四十五話 後の祭り
どうやら話しかけるタイミングを探っているらしい一条を放置するわけにいかず、俺はゆったりと近づいた。
「どうしたんだよ」
「謝りたいの、ですけれど。そもそも、謝っていいのか。それでなにかが変わるわけでもありませんし、もしかすると自己満足なのではないか、と思ってしまいます」
「自己満足でも、謝らないよりはマシだろ。失言は取り戻せないんだから」
「……ですが」
「ほら、行ってこい」
「…………え」
俺が軽く肩を押すと、迷子になった子供のような顔で、一条は手を肩に添えて俺を見ていたが、やがて意を決したように女子生徒数人の方を見据え、歩いていった。
そうなってしまえばもう、思い切りはよかった。
「すみません。少しお時間いただけますか」
単刀直入に一条は、頭を下げた。
「申し訳ございませんでした」
「……なんのこと?」
藤井……一条になにか嫌な質問をされたらしい一人が聞いた。
苦笑いが、どことなく冷たい。
一条はなにを聞いたんだ。
「藤井さんに対して、聞いてはいけないことを聞いたことです」
「もういいよ」
さらっと聞き流しただけでは、暖かくて優しい声。ただそれは――。
「え」
一条が喉を詰まらせた。
「分からなかったんだよね? 聞いちゃいけないことだって。もういいよ」
――失望の、さらに下。
許しのいいよじゃなくて、これ以上関わりたくない、話したくない、面倒くさいもういやだって意味の、いいよだ。
別にそんな強い言葉じゃないし、オブラートに包んでくれている方だ。それが、一条に一番刺さる。ただただ自分のどうしようもなさを痛感させられる。
身に覚えがあったから、心臓が嫌な音を立てた。
「もう関わらないでくれる? お互い傷つくだけってよくないし、ね? 話しかけてごめんね?」
「いえ。藤井さんが謝る必要はありません。……本当に、すみませんでした」
「……そういうとこだよ」
ぼそりと、藤井と話していた女子生徒が言った。一条は言葉を止めた。
「なんで体育祭優勝できて嬉しいってときに、わざわざ暗い話題持ち出すの? 意味わかんない」
「すみません」
「謝ればいいと思ってるの?」
「もういいよ、あやちゃん」
藤井が首を振ると、あやと呼ばれた彼女は、むすっとした顔で黙り込んだ。
すみませんでした、と小さく呟いた一条は、踵を返しかけ、立ち止まった。
泣く寸前の雰囲気を纏っていた。
振り返って、藤井の顔を見据え、多分、彼女なりの精一杯の微笑で、
「……話しかけてくれて、ありがとうございます」
そのまま、すたすた、すたすたと、ゆっくり、静かに、歩いて。
優しく扉を開けて、一歩かつんと踏み出して。
廊下を、たんたん歩くうち、少しずつ、少しずつそのリズムが大きくなっていって。歩幅が大きくなっていって。
いつの間にか小走りになって、それが走る音に変わって。
だんだん、がつんと床を殴りつけるような走りになって。
しょっちゅう重心がブレて、転びかけて。
不器用で。
追いかける俺の足音にすら気づかない有様で。
それがふっと、階段前で我に返ったようにゆっくりになった。
いつも通りの規則正しい速度で階段を降り、何事もなかったかのように昇降口で靴を履き替える。
そこで振り返り、ようやく俺に気がついた。
「ああ」
そう息を漏らしたっきり、焦点がどこにも合わない目で、俺を見上げた。
頭が真っ白になっているみたいだ。
「一緒に帰ろう。な」
一拍おいたあと、一条はこくんと頷いた。
細々とした歩きで校門を出る。
……ごめん、と謝るべきではないのだろう。一応、一条が言いたいことは言えたし、諦めから出た言葉だとしても、もういいよ、と言われたのだ。
じゃあ、なんていえばいいんだ?
吹っ掛けた責任を感じる。でも、それをどう負えばいい?
