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四十三話 体育祭 午前

 行ってらっしゃいと見送られ、俺はいつもより早い時間に家を出た。

 体育祭当日だ。

 正直俺としては授業よりも面倒くさいのだが、学校の人は基本的にわくわくしているみたいなので、水を差す真似だけはしないようにしたい所存である。

 教室に着くと、もうほとんどの人の椅子がない。グラウンドの方に持っていったのだろう。校門の開錠から移動開始まで時間があったはずだから、混雑してないか心配だったが、杞憂だったようだ。

 一条はちょうど着いたばかりだったようで、まだ教室内にいた。

「おはよう」

「おはようございます」

 平常よりも大分緊張している声が返ってきた。

 ちらりと窓辺を見やれば、快晴である。暑そうだな。嫌だな。今からでもサボりたい。

 特に声をかけあうことなく、自然と一緒に移動し始めた。

 腕力が絶望的にない一条は、速攻へとへとになっていた。具体的には、教室を出た廊下のすぐそこの階段前で。

 あれこれ持ち方を変えて粘るも、階段一段ごとに休憩を設けている有様である。

「ちょ、もう椅子貸せ」

 時間のかかりすぎで、明らかに邪魔だ。他に椅子を持っている生徒が階段を通れない。

「椅子を運ぶことすらできない自分にとても嫌気がさします」

 落ち込みつつも、大人しく寄こしてきた椅子を俺の椅子に重ね、校舎に傷をつけないよう気をつけながら運んだ。

 一条に椅子を渡してやると、ありがとうございますと頭を下げた。中学の頃どうしてたんだろうな。まあいいか。

 色々疲れて、すぐさま椅子に座った。

 秋のくせに夏みたいな顔した空は、憎々しいほど晴れ渡っている。

 このあと、テントを出て開会式だ。頭に巻いたハチマキが既に汗ばんでいる。ちょっと参加したことを後悔している。

 人がザーザー話す声も不愉快だし、雰囲気もテンションが高くているだけで疲れてくる。

 しかも、開会式後一発目の競技が一年の徒競走だ。休憩が欲しい。切実に。

 先を想像して鬱々としていたら、開会式開始の合図が出た。

 開会式を終え、息つく間もなく徒競走である。水分補給くらいしかできなかった。

 別に、ただ走るだけならまだいい。

 なにがいやかって、待ち時間も直射日光に焼かれ続けなきゃならないことなんだよ。走る前も、走ったあともそうだ。

 ひたすら暑さを耐え忍ぶだけの徒競走が終わった。あと応援の声がうるせえ。耳が痛い。耳栓もってくりゃよかった。まあ、全力で体育祭に参加しているだけの彼らを恨むのは筋違いだ。対策しなかった自分が悪いので、粛々と耐えるほかない。

 ファミレスのときよりは断然マシだ。外だし、大体同じような言葉しか聞こえてこないから。

 ちなみに結果は三位だった。黒井と同じレーンだったので、彼の圧倒的な独走により観客の目はそっちにしか行っていなかったと思う。

 ドヤ顔で観客の方に手を振る黒井は、息の乱れがほとんどなかった。すげーな。

 退場後、水筒を飲んでいると、黒井が話しかけてきた。

「速いね。確か帰宅部でしょ? なんかやってたの?」

「いや。なんもやってねえけど」

「へえ。なのに速いんだ。凄いね」

「昔から、要領だけはいいんだ」

 何事もそこそこどまりだった。バイオリンだってそうだ。ある程度のところは行ける。普通よりもいい成績は残せる。でもそれだけ。突出したなにかはない。

「ふうん。つまり地頭がいいのかな。観察力があって、知識とか経験を実用的に落とし込むのが上手い。だから吸収がものすごく早くて、練習法や勉強法の効率がとてつもないことになってる。村上と同じタイプだ。二人とも案外気が合うんじゃない?」

 村上、というのはおそらく、普段黒井たちと仲良くしている女子の一人だろう。金髪に脱色していて、ピンクのカラコンをつけた生徒。前に一条と少し話してた。

「お前もどっちかっていうと要領はいいだろ」

「そ? そりゃどうも。まあ勉強の方はさっぱりだけどね」

 カラッとした顔に変わらない笑みを浮かべたまま、あのさ、とやや声を真剣なものにした。

「……一条さん、なんかあったみたいだけど、大丈夫?」

 人の変化に敏感というか、空気の変化に反応しやすいというか。

「あー、待って。今のなしで」

「は?」

「僕の自己満足からくる言葉だった。だからちょっと、なかったことに」

 なにがどう自己満足なのか分からない。だけど、面白いな、と思った。

 もっと知りたいな、とも思った。

「なあ。今度カフェ行かね?」

「……へ?」

 滑稽に思えるほど口を開けていた黒井は、見る見るうちに顔を輝かせていった。

「いいよ? もちろんいいよ?! てかカフェ? 初めて遊び行くやつとカフェかあ!」

 意味の分からないツボにはまったらしい。黒井はしばらく爆笑していた。

「お前ツボすげー浅いよな」

「よく言われる」

 まだ笑いの気配を残した声だった。ほんとよく笑うな。

 女子の徒競走が始まってからしばらくして、やっと黒井は静かになった。

 女子の知り合いと言えば一条くらいなものなので、非常に退屈だった。その一条は、当然ながら、と言うべきか、意外なことに、と言うべきか。彼女は最下位を取っていた。

 初日のあれを考えれば、転ばなかっただけ上等だろう。前の人との差も、まあ大差ではなかったし。

 戻ってきた一条にねぎらいの言葉をかけるも、案外本気で落ち込んでいるらしく、ありがとうございます、と低い声が返ってきた。

 先ほどまで炎天下にいたのに、休憩していた俺よりも涼しそうな顔をしている。

「暑くねえの?」

「暑いですよ?」

 嘘だろ、全くそうは見えない。水族館に行ったときくらいまでいかないと顔に出ないのか?

