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三十一話 楽しい

「待って待って待って待ってっっっっッ!」

「うわっ」

 買ったばっかりのバイオリンを放り出し、ものすごい形相で星野が俺の服を引っ張った。

「やめろ馬鹿っ。服伸びるだろ」

「さすがになんもやってないことはないだろ? 頼むよ、連絡先を俺にくれっ! コンサートのチケットやるから!」

 なんもやってねえってなんのことだ、と思ったがそうか、そうだわ、そうやって連絡先交換を断ったんだった。

「分かったから離せって」

 この情緒がわけわからんところが、俺に対して変なフィルター入ってるからだって分かったら、わりかし恐怖感は減った。キラキラしてるとこは苦手だけど、過度に邪険にするのもかわいそうだよな、と思えるくらいに苦手意識が薄まったのだ。

「マジ? やった! えーと、じゃあこれを」

 慣れた手つきでささっと操作を終え、星野は俺に期待する目を向けた。

「なあなあ、今バイオリン弾くって言ったよな? もし、もしできるんだったら、録画データもらえたり」

「お前に見せる腕はねえよ」

「そっか。だよなあ……」

 露骨に悲しそうにしてみせたあと、

「もし気が向いたら、いつでも待ってるからなっ!」

 表情豊かだな。羨ましいくらいだ。

「あと五年は来ねえよ」

「つまり五年は連絡とってくれるのか?」

「じゃあな」

「えっ? あ、うん」

 財布からお札を抜き出し、机の上に置いた。

「…………いや待ってっ! これ一万円っ」

「演奏代。試奏のとき、聴かせてもらったから」

 まだなにか言っている星野を無視し、俺はカラオケを出た。

 あのお札は、楽器店に行くからと持ってきたやつだった。ついでに交通ICに数千円入れようと思ったのもある。

 あれは、お小遣いでもお年玉でもない。俺はバイトをしてないから、バイト代でもない。

 父が、ブログの収益を俺用にと取っておいてくれていたものだ。

 ……流石にお小遣いを自分以外の人に使うのは違う気がするので。

 などと考えた冷静な理性も、カラオケを出た後吹っ飛ぶ。俺は自然と走り出した。

 全力で走れば、三分後発車の電車に間に合うかもしれない。

 そうすれば、早くバイオリンが弾けるっ!

 楽しみだ。純粋にそう思える。

 そうだ、それでいいんだ。俺がどれだけ悔いたって、バイオリンを大切にできなかった過去は変わらない。俺はそれを許すことはない。また、楽しめなくなるかもしれない。性根は変わってないんだから。

 それでも、俺はバイオリンを弾きたい。

 ――たとえバイオリンの良さを伝えられずとも、貴方がその魅力を実感することができれば、それはきっと貴方の持つバイオリンにとっての幸福なのではないのですか?