迷いに迷い、言い淀んだあと、俺は一つの記憶に思い至った。
『私は、夏が好きです』
「……カノン、って、分かるか」
一条はそこで、やっと反応らしき反応をした。
呆然としたあと、しばらく沈黙し、
「輪唱のことですよね。かえるの歌、とかの」
「あー、言い方が悪かった。パッヘルベルのカノンだ」
「ああ、そちらの」
「俺がバイオリンを始めるきっかけになったコンサートの曲目で、俺が初めて演奏した曲だ。俺、カノン好きなんだ」
「なぜその話を?」
「分かんねえ」
「え?」
困惑したように首を傾げられる。俺自身よく分からないまま、言葉を紡いだ。
「旋律がズレてできた音の重なりが、とても綺麗なんだ。一つでも綺麗だけど、追いかけてくる音があると、もっと綺麗になる。そこにベースとなる通奏低音があれば、他の楽器があれば、さらに綺麗になる。お互いに響きあって絡み合って、踊ってるような、それでいてとても上品で威厳のあるバイオリンに、俺は魅入られたんだ」
俺は、その勢いのまま、聞いた。
「一条は、クラシックで好きな曲とか、あるか?」
「私、クラシックに関しては浅学で。ただ、死の舞踏は以前どこかで聴いて記憶に残っています」
「ああ。それもいいよな。……クラシックに興味あるなら、今度コンサート行くか?」
「え? いいのですか?」
「おお」
「なら、アルバイト頑張らないとです」
「あー、とりあえず最初は俺が払う。一条が楽しめるか分かんねえし」
「ですが」
「一条が、聞いてどう思うのか知りたい」
「……ありがとうございます」
一条の肩から力が抜けた。さっきよりは柔らかい雰囲気に戻ったのを見て、俺は密かに安堵の息を漏らした。
「……上手くいかないものですね」
不意に、自嘲気味の笑みを浮かべた。
「私はいつになったら学ぶのでしょうか」
気持ちは分かる。俺だって、直したいのについ言葉がぶっきらぼうになる。
「そのうち上手くやれるようになるだろ」
「それはっ」
大きくなった声を抑えるように、一条は言葉を切った。いつもの静かに強く響く声音で、
「それは、市川くんだからですよね」
「は?」
「市川くんだから、学習できて、上手くなって、やり過ごせるようになる。市川くんは、どちらかといえばなんでもできる人じゃないですか。なにをさせても平均以上は行ける。自分の客観視だってできる。でも私は違うっ」
声が裏返った。叫び慣れていないみたいに、声が安定しない。
「勉強していたら自分の呼吸に気が散るし、毎日一回は躓きかけるし、人に挨拶するのすら満足にできず、自分でもなにをどうしたらそう間違えるのか分からない失敗をする。歩くのだって一つ一つ考えなければできないし、道の自然な曲がり方もわかんないっ! 身の回りに居る人全員に迷惑をかけるっ、そのくせ十割自分が悪いことで傷つく。超がつくほど面倒で、どうしようもない愚か者」
ぎゅっと三つ編みを引っ張った。自傷行為、といっても過言でないくらい。俯き加減になった顔に、夕焼け色の影が落ちる。ぼそりと言の葉が落ちた。
「自分なんて大っ嫌いです」
一条は、ギリギリと地面を踏みしめた。なにかを押しつぶすみたいに。
俺は、何も言えなかった。
俺が星野に感じているようなものを、一条が俺に感じているのだと知ったから。
要領がいい自覚はある。そのくらいは分かる。努力しなくても平均に届き、努力すればした分だけ、面白いくらいに結果に出る。
それは中々に稀有な能力だと、ちゃんとわかってる。
だけど。
「俺は一条が羨ましいよ」
熱量が足りない。熱量が足りなければ、才能があって努力をした人間にいつか必ず負ける。
そして、俺が熱量を持って取り組めたバイオリンでも、結局才能か努力が足りなかった。違うな。やっぱり熱が足りなかったのか。これに人生を賭けたいと思えるだけの覚悟も熱も足りなかった。楽しみたいだけだった。
全部中途半端にしかならない。器用貧乏だ。
「……ごめんなさい。せっかく言葉をくれたのに。八つ当たりをして」
三つ編みから手を放した。ぐちゃぐちゃだ。
「別に気にしてない」
一条は俺の言葉に、躊躇するように唇を引き結んだ。
「いつか、私は私に無関心なのではないか、と言いました」
遠くの夕焼けを眺めながら、そう口を開く。
「ただ、嫌いだっただけみたいです。それでも自分の好きなものだけは尊重しようとした、その結果が好奇心で人を傷つける自己中心的な行動です」
「……なんで嫌いなんだ?」
安易に否定するのは一条の考えすら否定しているようで、しかし肯定するのはさらに嫌で、俺はそう聞いた。
「昔から、生きることが苦手でした」
複雑な感情をその一言に集約させたのか、一条はすっきりした顔をした。
「重ね重ね、すみません。話を聞いてくださって、ありがとうございます」
「別にいい」
一条にしてもらったことを返しただけだ。
「では、私はこれで」
「おお」
駅前で別れた。
晴れやかに歩いていったことに、俺は心底安堵した。