 体操服をパタパタしても、大した効果がない。暑い。できることなら今すぐにでも帰りたい。

「三年生の綱引き、始まりましたね」

 一条の言葉に、グラウンドに目を移す。

 クラス対抗綱引き。学年単位の移動で、三年から順に行われるので、一年はしばらく休憩だ。

 いかにも暑そう。あとでやるのか、これを。

 気が滅入る俺とは対照的に、一条は熱中したように試合を観戦していた。室内でサッカーかなんかでも観ているかのような集中である。

 俺はこいつのこういうところを、ときどき羨ましく思う。

 綱引き、俺らのクラスは二位だった。あんなしんどい思いしたんだから、せめて一位を取りたかった。

 二年生の大玉転がしが終われば、そろそろ仮装リレーの準備になる。

 黒くて長いウィッグを被り、無駄に装飾の施された白いワンピースを着た一条は、まあ似合っている。貞子の仮装だったっけ。徒競走の練習のときにあったいさかいのあとも、さっき黒井が言っていた、村上とその友達数人は、一条と普通に話していた。夏休み終わりからの一条の努力は無意味にはならなかったわけである。

 俺はフェイスペイントと、家庭科部お手製の無駄にリアルな破れた服。体操服の上から着るので、少しオーバーサイズに作られている。一応ゾンビらしい。衣装案はファミレスでほとんど月待と黒井が考えた。

 やっぱり似合ってるね、とからかい交じりに黒井から言われた。褒められていないことだけは分かる。

 入場の放送に、俺は憂鬱な気持ちを堪えて立ち上がった。

 とはいえ、俺の出番はまだ先のこと。トップバッターに一条が走る程度であるので、暑いことを考えなければ休憩と同じだ。

 スターターピストルの音が響き、放送部の実況が始まった。

 一条にしてはよくやってる方だ。距離がどんどん開いていくが。転んでないし、男子生徒相手だから仕方ない。

 あ、バトン渡した。

 ぼーっと眺めていたら、そろそろレーンに待機しなきゃいけなくなった。

 バトンは、仮装にまつわるアイテムを渡さないといけないらしい。

 俺が受け取るのは骨。ペットの玩具として使うようなやつ。

 バトンを受け取れば、あとは走るだけ。

 走るときは、前を向いて腕を振る。足も勝手についてくる。

 でも、初めは歩幅を大きくしない。徐々に速度を上げると、全速力を出しやすい。重心を前に傾けて、前傾姿勢にする。

 カーブのときは遠心力を意識し少しスピードを落とす。

 ここで一気に抜く。お、二人いけた。たまたま遅いやつのターンだったみたいだな。

 できるだけ一位との距離を縮めておきたかったんだが、もとが独走状態だったから厳しいか。

 月待の背が近づいてくる。

 血のりの入ったプラスチック製の瓶を押し付ける。

「はい!」

 流石に息が乱れた。

 すぐ退けば、それで俺の役割は終わり。

 あー疲れた。

 汗で湿った鉢巻きを取った。ちょっとならいいだろ別に。多分。女子とか手につけてる人いるし。

 ……にしても。

 近くからも遠くからも応援の声が飛んでいる。よくやるものだ。疲れないのだろうか。特に、ついさっきまで走っていたはずのグラウンド内にいる人。

 俺は思わず手を膝につける形で屈んだ。

 汗が気持ち悪い。日光で肌が焼けていく感覚がある。ちょうどいい感じの曇りがよかった。

 右手で汗をぬぐっても、その右手を拭くものがない。

 くそ、もっと手抜きすりゃよかった。どうせ黒井あたりが俺の分なんて走れたろ。大体、俺一人サボったところでなにが変わるっていうんだ。

 なんで俺はこんな頑張ったんだ。なんとなくか? それとも、参加が初めてに近い体育祭を案外楽しんでたから? 空気に吞まれた?

 俺は頭を振り、地面に落ちた。

 どうでもいいや。疲れただけで後悔してねえし。

 呼吸が整い、ある程度疲れがとれてきたところで、ふと周りを見渡した。

 俺よりもよほど運動が苦手な一条はどうしてるんだろうか、と思って。

 体育座りの彼女は、集団から少し離れた位置にいて、非常にわかりやすかった。

 どうも月待と話しているようなのだが、それにしては二人とも口が動いているように見えない。

 徒競走練習のことがあったばかりなので、大丈夫かと心配になり話しかけようとした瞬間、最下位のクラスがゴールしてリレーが終わった。

 応援席に戻ると話す間もなく競技が始まってしまったので、まあいいかと放置することにした。わざわざ俺が関わる理由もねえし。

 それに、月待はわりと思ったことを素直にそのまま言うので、少なくとも、一条の言葉の解釈が両者ですれ違うってことはないだろ。

 変に気にするのもおかしな話だ。

 と思っていたんだが。

 昼休憩になり、一条は真っ先に俺に話しかけてきた。

「どうしましょう、市川くん。私、話しかけられました」

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