二十九話 ひまわり
「弦也はどうする?」
一条の家にそうめんを食べに行った翌日、母にそう聞かれた。なんの話だと思ったが、そうか、もうそんな時期か、とカレンダーを見て納得した。
「お盆休み、例年通り私とお父さんはそれぞれ実家に帰省するつもりだけど」
「俺は」
待っているから行ってきなよ、と言いかけて思い直した。そうだ、随分前、母についていこうと思ったのだった。
「俺も、母さんと一緒に行っていい?」
「もちろん。きっと喜ぶわよ」
母がにっこりした。どちらかと言えば母さんが喜んでるな。
「そうか?」
バイオリン始めるくらいまで頻繁に遊びに行ってたが、無口だし楽しそうにしていた記憶がない。
「二泊するから、そのつもりで準備してね」
「おお」
「ああ、ちっちゃいころお母さんとこのおじいちゃん懐いてたっけなあ」
父が、台所からひょいと顔をのぞかせていった。テーブルに泡が飛んだ。
「スポンジ持ち上げるなよ。汚れるだろ」
「それはすまん。つい嬉しくなっちゃって」
父が言っている間に、母がティッシュで拭いて捨てた。母は呆れ顔である。
「まあ、それなら楽しんでおいで。俺も楽しんでくるからな」
「おお。準備してくるわ」
「うん。もし荷物持ちきれないとかあれば相談しなさいね」
「分かってる」
というわけで、自室に戻って荷造りを始めた。
とりあえず、と必要なものをスマホでリストアップし、俺は圧縮袋に詰め始めた。
まあ、スマホと充電器と着替えがあれば最低限いけるだろ。旅行じゃないんだし。
あっさり終わり、俺は楽器に目を移した。
この真夏に、空調管理せずに三日間。
……怖え……。
冷房付きで常に回してるならまだしも、俺の部屋には冷房はない。リビングは広いから気温調整が難しいし、扇風機にしたとしても三日間それで放置は心配だ。湿度は湿度調節剤がなんとかしてくれるとは思うが。
いっそ持ってくか? ……ギターもバイオリンも? 電車で二時間以上だぞ? 無理だろ。
あとは、誰かを頼る、だよな。そんなやついねえんだけど。
……あ、いや、一人、快く引き受けてくれそうなやつはいるわ。でも無理だろうな。
「母さんに相談してみるか」
俺は、母の部屋に行って楽器について話した。母はキャリーケースに荷物を入れながら、
「星野君にお願いしてみる?」
「は、なに、知ってんの、連絡先」
不意を突かれ、動揺が隠し切れなかった。
「ええ。うちのおじいちゃんと向こうのおじいさんが仲良しでね。そもそも、星野君が弦也のことを知ったのだって、おじいさん経由だからね」
「初めて聞いたんだけど」
「言ってなかったかしら? 弦也のおじいちゃんが弦也のことを教えて、興味を持った星野君のおじいさんが星野君を連れてコンクール見に来たのが、星野君が弦也を知ったきっかけよ」
「いや、一回もそんなこと言われてねえよ」
「まあいいじゃない。で、どうする? 預かってもらえるか聞いてみる?」
「……あー、まあ、うん」
さっき、考えた。でも心情的にも物理的にも無理だと思ってた。
「そう。じゃあ星野君のお母さんに聞いてみるわね」
母が確認を取ったところ、快諾してくれたようで、俺は無事に宿泊できることになった。
そして、時は過ぎて、お盆前日。
「久しぶりっ! 弦也元気だった?」
くそうるせえ。
いや、いけない。バイオリンもギターも、急遽なのに預かってくれるっていう相手に、くそうるせえなんて思っちゃいけない。
「預かってくれて、ありがとな」
「ぜんっぜんいいよ! 責任もって大事に預かっとくから! あ、弦也のおじいちゃんによろしくって言っといてくれ!」
ちけえしうるせえ。ほんとなんでこんなテンションおかしいんだよこいつ。終始こんなんで疲れねえのかな。
「ありがとう、星野君。帰ってきたら、そちらにお邪魔させていただきます」
「はいっ! お待ちしておりますッ!」
外向きの笑みを作った母がいうと、星野はしっかりとバイオリンもギターも持ち、歩き始めた。
