四十一話 ズレ
荷物を置いていいというので、足元に荷物を寄せ、スマホで撮影してやった。
一緒に動画を見てあーだこーだ言って実践してみたり、休憩していたりとしていると、辺りが暗くなってきた。
一条も疲労がたまっているようだし、と俺は切り上げることを提案した。
彼女は汗でずり落ちそうになる眼鏡を押さえながら、
「お付き合い下さりありがとうございます。一人じゃよく分かりませんでした」
鞄についた汚れを落とす。手をぱんぱんと叩き、制服に着替えた。まだ冷たそうだが、まあ半袖でいるよりはマシだろう。
「それでもし、差し支えなければなのですが」
一条は肩に鞄をかけた。鞄の持ち手を強く握っている。若干、肩に力が入る。
「体育祭まで、毎日お付き合いいただけませんか?」
「別にいいけど」
そういえば一条はいつバイトをしているのだろう、とふと考えた。
「ありがとうございます」
ほっとしたように息を吐いた。
そんなに緊張するのに、それでも俺を頼ってくれたことが、なんだか少し嬉しかったから、つい頬が緩んだ。
帰り道、バイトのことについて聞いてみたら、基本短期や休日なので、と返ってきた。
そんな調子で放課後リレーの練習をしていると、一条は日を追うごとに体力もついてきて、初めの頃に比べ、速さもまあ改善された。
それに、人間関係についても、朝に俺以外の人とも挨拶を交わし、授業中、話せるチャンスがあれば積極的に話しに行っているようだった。
昼休み、一緒に昼食をとっているときに、誰がどうしてくれたとか、話してくれるようになった。
が、どうも彼女は下手を打ったらしい。つい一時間前には仲良く話していた人たちに、距離を取られていた。
徒競走でなにかあったのだろう。男女別で練習していたから詳しくなにがあったのかは知らないが、教室で再会したときには既に空気が冷えていた。
放課後、リレーの練習を終えた帰り道に、それとなく聞いてみた。一条は首を振った。
「なんでもないです」
食い気味だった。
夕焼けの差した横顔が、どことなくぎこちない。緊張の走った瞳に、無表情よりやや引きつった頬。
明らかにおかしい。
「なんかあるなら、頼れよ」
一条の足が止まった。だから自然と、俺も止まる。
「聞かないでください」
縋るみたいな響きのある声だったものだから、一条の目が暗く沈んでいるのをはっきり認めても、俺は二の句が継げなくなってしまった。
その次の日からリレーは衣装を着用しての練習も始まった。一条はそこそこ普通に走ることができていた。ひそかに俺が安堵したのはいうまでもないだろう。
俺は一応、何事も卒なくこなせる性質なので、なにも問題はなかった。
ただやっぱり、一条の様子が気がかりだった。
「もう大丈夫です」
昼休み、なんでもないことのように一条が言った。
「あ?」
なんのことだ、と一瞬混乱した。
「リレー。一人で頑張ってみます。コツもすべきことも分かりましたから」
「ああ、そう」
無表情で弁当を口に運ぶ俺の横で、一条は片付けを終えた。今日、俺は妙に進みが遅かったし、一条は妙に速く食べ終えた。
「あの」
「うん」
「ありがとうございます、本当に。あと、ごめんなさい」
一条は言葉少なに、何度もそれを繰り返した。独特の間があった。
なにか色々かけたい言葉はあるのだけれど、俺はひとまず、これだけは言っておかなくてはいけない、という言葉を見つけ出し、箸を置いた。
「頼られたことなんて、なかったから。頼られて、嬉しかった。またなんかあったら頼れよ」
一条は明確に目を見開いた。
俺の言ったことを、彼女は口の中で復唱した。むにゅむにゅと唇を歪めて、目を細めた。
「ありがとうございます。もう分かりました」
ダンスの練習始まったけど、そっちは大丈夫なのか。
そう聞こうと思っていたのに、俺はなにも言えなくなってしまって、結局もう一度箸を手に持った。
翌日、一条は休み時間俺に話しかけてこなかった。昼休みも、俺は一人で食べた。その前の会話が会話だったし、いきなりのことだったから、やけにもやもやとしたけど、まあそんな日もあるよな、と思った。今まで毎日欠かさず一緒に食べてたのが異常だったのだ。
俺は、あえて自分から話しかけることはしなかった。友達だと思ってくれてんなら、そのうち頼ってくれると判断したから。それに、話したいと思ったらそうするだろう、今は気分が乗らないのだ、と思ったのだ。そんなときにわざわざ声をかける必要もない。