 納得してしまったから。

 改札口にスマホをかざし、階段を駆け上がる。

 俺は、バイオリンが大好きだ。俺の人生にバイオリンがないなんて、想像もできないほど大きな存在になっている程度には。

 駅のホームに出る。扉が閉じるアナウンスが流れだす寸前に、俺は電車内に飛び込んだ。

 息はもちろん切れてるし、暑い。しんどい。

 でもわくわくする。

 バイオリンには、口がない。バイオリンがどう思っているか、なんて俺が知るすべはないし、もちかするとそんなものはないのかもしれない。

 だから、俺は俺の意志に従う。こんなやつにはもう演奏されたくないと思われているかもしれない。早く売って腕のいい人に回せと思われているかもしれない。

 でも、俺は弾きたい。俺が演奏を楽しめる限り。俺が真っすぐバイオリンを思えるうちは。

 ああもう、脳がぐちゃぐちゃだ。さっきから同じことを繰り返し繰り返し思っている。脳のボキャブラリーとか知性とかが一気に抜け落ちた気がする。

 総括すれば、俺はバイオリンを弾きたいと思う、それだけなのに。

「はははっ!」

 笑えてきた。脳の快楽物質が既にだらだら分泌されている。脳焼けそう。むしろもう溶けきってるかもしれねえ。

 顎に垂れた汗をぬぐい取り、電車内だから静かに、と自分に言い聞かせるのに、なんでか楽しくなってくる。

 自分を客観視できるから、今自分は痛いくらいやべえやつって分かるのに、落ち着かない。止まらない。

 降車するなり駆け出した。人ごみを抜け、改札口を抜け、家の方へ走る、走る。

 エレベーターを待つのすら面倒で、階段を二段飛ばしで上った。

 俺は扇風機の回っている自室に前のめりに入り込んだ。防音にするため、扉を閉じる。

 バランスを崩さないよう、慌てて重心を整える。

 テーブルの上に凛と寝そべっているバイオリンケースを持ち上げた。

 もう一年は使っていないはずなのに、埃一つない。まあ手入れしてたしな、と冷静な頭が告げる。

 鍵を開け、バイオリンと弓を取り出す。

 胴体がつやりと、光を滑らせている。木材の色味が鮮やかだ。

 どうやって構えるんだっけ、なんて記憶を遡らずとも、体は自然とバイオリンに馴染む形に動いた。

 無意識のうちに中指と薬指と親指でつまむように弓を持つ。

 使われるのを待ち望んでいたかのように、弓が、バイオリンの弦を揺らした。

 カノンの形で、音が流れていく。

「はははっ。むず」

 声が漏れた。

 音程はズレるし、なんかしっくりこないし、ビブラートド下手くそだし、多分筋肉が衰えてるから思うように弾けてない。

 でも、やっぱり中二の頃の不協和音よりよっぽど心地がいい。大丈夫だ、技術はこれから取り戻していける。

 それより今は、楽しみたい。

 ああ、こんなに楽しいと思ったのは、いつ振りだろう。

 心臓がきゅっと絞られるみたいにバクバクする。体が熱い。楽しい。

 この気持ちをもう一度味わえたんだから、もうどうでもいいや。

 体が悲鳴を上げるギリギリまで、俺はずっとバイオリンを弾いていた。

 あとで録音したものを聴いてみたら、それはそれは酷い出来だった。

 こんなの誰にも聴かせられない、と一人で腹抱えて笑った。

 ……で。

 ひとしきり満足したあと、意味もなくバイオリンを隣に置き、通知がうるさいチャットアプリを開いた。

 ネットで調べた通りに、星野のメールの通知を切る。

 ついでに中身を確認してみた。

 文面ですらやかましいのはもはや才能だな。

 長文の上に記号も絵文字も多用してくる。無駄に改行しやがって。

 しかも、そうして送られてきたメールの内容は薄っぺらいことこの上ない。一言、宜しくなで終わるだろ。

 これは本当に一条とやり取りしているものと同じ媒体なのか?

 とりあえず、返信に悩んだので一旦無視をした。まあ、明後日までに返信すればいいだろ。

 そう思い、スマホを置いた瞬間に通知が鳴った。

 まず俺は、星野の通知を切れていなかった可能性を真っ先に考えた。そして、星野に全く非はないのだが、一瞬本気で腹が立った。

 スマホの画面を覗いてみると、一条からだった。

 心の中で星野に謝罪をしつつ、内容を目に入れた。

『母が西瓜(スイカ)を買ってきたので、よかったらどうですか』





 翌日、菓子折りをもって家を出ようとしたら、母に呼び止められた。

「弦也、今日どこ行くの?」

 鞄を肩にかけつつ、答えた。

「一条ん家」

 映画のときみたいにはならないよう、物理的に距離をとって対処している。

「なら、そこの紙袋持っていきなさい。いつもお世話になってるでしょ」

 母はすっかり物置と化しているクローゼットを示した。

「分かった」

 クローゼットを開けてみれば、それらしき紙袋の中になにやら派手なフォントが見える。気になるが、覗き込むのはなんとなく嫌だったので、やめた。

「これであってるよな?」

「ええ」

 それじゃ行ってきます、と俺は母に告げ、靴を履き扉を開けた。

 紙袋と共に電車に揺れること数十分。

 俺は一条にいつものように出迎えられたが、一条はちらと紙袋に目をやった。

「あー、これ、母がいつもお世話になってるからって」

「開けていいですか?」

「おお」

 紙袋を受け取った一条は、顔を中に突っ込むような勢いで中身を確認し、途端、顔を上げた。

 困惑している。ものすごく。

「……なに入ってたんだ?」

「手持ち花火です」

「へえ」

 そう相槌を打つと同時に、一条が中から花火を持ち出した。

 ファミリー用の、すげー大きいやつ。

「ああ……」

 一条一人がこの量を黙々とやるのは無理がある。いやまあ、こいつなら楽しめるだろうが。でも確かに、反応に困るだろうな。相当大きいぞこれ。

「……一緒にやるか? 公園ででも」

「はい。今日は、母も帰ってきませんし」

「そうなのか」

 なぜだとは思うが、まあ聞かれたくなさそうだし、やめとくか。

「あの、お母様にありがとうございますとお伝えください」

「おお。あとこれもな」

「……いつもありがとうございます。お菓子ですよね?」

「ああ」

 一条が大事そうに花火と菓子折りをリビングの方に持っていくので、俺も洗面所に向かって手洗いを済ませた。

 リビングへ行くと、テーブルにはもうスイカが並んでいた。小気味いいくらい綺麗に切られているし、種も取り除かれてある。

 一条の対面の椅子に腰かけた。

「お前器用だよな」

「そうですかね」

「おお」

「ありがとうございます」

 いただきますと手を合わせる。

 二人とも無言だった。

 シャリシャリと、果物特有の音がする。

「もう夏休みも一週間程度ですか」

「そうだな」

 窓が開いているらしい。流れ込んできた風で、カーテンがふわりと舞った。

 スイカは、水っぽいが美味しかった。

「そういや、夏休み母親と出かけるとかねえの?」

 母親との仲は悪くないようだったし。

「ありますよ。家族とお出かけ。今年は一緒に風鈴の飾られている神社に行きました」

「へえ」

「市川くんは?」

「お盆に母方の実家に行った。でも父は自分の実家の方に帰ってたから、家族全員でどっか行ってはねえかな」

「ああ、電話してくれたときの」

「おお。あと、二人で温泉行ってきたみたいだ」

「二人……ご両親のことですか?」

「おお」

「そうですか。二人で温泉」

 嬉しさをほんの少し顔に滲ませ、嬉しそうな声で一条は呟いた。

「ご両親、仲が宜しいのですね」

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