「じゃあな! また会おうな! いつでも待ってるからっ!」
バイオリンを持っていない方の手をぶんぶんと振る。
振り返すのは癪だったので、見なかったことにして扉を閉じた。
「……あんた、なんでそんな星野君のこと苦手なの」
圧、というよりは呆れのニュアンスが近い声だ。
「…………星野にバレてっかな」
「星野君は気づいてても多分気にしないと思うけど、ほんとなんでそんな苦手なの」
人には基本無関心なのに、とつぶやかれた。
「何考えてるかわかんねえし、情緒が怖え。あと距離が近くて、無神経なとこ」
「ふうん。まあ、お礼しっかりしてればいいわよ」
今回は、確かに星野に助けられたんだ。楽器を回収するときにもう一度お礼を言っておこう、と決めた。
電車で二時間と少し揺られ、その後十分歩き、俺と母は祖父の家にたどり着いた。
地価が安い土地だ。だからかは知らないが、祖父の家は広い。
日本家屋、といった趣のあるその家に、そっと足を踏み入れた。
石垣で囲ってある屋敷の中には、祖父が育てている木々がふんわり広がっている。
靴を脱いだ母が、木造の床の上に立ち、歩みを進めた。
「お父さん、ただいまー」
まあまあ久しぶりなので、俺はおっかなびっくり、母の後ろに続いた。
「お邪魔します」
一向に返事が返ってこないのが不安なんだが。
静かだ。人の気配がしない。
母は慣れたように進んでいく。
入り組んでいるが、意外と構造を覚えていた。まあ、久しぶりとはいえ小学校卒業くらいの年越しで来たしな。
とか思いながら進んでいると、縁側に出た。
人がたたずんでいる。ゆったりとしたシルエットは和服のように見えはするし、実際近いけれども、それが案外洋服らしく動きやすいことも知っている。
「あ、いたいた。弦也も来たよ」
「お、帰ってきたか。遠くからご苦労さん」
久しぶりに聞いた深みのある低い声が、鼓膜を撫でた。その瞬間、先程まであった少しの緊張がとけた。
俺は笑みをこぼし、爺さんの隣に腰を下ろした。
「三年ぶりくらいだっけ」
木漏れ日が綺麗だ。
「もうそんなか。そりゃ、どおりで声が変わってるわけだ」
「背も伸びたよね」
母が反対隣に座った。
「まあ、そうだな」
「いくつだ?」
「十五。高一」
「へえ。学校は楽しいか?」
「……まあ、退屈ではねえな」
すうっと夏風が吹いた。祖父に倣って、俺も外を眺めた。
風を味わって満足したらしい母が、荷ほどきしてくるわね、と席を外した。
真夏なのに、その風のおかげで縁側は気持ちがいい。
植物が色とりどりに咲いている。
「爺さん、あの花はなんだ?」
「お前まだ爺さん呼びしてんのか」
そういや昔から突っかかれてたな。近所の爺に話しかけてる、みたいな雰囲気が出るからいやだと。
「いいだろ別に」
「あれはマリーゴールドだ。虫よけに育ててる」
「へえ」
「寒さには弱いが、暑さには強い。初心者にも育てやすい。種やろうか?」
「いやいい。毎日水やりできる気がしない」
「そうか」
そこで、ゴーンゴーンと古時計が鳴った。耳に馴染む。
「よし」
祖父が立ち上がった。
「荷ほどき、手伝ってやる」
母と俺の荷ほどきを終え、昼ご飯を食べた。寿司だった。美味しかった。普段食べている寿司とは、なんだか違う味がした。
それから、外に出た。
歩きながら、あの花はどういう花で、どういう意味がある、とか説明をしてくれた。
昔の記憶が蘇ってきて、ああ、来てよかったな、と思った。
その日は、そうして過ごした。
夜、なんだか落ち着かず、寝れなかったので、少し歩くことにした。昼間よりも風が強い。
一条もこの空気感を気に入るだろう、と考え、スマホを取り出し、メールを送った。
今、電話できるか、と。
既読がつき、大した間もなくスマホが鳴った。向こうから電話をかけてきた。
通話ボタンを押す。
『こんばんは、市川くん。どうしましたか?』
「今、祖父の家に来てて。ビデオ通話でも、どうかと」
『ああ、構いませんよ』
ビデオ通話にして、風景を見せた。
