四十九話 大切な人
翌日、色々考えすぎて頭が疲れ果てたので、気晴らしにでもと散歩に向かった。
やや寒さはあるが、大分過ごしやすい気候になってきた。まあどうせすぐ寒くなるんだろうが。
で、一条がよく分からん男の人と一緒に話しているのを見かけたのだ。隣の通りの奥から歩いてきた。
一条がものっすごく笑顔だ。あんな明るい笑顔初めて見た。
その男の人はなぜかジャージを着ていた。私服ではなく、学校指定の。苗字がしっかり縫われているあれ。
よく見えないが、一条ではないことだけは確かだ。
どう考えたって彼氏だとは思えないのだが、だとしたらあの人は誰なんだろう。
つい近くのカフェに入ってしまった。もちろん二人はどんどん遠ざかっていく。俺は店員と会話をするのに意識を向けてしまったし、取り立ててみたい光景でもなかったから、そのあとのことは知らない。
まあ、どんな顔をして一条と話せばいいのか結論がついていなかったし、話しかけられなくてよかった。
注文したコーヒーを口に含みながら、考えた。するとため息が漏れた。
一瞬でも油断すると、非生産的な自己嫌悪に溺れそうだ。あとでする分にはどうでもいいが、今は駄目だ。考えるべきことがあるのだから、そちらに思考を逃がしてはいけない。
自分を責めたくなる気分ということはつまり、俺は今それなりに嫉妬しているのだろう。面倒なことに。
しかし、それとは別に、他意なく気になる。一条があんなにも楽しそうにできる相手は誰なのだろうと、気になる。
だって俺は、嬉しかったんだ。上手く人と関われないことを嘆いていた一条が、関係が崩れることを怖がっていないような笑顔で人と関わっていたんだから。
多分、あれだ。そのくらい、俺にとって一条が大切になったんだ。
……いや、矛盾してるよな。
一条のことが大切なら、一条が人と関わることができるのは、喜ばしいことであるべきだ。それが一条の望みだから。なのに俺は嫌だと思って、一人で勝手に自分を嫌いになっている。
そう考えるとなんだか馬鹿馬鹿しくなって、コーヒーを飲み干した。
そうだよな。嫉妬してるしてないって、一条にとってはどうでもいいよな。俺が一人で何をどう考えていようと、一条から見て俺はただの友達だ。それは絶対変わらない。もしこれから先、一条の友達が増えたところで、俺と一条の関係は変わらない。
なんかもう、大丈夫だ。嫉妬なんて変な気起こさない気がする。そもそも俺、人に依存するような性質じゃねえし。もう考える必要ないか。
最後に残るのは、無意識のうちに気持ち悪いこと考えてた自分への嫌悪だけ。
俺一人の問題なら放置してりゃいいんだけど。一条とどう顔を合わせればいいのかわかんねえからなあ。
正直に言うべきか? 嫉妬しましたって? でも今は多分平気だろ。なら解決したわけだしいう意味ねえよなあ。
いうとしたら、無意識のうちに自分が一番でいましたってことだろ? 聞いてていい気分しねえだろうし、やっぱりこれももうそうは思ってねえし。
だからってそうそう自分への嫌悪を割り切れねえし。
あー、でもそっか。これも結局、俺個人の問題で一条関係ねえもんな。今まで通り接すればいいか。
……いや、けど、他人にお前にとって俺が一番だろ、とか思われてたら嫌だよな、きっと。でもそれは過去の話で……。
ああもう、堂々巡りだ。疲れた。めんどくせえ。
会計を済ませ、俺はカフェを出た。
もういい。考えるのをやめることにする。会えば自然とそうするべき態度になるだろ。多分。ならなかったらそのとき考えりゃいいや。
そうして、翌日。
学校に着くと、一条に声をかけられた。
「市川くん。おはようございます」
「おはよ」
俺が挨拶を返すと、一条はやや不安げに自分を見下ろした。
「……なにか、変ですか?」
「なにが?」
俺は荷物を整理しながら聞いた。一条は、いえ、と曖昧な答えを返した。疑問に思って顔を上げると、
「……なんでもないのです」
そう自席に戻っていった。よくわかんねえ。
その様子を見ていた黒井が首を傾げた。
「喧嘩でもしたの?」
「は? なんで?」
本気で訳が分からなくて黒井に問い返すと、なんでもなにも、と困り顔で言われた。
「いつもよりなんか冷たくない? んなことない? そっけなく見えたんだけど」
「……いつも通りじゃなく?」
俺はいたって平常通りにしていたつもりだ。
荷物の整理を終え、座った。黒井は黒板の方に向き直って、
「うん。僕視点嫉妬して拗ねてるようにしか見えないから勘弁してほしい」
「それはありえないから安心しろ。で、いつもとなにが違った?」
「目が合ってなかったし、深掘りする話題をあげてなかったね」
「……お前、なんでそんな見てんの?」
「そりゃ気になるっしょ。土曜あんな会話したんだから」
