四十二話 変
体は、動かなかった。その後も、休み時間にはまあもっと時間あるときにとか思ったり、昼休みには自分の弁当を食べてから、一条が食べ終わるころまで、とか考えているうちに予鈴がなったりと、あれこれ理由をつけて先延ばしにし、ついに放課後まで来てしまった。
一条は支度が早い。すぐに話しかけないと間に合わない。
もし、もし鞄を抱えて机を整え終わったとき、まだいるのなら話しかけよう。
怖気づくように考え、俺は鞄を放った。
なにやってんだ俺は。言い訳ばっかでクソダセえ。
鞄を持ち帰ろうとしている一条に声をかけた。
「一条、ごめん」
彼女は動きを止めると、直角に腰を折った。
「私の方こそ、すみませんでした」
駅のホームまで歩く途中に、全部聞いた。
端的に言えば、話しかけてきてくれた人にしちゃいけない質問をし、その後上手く挽回できずに嫌われた、ということらしい。
「藤井さん……ええと、同じクラスの人なんですけれど。徒競走のときに列が前後で、位置も近いからなのか、話しかけていただけました。……多分、嬉しかったのでしょうね」
一条は馬鹿にするような、自嘲するような、あるいは自分の愚かさに悔やむような笑みを、はっきりそれとわかるくらい浮かべた。
「なぜ話しかけてくれたのですか、と聞きました。思っていたよりもいい子そうだから、と言われました。だから、私は、」
言葉を止めた。
「私は、だから、なぜ――ですか、と聞きました」
「え? なんつった?」
聞き返すと、一条は首を振った。ゆっくりと息を吐きだした。
「今やっと、した質問を市川くんに共有するということは、人のセンシティブなところを広めるということに気がつきました。ですから、言わないようにしないといけません」
それきり、一条は口を開かなかった。静寂が耳に痛い。
今までどうやって会話してたんだったか、と思いつつ、俺はシンプルに、一番聞きたかったことを聞いた。
「で、なんで俺と距離取ったんだよ」
まさか今更俺の地雷を踏みたくないからとは言わないよな?
一条をちらりと見やると、彼女は非常に言いにくそうに、顔を逸らした。
そのまま沈黙。
「おい。なんかは言えよ」
一条は言い淀みに淀んで、ちらちらこちらの顔色を見ながら、やっぱり目を逸らした。
「………………その」
「おお」
「……………………」
いくらなんでも躊躇しすぎだろ。
溜めなげえなあ、いや溜めじゃねえと思うけど、とか思いつつ歩いていると、一条が、多分俺じゃなかったら聞こえないくらい小さい声で、そっと呟いた。
「……市川くんに、嫌われたく、なかった、から、です」
呆気にとられ、俺は思わず一条をまじまじと見た。彼女は実に気まずそうに目線を下にして、
「貴方の隣も、言葉も、とても居心地がよくて、暖かだったから。もしも自分がそれを冷めさせてしまったらと思うと、怖くて」
いつもは大人びた静けさを持っていた一条の声に、子どものような響きが加わった。彼女は、ややぼさついた三つ編みを、左手で握りしめた。俯かれたせいで、横顔が見えなくなった。
「市川くんは私とは違って、関わろうと思えば、皆さんとじょうずに関われる人です。だから、一緒にいてもいいのか、わからなくなるときがあります」
それに、と髪を握ったまま続けた。
「胸の奥が、すっと隙間風で痛むようなのです。ありきたりに表せば、多分、羨望なのです」
――私は、とても要領が悪いから。
一条はぱっと髪から手を放した。
人と比べて要領がいい方である自覚はある。
「でも、俺だって人と関わるのは下手くそだぞ」
「それでも、人を傷つける行動をする心根ではないでしょう」
「それはお前だって同じだろ」
「……」
彼女は、らしくもなく下を向いていた。つられて、俺もなんとなく目線を下ろす。
だらんと垂れた左手が酷く淋しげに見えて、思わず、右手の指先で彼女に触れた。
その冷たさに、つい、緩く手を握ってしまった。
数秒、お互いに時が止まった。
我に返ると、じわじわと熱が湧きがってくる。
顔が、熱い。
自分は一体なにをやっているのだろう。
呆れつつ、ごめんと手を振りほどこうか、と手を動かしかけた瞬間、一条が試すように、少し握り返してきた。
払おうとしていた動きを止め、少しだけ力を入れると、今度ははっきりと握り返された。
嬉しそうに、むにむにと手が動く。頬を少し桃色に染めて、甘い飴を舐めた子供のように、じんわりと嬉しそうに目を開いて口を緩くさせている。
なんかにやけそうになって、一条から目を背けた。自分の行動への照れも引いたとき、一条は口を開いた。
「あの」
「うん」
「ダンス、助けてくれませんか?」
「いいけど、俺も上手くねえよ」
「少なくとも私よりは上手です」
まあ、一条がいいならいいんだけどさ。
「どこがいいでしょう」
「昼休みの空き教室とかでいいだろ」
面倒極まりないが仕方ない。
「もうあとちょっとで体育祭か」
「そうですね」
なんとなく、駅までずっと手を繋いで帰った。




