五十話 藤崎朔斗
「もしよければ、兄と会ってみますか?」
放課後、駅に向かっている途中、一条にそんなことを言われた。
「まあ、興味はあるけど」
一条の兄だし。
一条は俺の返事を聞くと、スマホを取り出して画面を覗いた。そういえば、ときどきスマホを眺めていることがあったな。兄と連絡を取っていたのだろうか。
「駅にいるみたいです」
「……放課後いつも遊んでんの?」
「ええ。私のバイトも兄のバイトもありますから、もちろん会わない日もありますけれど。兄は基本顔を見に来てくれます」
「いいお兄さんなんだな」
「はい。言葉には言い尽くせないほど沢山救われましたし、大好きです」
遠くに見える夕暮れ空のような、暖かで静けさのある笑みを明瞭に浮かべた。思わずつられて頬が緩むような笑みだった。
お兄さんのこと、本当に好きなんだな。
「……あ」
そう一条にだらんとしていた手を掴まれ、一瞬動揺した。ほんの少しだけ、掴まれた右手首が熱を持った。一条が駆け出すので、俺は戸惑いながらもその後を追ったのだった。
「朔斗っ」
一条は嬉しそうに息を弾ませ、昨日見かけた男の人に声をかけた。ぴたりと一条の足が止まる。俺も立ち止まる。
朔斗、と呼ばれたその人は、やや困るように頬をひきつらせた。
「静乃。ええと。そちらの方は……」
右手で俺を示した。仕草がちょっと一条に似ている。
「市川くん」
「ああ。いつも妹がお世話になっております。……本当に」
一条の兄は、ゆっくりした動きで丁寧に頭を下げた。一条は深く同意するように頷いた。
「いえ、あの、むしろ私の方がお世話になっています」
俺はぎこちなくお辞儀を返す。こうもかしこまられると気まずい。
「あの、もしよければ三人でカフェでもと思いまして」
一条が、俺と一条の兄が頭を上げたタイミングで口を挟んできた。
「僕は構わないよ。えーと、市川さんは?」
市川さん。耳慣れない響きで違和感があるな。
「私も構いません」
「あ。その、敬語は外していただいて。いえ、敬語が馴染むないし好きだというのであれば構わないのですが」
柔らかに頬を緩めた。言い回しに一条を感じる。
「あ、はい。分かりました」
「では行きましょう」
一条がどことなく楽し気な雰囲気でカフェへと俺たちを先導していった。
そこで俺は、失礼に当たらない程度にちらりと一条の兄を見やった。
一条と同じでやや癖の残る濡れ羽色の髪。目が完全に隠れ、耳の上部分にやや被さる程度の長さなので、顔の上半分の表情が全く分からない。が、不思議と感情が分かりやすい。一条とは真逆だ。
カフェで各自飲み物を頼み、俺と一条の兄は、改めて名乗りあった。
彼は藤崎朔斗さんというらしい。俺は藤崎さんと呼ばせてもらうことにした。
「静乃からよく話を聞いています。きっとお優しい方なのだろうと思っていたから、お会いできて嬉しい」
藤崎さんは熱を味わうように、湯気の溢れるカップを飲んだ。
……そういえば、一条の下の名前って静乃だったな。
記憶していた事実に、今更ながら実感が湧く。
そうですか、と俺はコーヒーを口に含んだ。なんでだろうな、いつもより苦味が薄く感じる。
優しいなんて、一条以外に言われたことがあっただろうか。
なんでだろうな。じんわり嬉しい。俺、他人の評価はあんまり気にしねえと思ってたんだけど。
他人から褒められ慣れていないせいで口ごもる。そうですか、それと一言、なにか言いたかったのに、結局何一つ言葉が出てこず、黙り込んだ。
母から、器用でなんでもできるのに口下手は一生治んないわねえと笑われたのは伊達じゃない。自分でもなんでこんな苦手なのかわからん。
それに、にこにこと見られるのも慣れない。
その、妙に生ぬるいというか、暖かい視線から逃れるように俯き、意味もなくコーヒーを一口飲んだ。
当然だけど、苦い。
「……市川さんは、珈琲が好き?」
投げかけられた言葉に、俺は不自然でない程度に目線を下げ、はいとだけ答えた。
好きな飲み物を聞かれたときに特別挙げるほどではないが、好きかと聞かれ否定するほど嫌いというわけでもない。どちらかといえば好きだ。それを説明するのも長ったらしい。
他にいう言葉が見つからない。
「そうかあ。いいね。僕は最近飲んでいないかもしれないな」
その一言が、不思議と耳に馴染んだ。静かに味わうような響き。
「藤崎さんは、コーヒー好きなんですか?」