「そういうもんか」
今だけ見てたなら普段と違う点に気づくのはなんでだよ、とは思ったが、口に出すのはやめた。
「……そんなつもりじゃなかったんだが」
「へえ。まあ、嫌われないように頑張れー」
黒井にしては適当な返事だなと思ったら、今日提出の課題をやっていた。
まあ、頭には入れておこう。全然自覚なかったからな。
と、思っていたのだが、昼休み、人がいなさそうな場所――いつもの屋上前の階段の前に着くなり、あの、と静かな声で呼び止められた。振り向いて、固まった。
体育祭のときに見た、泣きそうな顔をしていた。
「……私、なにかしましたか?」
「なんもしてねえけど」
できる限り冷たくならないように、と思った。一条はじーっと俺の目を見た。
「そう、ですか。それなら、よかった。……」
ゆっくり自分を納得させるようにそう言ったあと、まだ不安そうにずいと近づいてきた。体がくっつく寸前で止まる。
「私がなにかしたときは、絶対言ってくださいね。離れる前に、一言、一回くらいは」
はあっと息を吸い込んだ。
「私にチャンス、ください、ね」
「分かったけど。今日は本当に一条はなんもしてねえからな?」
「……はい」
こくんと頷き、何事もなかったかのように階段に座った。
「では、お昼ご飯を食べましょうか」
そしてやはり、いつもと変わらない動きで弁当箱を開く。
ほっと息を吐き、俺は一条の隣に腰を下ろした。人一人分も空いていない空間をじんわり眺めた一条は、ほんのちょっと嬉しそうに、いただきます、と手を合わせた。俺も食べ始めた。
率直に。離れようとすると傷ついて、近づこうとすると喜ばれることが、嬉しかった。
「なあ」
もぐもぐと咀嚼する一条に声をかけつつ、俺は食べ物を口に突っ込んだ。
「なんでしょう」
俺は口の中のものを飲み込んだ。
「昨日、お前のこと見かけたんだよ」
「昨日ですか。ああ、確かに市川くん家の近くにいましたね」
「一緒にいた人、誰なんだろうと思って」
「一緒にいた人ですか?」
心底不思議そうに、一条は俺を覗いた。
「おお」
「それなら、兄ですが」
兄。いるとは言ってたが。
「……兄?」
苗字違っただろ。そういう気持ちで言葉を待っていると、一条はきょとんとした。
「ええ。そうですけれど……? 私と同じような黒髪で、長さは目が全部隠れるくらいの。あと背が高い」
「おお」
なおも納得いかない俺に、しばらく考え込んだあと、一条は、ああ、と手を打った。
「ジャージですか? 苗字違いますからね」
「おお」
「両親が離婚して苗字が変わっただけです。間違いなく実兄ですよ」
離婚。してたのか。
言われてみれば納得だ。
あっさり言ったってことはそんなに気にしてないんだろうか。
「……なんでジャージだったんだ?」
「制服は汚したくないのに、学校指定のもの以外服を持っていなかったんだと思います」
「それは、また、すごいな」
イマイチうまく想像できねえ。普段どうやって生活するんだ?
「一応、本と本を置くためのスペースで金欠という事情があるのですが」
兄のことを話す一条が楽しそうに見えたので、興味を持った俺は、さらに聞いた。
「年の差はいくつくらいなんだ?」
「年子です。一歳差ですね」
つまり高二か。
「……ちなみに聞いとくが、ほかに兄弟はいないんだよな?」
「ええ。兄の方には再婚した義理の弟と妹がいるみたいですが」
「お兄さんの方は再婚してるのか」
「そうみたいです。義弟にも義妹にも懐かれているようなので、居心地が悪いわけではないみたいですが」
そこでふと、一条はふわりと微笑んだ。
「兄のことを人に話したのは、初めてです。話す相手もいませんし、一時的にいたとしても苗字が違うし、そのことを全て説明すると、なんだか同情されるような目をされます」
「……そうか」
一条はそこで会話を止めた。二人とも弁当を食べ終わり、ぼーっとくだらない雑談をしているとき、ふいに一条があっと声を発した。
「なんだよ」
「あの、……私、恋人なんて、できたことないです」
いきなりすぎて心臓が驚いたが、それだけだ。ふーっと息を吐いた。
「急に何の話だよ」
平常を装って聞くと、一条は違いましたか?とこちらを向いた。
「その、てっきり私は、兄のことを私の恋人だと勘違いし、恋人の方に誤解を与えないようにした結果のが午前中の態度だったのでは、と思ったのですが」
「……一条」
「はい」
なんといえばいいか分からず、少し言い淀むと口を開いた。多分、俺は今すげー微妙な顔になってる。
「俺は、そんなできた人間じゃねえからな」
「よくわかりませんが、市川くんは自分で思うよりずっとできた人だと思います」
「……そうか」
俺はなにを言いたかったんだ。




