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三十話 憧れ

 俺は、一瞬脳がパンクした。

 が、すぐに持ち直し、

「別にいいけど、なんで俺なんだよ」

「えっ?! いいの? やっったっっ!」

「明後日以降でいいなら」

「全然いい全然いいっ! マジでサンキュな! マジで!」

「おお……」

 つい引きそうになるが、楽器を預かっててくれたんだ、相手を傷つけないようにしないと。いや、俺に嫌われたとこで傷つくようなやつじゃないとは思うけど。

 待ち合わせ場所と時間を決め、楽しみにしてるっ!と本当に楽しそうな声と笑顔で言われ、ひたすら気疲れする会話を終えた。

 どうしても苦手なんだよなあ……。

 家に帰って、俺は倒れ込んだ。

 スマホのカレンダーを開く。星野が参加すると言っていたコンクールの予選が、九月五日。

 当日券、あるんだよな。

 俺は悩んだ結果、一応予定を空けておくことにした。その日の気分で行くかどうか決めよう。




 二日後。約束の十分前に着いた俺は、澄んだバイオリンの音を聴いた。

 ……待ち合わせ場所は、楽器店。前に星野と会ったところだ。

 楽器店の試奏は、どうしても音が漏れる。もちろん、店内にいない俺にとっては小さい音だが、俺がバイオリンの音色を聴き逃すわけがない。

 俺の足音でその音を埋もれさせてしまわないよう、ゆっくり、慎重に歩く。周りの人の雑音はあるが、それでも自分に一番近い音だけは小さくしようと思った。

 一歩進むたびに、楽器店に近づく。当たり前だ。

 俺の世界に、バイオリンの音が広がっていく。

 それは、風化しかかっていた音色。聴きたいと望んでいた音色。俺の弱さを晒し上げた音色。

 耳から入り、心臓へと流れ、血流となって全身にいきわたる。

 無駄な音、美しくない音を削ぎ落した、究極の理想形を常に描き続けるそれが、俺を満たしていく。

 一年前ですらプロ顔負けの実力だったのに、なおも上をいく音。

 バイオリンの音に心が宿っている。血が巡っている演奏。

 店内に足を踏み入れる。予想通り、そこには美しい構えでバイオリンを弾く星野がいた。

 表情豊かで、感性豊かで、それでいて深く深く余韻を残し響きを味わえる音は、星野そのものだ。すぐわかった。

「あ! 一昨日ぶり、弦也っ!」

 演奏だけはいいのが憎らしい。

「なあ、弦也はどういう基準でバイオリンを選んだんだ? 俺、どんなものがいいのかよく分かんなくてさ。そりゃあ弾きやすいとか綺麗とか、初心者用とか高級品とかの違いは流石に感覚で分かるよ?! でも、じゃあいい値段するバイオリン選ぶぞってときに、どんなふうに選べばいいんだろう、と思って。ほら、どこのブランドか、とかで音色全然変わるじゃん?」