今日は晴れていて天気がいいから、星空がよく見える。そして明るい。
『綺麗ですね』
「な」
画面をゆっくり上空に向ける。
『わあ。星が綺麗ですね』
「そうだな」
夜空に星が散らばっている。本当に綺麗だな。
『私も、今外にいます』
「へえ」
『東京からは、うまく見えませんね。ほら』
画面を見ると、確かに電灯の明かりや建物で全く見えない。
「まあ、それだけ。夜にごめん」
『構いません。こちらこそ、素敵な景色を見せてくれてありがとうございます』
それで、電話を切った。
スマホっていいな。遠くにいてもこんな風に体験を共有できるんだ。
たったそれだけのことが、なんだか楽しかった。
「そろそろ帰るか」
踵を返し、俺は祖父の家に戻った。
二日目の朝、祖母のお墓参りをした。
病気だったみたいだ。俺が小さい頃に亡くなったから、ほとんど記憶がない。
ただ、あの強い母が、寂しげに目を細め語り掛けていたのが印象に残った。
そのあと、祖父は祖母が気に入っていたという場所に案内をしてくれたり、いろんなことを教えてくれたりした。
植物以外にも、あの建物の建築様式はどーのこーの、って話。
夕方、祖父の家に向かう帰り道も、あれこれずっと話してくれた。
「なあ、爺さん。俺、バイオリン辞めたんだ」
その声が心地よかったので、なんとなくそう零した。
「……」
「バイオリンのことを、好きでいたかったから。それに、もう弾く資格はないと思ったから」
「そうか」
少し考え込むように黙った祖父は、特に平常から声の調子を変えることなく俺に問うた。
「そういえば、星野君は元気か?」
突然何の話だ、と思うのと同時に、なぜかぎくりと体が強張った。
「ああ、元気そうだったよ。昨日会った。バイオリンとギター預かってもらったんだ」
「そうか」
「あ、そうだ。星野が、よろしくって伝えておいてって」
「こちらこそ、と伝えておいてくれ」
「分かった」
星野が来たときの、母との会話を思い出し、ぼそりと呟いた。
「相変わらずテンション高かったな」
「それはお前の前でだけだが」
「……は? どういうことだよ」
「弦也、これは?」
祖父が指をさす。視線で追う。黄色い花弁が意気揚々と太陽を向いている。ひまわり畑だ。
「ひまわり」
「そういうことだ」
「…………はあ?」
それきり、祖父はなにも言わなかった。
でも、どきりとした。冷や水を浴びせられた気分だ。なぜだろうと考えた。
――触れなければ記憶は風化してゆきます。気づいたら薄れた記憶を、ぼんやり思い出すだけになることが、私は一番怖いのです。
一条の言葉を思い出した。
一条に吐き出して、整理がついて、やっと気がついた。
もう一度、星野の演奏を聴きたい。星野の演奏が好きだと、伝えたい。
バイオリンが好きで、星野の演奏が好きだという感情を、自分の中で消化させて、ただの思い出にしたくない。
それをなにか見透かされたような気がしたから、ぎくりとしたのだ。多分。
翌日、俺は一人で祖父の家を出た。母は夜までいるみたいだが、俺は先に帰ることにした。
電車に乗ると、どんどん景色が遠ざかっていく。それに清々しさと寂しさを覚える。
行きと同じように二時間ほど乗り、俺は降りた。家に着き、スマホと財布以外の荷物を置いて、地図を見ながら星野の家まで向かった。
楽器の回収が少し早くなったということは、母が伝えてくれていた。
慣れない道を歩いていくと、それらしき家に当たった。
インターホンを鳴らしエントランスを抜け、エレベーターで五階まで上がる。
チャイムを押すと、星野が出てきた。
「この二つで大丈夫だよなっ!」
「ああ、ありがとう」
お礼はしっかり。
バイオリンとギターを受け取り、俺は固まった。ここからどうやって話を進めよう。
「……あのさっ!」
悩んでいると、星野が口火を切った。声量を少しでも抑えてくれればなあ。
「一緒にバイオリン、選んでくんないかなっ!」
「……え? は?」
なんで俺……?




