二十八話 触れる
「……また、楽しめなかったら。あれだけ楽しくて、大好きだったバイオリンの記憶が、嫌いな記憶になると思うと、怖いんだ」
ぽとりと、溢れ出た。
自分でも驚いた。そんなことを恐れていたなんて。
一瞬、怒りが沸いた。バイオリンを馬鹿にしている。上達できない程度で、バイオリンを弾く楽しさ以上に苦しみが上回るものかと。
「私も、分かるのかもしれません」
でも、その言葉でふっと静かになった。火事になる前に、濡れた雑巾で抑えられたみたいだ。
カップを両手で握り、一条は目を細めた。
「けれど、触れなければ記憶は風化してゆきます。気づいたら薄れた記憶を、ぼんやり思い出すだけになることが、私は一番怖いのです」
ぎゅっと、一条が手に力を込めた。半ば独り言にも聞こえる響きのまま、一条の言葉は続く。
「思い出にしたくないのです。なりたくないのです。それが正しいことなのか、私は分かりません。前進しているのか、足踏みしているのかすら、分かりません」
俺に向けて、彼女は微笑んだ。大きく目を開けて、口角だけを開けるみたいな笑い方だった。
「でも、私は好きだから。私はその好きと関わりたいのです。……それで誰かに迷惑をかけているから、どうしようもないのですけれど」
「……一条も」
これは聞いていいのだろうか、なんて考える間もなく、聞いていた。
「忘れたくないものが、あるんだよな」
「そうであったらいいな、と思うものなら、あります」
即座に返ってきた。
「そっか」
「市川くん」
出会ったときと同じような、目の奥で好奇心をキラキラ透かし、言った。
「話してくれて、ありがとうございます。……ええと、それでは、私はこれで」
立ち上がり、会計をしようと動く一条に、つい聞いた。
「なあ、メールしていい?」
「用事があるなら今お聞きしますが……」
困惑したように振り返った。
まあ、そうなるよな、そうだよな。
「……あー、と。ごめん、そうじゃなくて」
もう一条が俺と関わる理由がないのに、また遊ぼうって言っていいか。
そういうことを聞きたかったんだと思うが、うまく言葉に表せず、俺は、
「……また、一緒にどっか行っていい?」
としか、言えなかった。
「……はい。いつでも」
今までで一番の笑みを浮かべ、一条は立ち去った。
あの一条が、はっきりと満面の笑顔を見せた。
俺はしばらく呆然としていたが、はっと気がつき、会計をしようとすると、もう支払い済みです、と返ってきた。
別に勝負でも何でもないのに、なんか色々と負けた気がした。
帰りの電車に乗り、しっかりお礼のメールをした。
本当に、俺の話に肯定も否定もせず、ただ聞くだけだったな、とふと思った。
胸のあたりがすっきりした気がする。
そうだ、と思い出し、鞄にしまっていた物を取り出す。
一条からもらったお土産の包装を、丁寧に開いた。
銀のシールでくっついているだけの簡易的なものだ。
袋から取り出した。
キーホルダーだった。とはいっても、魚とかではなく、長方形のアクリルに水族館の名前が彫られているだけの、シンプルなやつ。
これは、あれか。俺が生き物全般気持ち悪いとか言ったからか。
……貰ったからには、つけたほうがいいんだよな。
帰ったら通学鞄にでもつけるか。体育のときとか目印あると取り違い起こさなくて楽なんだよな。
無意識のうちに頬が緩んでいた。




