えようと脚本を読んだときの感想を漏らした。
「なあ、今回やる脚本、色々拙くないか」
登場人物の精神的な幼さもそうだし、話の構成がすごく単純だ。読んでて前借りた脚本ほど面白さを感じなかった。というかむしろ、つまらない。
「皆さんで楽しむため、演技を際立たせるためです」
「ほお」
無事に話が広がりそうだな。
一条を横目に、駅までゆったり歩く。
さっきから、演劇のことを話す一条は心底幸せそうだ。それが俺は、すげー嬉しい。
「これはあくまで高校の、それも演劇部ですらない一クラスの発表です。全員が楽しく演技したり作品を作ったりすることが一番の目標になります」
文化祭のクラス目標は『皆を楽しませる演技をする』だったが。
「ですから、人によって解釈が分かれたり、型破りなストーリー運びだったり、複雑にしたりなどはよくありません。……それにその、いつもと違い演技や演出で魅せることも考えて脚本を書けましたから、シンプルにできたのです」
照れくさそうに三つ編みに触れた。
そうか。作品としてみたときに、話の構成の幅が広がったわけか。たとえば作曲するときに、使える楽器が一つ増えるだけで、作れる曲のジャンルが増えるもんな。俺、作曲はしたことねえけど。
それから、と一条はやや得意げに話した。
「現代ものは、アクションなどで見せ場を作れません。演技が鍵になります。それゆえに、上手くハマれば観客の心に爪痕を確実に残すことができるのです。藤井さんも、月待さんも、他の人に比べ熱意、実力ともにずば抜けていますから、二人を生かしたかったんです」
これも、さっきと同じか。演技を魅力の一つにできるから、それを想定した脚本づくりができたわけだ。
「私の想定では、演技のおかげで登場人物の幼稚さの残る言動や行動にも、複雑な心情が加わり、深みのある造形になるのではないかと思っています」
「へえ」
よくわかんねえけどすげーな。
沈黙。
話し終えた気になっている一条に、俺は続けた。
「それで? あともう一個くらいあるだろ」
彼女はやや驚いた気配を見せ、やがて頬をほんの少し緩ませた。
「はい。クラスの皆さんは、魅力をいっぱい持っています。すごく綺麗で、好きなのです」
突然眼前に来たかと思えば、前のめりになった。そうなってることに本人は気づいてない。
「この半年間、ずっと観察していました。私とは違う世界観で、価値観で生きている人たちです。そんな皆さんに、私の書いた脚本から、一つの作品を作っていただける。そうなったときに私は、この演目をやってみてほしいと思ったのです。自由度が高い舞台で」
近けえわ、と言ってやりたい気もしたが、口を閉じる間を惜しむように畳みかけてくる一条に、そんなこと言えなかった。
「そうか」
俺はそう呟いたっきり黙り、悩み、やがて笑って素直にこう言えた。
「文化祭、楽しみだな」
一条は嬉しそうに頷いた。
綺麗だった。