「うん。好きだよ。とはいえ、どちらかといえば紅茶を飲む方が多いかもしれないね」
藤崎さんはカップを口許に近づけ、口に含んだ。ふわりと顔がほころぶ。
俺の隣に座っている一条を横目にし、俺はまたコーヒーを口に運んだ。
美味しい。
一条は、どうしようもなく嬉しそうに俺と藤崎さんを交互に見つめていた。
それから数十分ほどあれこれ話をした。主に一条の話だった。話題の中心になった一条は、俺が褒めているときはやや照れくさそうに三つ編みを触り、それ以外のときは俺と藤崎さんが話しているのを楽しそうに眺めていた。
不意に、藤崎さんがスマホを覗き、あー、と申し訳なさそうに頬を引っ掻いた。
「用事ができたから、僕はもう帰らせてもらおうかな」
うん、と一条が頷くので、あえて駅前まで行きましょうというのも違うか、と俺は口を閉ざした。
藤崎さんは慣れた手つきで伝票を持っていった。止める暇がなかった。カッコいい人だな。奢ってもらった礼を一条に伝言してもらおう。
彼が去っていったあと、残された、隣にいる一条と目を合わせた。
「……いい人だな」
「はい。少々変わったところはありますが、いい人、です」
一条をもってして変わったといわしめる部分が気になる。今話したときはいたって普通だったんだけど。
「……中学の頃」
一条はふと静かな雰囲気になり、ぽつりと零し始めた。
「多分。私は自分のことが大嫌いで、憎らしく思っていました。情緒が不安定でした。けれど、自分を殺めようとは思わなかったのです。……私は、兄に対してだけは、その醜くてどうしていいかわからない感情を打ち明けることができたのです」
それで分かった。これは相談だ。遠回しで不器用な話の始め方だけど。
一条はすーっと息を吸い、
「兄が、貴方の書く脚本が好きだ、と私に紛れもなく、確かな存在価値をつけてくれた。尊敬し信頼していた兄からそう言われたから、私は今日まで生きてていいのだと思っています。もちろん、母の言葉も行動も、父との思い出も、支えになりました。ですが、私に光をくれたのは、確かに兄の言葉であったのです」
一条は、紅茶の入ったカップをきゅっと握った。
「だから私は、兄になにか返したいのに、気づいたら貰ってばかりいます」
唇を引き結び、ほっと小さく息を吐いた。
「私は、兄にとっていい妹ではなかったと思うのです。不器用で距離感がおかしくて、あれこれしつこく聞いてきて、かと思えば勉強を教えてくれとねだり。私は、懐かれたところで嬉しいわけでもなく、かえって面倒が増えるばかりな、不出来な妹です」
そんなことねえだろ、と思ったが、ひとまず黙って話を聞いた。
「そんな私が一番できる兄への恩返しが、もう関わらないことなのではないか、と思います」
「……なんでそう思ったんだよ」
言いたいことはあるが。俺はそれだけを問うた。一条はいつもの黒い目を一層暗く落とし、
「父は再婚しています。ですから、兄には、再婚相手の連れ子である双子の妹さんと弟さんがいます。そんな状況で、私のことを考える暇なんてあるでしょうか。私は関わっていいのでしょうか。兄の重荷になってはいませんか。ふとしたときにそんなことを考えて、私は、」
言葉を切った。しばらく俯いたあと、俺と目を合わせた。
「私は、不安でどうしようもなくなります」
市川くんはどう思いますか、と話を終えた。
「俺に兄弟はいねえけど」
はい、と一条は頷いた。俺も大概話し始めが下手くそだ。
真剣な顔の一条に見つめられて、というかガン見されて、久しぶりに居心地の悪さを感じた。最近はもう慣れたつもりだったんだが。
俺は、ちらりと先程まで藤崎さんがいたところを見やった。
「不出来とか重荷になってるかとか、知らねえけど。一条がどうだろうと藤崎さんに弟妹が増えようと、一条が藤崎さんの妹であることに変わりはねえんじゃねえの? つか、ねえだろ。しかも現状藤崎さんが一条のことを嫌ってるとか面倒だとか思ってねえんだろ、なら別によくね?」
法的にとかどうとか知らねえけど、一条と藤崎さんが兄妹であることは間違いなく事実だ。うん、変なこと言ってねえよな。
「……そうでも、ありますよね。そうですよね。なら、私が兄に返せるものはなにがあるのでしょう」
「たまには一条が向こう行ってみるとかどうだ」
「なるほど。いいかもしれません」
一条が紅茶を飲み干した。
カフェの窓から外を見てみれば、もうすっかり秋一色だった。