 バイオリンの余韻に浸っていた耳に、マシンガンがぶち込まれた。

「お前が好きな音のを選べばいいだろ。俺に聞くことなんて一つもねえよ」

 初心者ならまだしも、俺が、この天才になにをアドバイスできるっていうんだ。

「俺、別に好きな音ないんだよな。俺のスタイルに合っているかどうかもよくわかんないし」

「へえ。バイオリンなら何でも好きなのか」

 こいつ、バイオリンの話をするときだけは静かだぞ。まともに話ができる。一生バイオリンの話してくれねえかな。

「え? あー、いや。違う違う。自分の音はどんなんでも嫌いなだけ」

 おい苦笑しながらとんでもないこと言ったぞこいつ。

 店員も笑顔をひきつらせている。

 俺もドン引きだよ。

「お前が自分の音嫌いだったら俺なんてどうすりゃいいんだよ」

「ええっ。なんで」

 なんでじゃねえよ、こちとら毎回佳作だぞ。星野は毎回金賞のくせに。

 ふざけんなよ本当。俺が死ぬほど欲してた才能があるくせに持ち腐れさせるとか絶対ありえねえ。絶対いいの買わせてやる。

 さっき聴いたばかりの星野の演奏を思い出す。

「予算は」

「一応は三十万。でも、小遣い切り崩せばもうちょいならいける」

「お前の実力なら、正直数百万するイタリア製のオールドバイオリン使ったらきっと綺麗だって前提で聞けよ」

「う、うん」

 星野がさっと背筋を正した。

「で、もし俺だったらこれを選ぶってだけの話だ。しかももう一年はバイオリンを触ってないやつの意見だ。あんま丸のみにするなよ」

「はい」

「俺がお前だったら、ここら辺を選ぶ」

 たとえば、と手に取ったのはドイツ製。

「ドイツ製と日本製のは安定感があるし安価な物もあるからいい。中でも、お前には華やかではっきりしてる、溌溂とした音色のが合ってる。現状のお前は、人よりバイオリン自体の良さを引き出すように演奏してるんだよ。自覚あるか知らねえけど。で、ならバイオリン自体がお前とマッチしてれば、相乗効果でどんどん綺麗になっていくはずなんだ。だから俺がお前なら好みより相性を優先する。で、俺の印象的にこの中の系統なら合うやつが見つかるんじゃねえかと思う。あとは演奏してみて合うのを選べ。個体差みたいな微々たる差でも、お前の場合耳がいいから演奏に響く。何回も言うがよく聴いて自分に合ったやつ選べよ。俺はお前より確実に耳が悪いし、本人じゃないからわかんねえ。俺を頼るな。以上」

 ……少し興奮して、語りすぎた。

「……ついでにいうなら、星野の場合本人の出す音自体に華があって綺麗なのに、どことなく誰かをなぞるような、生き生きしている人の真似をした結果生き生きしているだけの無機質な演奏にも聴こえてくるのを改善したら、もっと良くなる。恐らくにはなるが、それは星野が、バイオリンを生かそうと考えすぎて記憶の中の持ち主でも想像して真似してしまってるんだろうな。でもそうしなくたって充分お前自身の持ってる独特の音楽センスと耳の良さで魅力的な音は作れるから、もっと自分本位な演奏でだっていいはずなんだ。もったいないねえんだよ。音に強く感情が乗れば、今よりもさらに心に響く演奏になる」

「……図星だよ、びっくりした」

 若干引くような顔をされた。お前が選べって言ったから選んだんだろ、なんだその顔。が、すぐにぱっと顔を輝かせた。

「ありがとうっ! すみません、これ試奏してみてもいいですか?」

「はい。ではそちらをお戻ししますね。失礼します」

 星野は店員に、今持っていたバイオリンを渡した。

 そのあと、星野はいくつか試奏して、弓も選び、会計を済ませた。

「なあなあ! 近くのカラオケで演奏したいんだけど、付き合ってくれねえかなあ!」

 と言われたので、カラオケに向かった。

 星野はケースにしまいこんだバイオリンを如何にも嬉しいです、と言わんばかりに触り、俺の向かい側に座った。

「そういや、なんで今更新しいバイオリンを買うんだ?」

「今まで使ってたバイオリンは、祖父が弾いてたのを譲りうけたやつでさ。やっぱ、あれは俺の中で祖父のバイオリンだし、どうしても記憶の中の音色に見劣り……聞き劣り? するし、自分で新しくバイオリンを買って、手に馴染むまで育てる? 熟成させる? そういうの、憧れてて」