メールも、止まった。俺もそうした。徒競走のときになにかあって、それで今忙しいのかもしれない、送らないようにしようと考えた。別に、どうしても連絡したいことがあるわけではないのだからと。
数日経って、なんとなくそうしたかったから、一条に話しかけた。
目に現れるくらいに動揺し、どこかしら怯えるみたいに体に力が入った。
話しかける気が失せた。確か、次の授業のことをちらっと聞いて、返答を貰って、離れた。
その状態のまま、一週間が経った。
部屋でギターを弾いていても、思考が散る。
突然訳も分からず突き放され、無性に腹が立った。感情が振り回されて、疲れる。面倒だ。そうじゃないから、一条との関係を気に入っていたのに。
つか、あんなに怯えられる心当たりねえし。
俺は昔っから愛想が悪いし目つきが悪いし、口下手で言葉足らずだからよく人から逃げられたけど。でもそのくらいのことは、こんだけ話してくれてるから承知の上だろ? いきなり距離取られる意味が分からねえ。
ムカつく気持ちがつい音に乗った。左手に余計な力が入ったので、指を思い切り痛めた。大分久しぶりにやった気がする。
ぼーっと擦った指を眺めた。バイオリンを始めたころもギターを始めたころも、上手く力を抜けなくて、しょっちゅうこんな風に痛めていたんだよな。
コツをつかむまでは、誰だってこんなもんなんだ。痛かったけど、それも楽しかったな。成長している気がして。
今日はやめとくか、とギターを片付けた。
……うだうだ悩んでても解決はしないよな。一条に直接聞いてしまうのが早い。
なのに、なんで俺、躊躇してんだろうな。一条なんだから、きっと納得できるだけの理由があるはずだ。
だけど、それがもし、俺が怖いからだったら。
そこまで考えて、はたと気がついた。
怖いって言葉を聞きたくなかったからか。
「あー」
意味もなく声を出し、ベッドに寝転がった。
照明で明るい天井と向き合う。
「……案外、気にしてたのか、俺」
自分が怯えられがちなこと。
自分で自分の傷つきやすさにびっくりする。
でも、なんか納得しちゃったんだよな。だから勉強が苦じゃないのにあんなに学校嫌だったのか、コミュニケーション嫌いだったのか、って。
そうだ、そうだな。俺、人とのコミュニケーション、苦手だし嫌いだったんだよ。面倒だから。
面倒ってのは、いろいろ要因はあるだろうが、第一印象がマイナスだから、そこから再構築するのに苦労するというのもあったんだろうな。
「あー……」
今はもう慣れてるから、他人相手だったらどうでもいいんだけど。というかそもそもとして好かれようと意識してないしな。
でも、一条相手はそうじゃない。一緒にいるのが居心地いい。できるんなら好かれたい。
で、嫌われたかもってときに、無意識のうちに意識していた目つきの悪さとか、口下手だとか、そういう理由が真っ先に浮かんでしまったわけだ。
そして一条の口から、それがきっかけで嫌になったと、万が一にも聞きたくない。
めんどくせえやつだな。
まあ、理由が分かったならいいや。明日、ちょうど体育祭週間が始まるし、聞いてみるか。
翌朝、俺は一条に話しかけた。
「おはよ」
一条の体に狼狽が走り、声にぎこちなさが滲んだ。
「おはようございます」
沈黙。いつもの一条なら、なにかしら話題を振るはずだ。
「あー」
世間話とかできたらいいんだが、残念ながら俺にそんな器用さはない。
「俺のこと、避けてるよな?」
ので、俺はいきなり本題を切り出した。というか、そうする以外に方法が分からなかった。
「…………」
一条は、嘘をつかない。ここでだんまりということは、話したくないが否定をすると嘘になるということだ。
素直に肯定すらしないのか。
心臓がすっと冷えた。頭も冷えた。
「なんで?」
「……それは、その」
また、途切れる。
「俺、なんかしたか」
聞きたかっただけなのに、思ったよりも冷たくなった。真っすぐ見たつもりだけど、睨むみたいになった。
体を強張らせていた一条は、俺の一言で、固まった。
ああもう、上手くいかねえなあ。
「…………え、」
音が掠れていた。萎縮しきっていた。
「悪い。なんでもない。ごめん」
それだけ早口で告げると、教室から逃げた。
顔は、怖くて見られなかった。
時間をつぶすため、そこらを適当にほっつき歩く。
多分、嫌われた。というよりも、あの瞬間俺は俺を嫌いになった。
謝りたい。謝らなきゃいけない。
なら今すぐ戻れ、馬鹿が。
時間が過ぎればすぎるほど謝りにくくなる。
なのになんで、俺は教室からどんどん遠ざかるんだ。