「ふうん。よかったな」

 ふと星野は、真顔になった。真っすぐ俺の目を見た。

「……俺になんか用ある? なんとなく、そんな気がしたんだけど」

 なんでこういうとこで鋭いんだ、こいつは。

「俺、星野の演奏好きなんだよ」

「えっ」

「のびやかながら繊細で、音が大きくなったり小さくなったりしっとりしたり楽しくなったりしてて、聞いてて飽きが来ないし、心が動くんだ。俺の理想と同じなんだ」

「……へっ」

「で、それとはまったく関係ねえんだけど、俺、もうバイオリン辞めたんだわ。少なくともコンクールには出ねえ」

「え?」

 ずっと驚いてばかりだったが、そこで初めて、星野は絶句した。

「まあ、その。コンクール頑張れよ」

 苦々しい気持ちで告げると、口をぱくぱく開いたまま、星野は何も言わない。

 なんでこんなショック受けてるんだ? 意味わかんねえ。別に、昔から仲良かったわけでも、特別演奏が上手なわけでもなかったのに。

「……俺、昔っから、努力したことなくてさ」

 やっとショックから抜け出したのか、ぽつんと呟いた。

「今も、努力って大嫌いな言葉だよ」

 俺は星野とは別ベクトルで嫌いだな。

「バイオリンだって、祖父が勧めるからやり始めたんだ。ていうか、もしプロになるんだったら、っていうので、三歳くらいからやってた」

 ああ、それくらいに始めたらいいって聞いたな。

「惰性だったんだよな。でも、中一のとき、祖父に連れていかれたコンクールに、君がいた。弦也の演奏は、バイオリンが心の底から大好きだってわかるような、生き生きした感じがするんだ」

 ……あれ、ちょっと待て。

 ――生き生きしている人の真似をした結果生き生きしているだけの無機質な演奏にも聴こえてくる。

「俺、今も努力って言葉は大嫌いだけど、本気で好きなら必要だとも思ってるんだ。俺が今まで努力したことがないのは、多分、本気で好きになれたものがなかったんだと思う」

「…………」

――相変わらずテンション高かったわ。

――それはお前の前でだけだが。

――……は? どういうことだよ。

――ひまわり。

――そういうことだ。

 ひまわりの花言葉は、憧れだ。帰ってから調べた。

「……それで、君の真似をしたら、俺もバイオリン、好きになれるかなって。そうだよ、俺はずっと君の真似をしてたんだ。君の姿が、すごくかっこよくて綺麗に見えたから」

「…………」

「え、なんで照れてるの?」

「うるせえよお……」

 俺は、頭を抱えて机に突っ伏した。そうか、星野は俺の真似をしてたのかあ。

 照れねえわけねえだろふざけんな。

「そりゃ、俺の理想になるよな」

 俺よりいい腕で俺の真似してんだから。

「……だったらなおさら、自分本位な演奏しろ。俺の真似したってバイオリンのこと好きになるわけねえだろ」

「ごめん。えーっと、まあつまり、何が言いたいかっていうと、俺にバイオリンの良さを教えてくれて、ありがとうって話だよ」

 その一言で、弾きたいと、思った。

 そうだ、バイオリンは良い。魅力的だ。音の強弱の幅が広く、音階に縛られない変幻自在の音色がいいんだ。

 俺がバイオリンを辞めたのは、バイオリンを楽しむことを放棄した自分が許せなかったからで、もう楽しめないと思ったからだ。楽しむ資格がないだろうし、純粋な水に墨が入ってしまえば二度と戻らないように、始めたばかりの気持ちにはもう戻れないと思ったんだ。

 でも、俺は今、確かに純粋に、バイオリンを弾きたいと思った。

 もう弾かない理由はないんじゃないのか。

 だとしたら、そうだとしたら俺は、また、バイオリンを――。

「じゃあ、えっと。これ、弾いてみる」

「ごめん星野。俺帰ってバイオリン弾くからじゃあな」

「えっ」

 ――触れなければ記憶は風化してゆきます。気づいたら薄れた記憶を、ぼんやり思い出すだけになることが、私は一番怖いのです。

「今度のコンクール、見に行くから頑張れよ」

「いや、えっ?」

――たとえバイオリンの良さを伝えられずとも、貴方がその魅力を実感することができれば、それはきっと貴方の持つバイオリンにとっての幸福なのではないのですか?

 早く、弾きたい!

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