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二十七話 変わる

「……あの、市川くん」

 困惑したように、一条が手を見る。

「あ、ごめん。引き止めて」

「いえ、それは構わないのですが、その、手が痛いです」

「……あ、ごめん」

 ぱっと手を放す。白い肌がはっきり赤くなっている。つい力を入れすぎたらしい。一瞬で顔から血の気が引く。

「ほんと、ごめん」

「いえ、お気になさらず。それで、どうしました?」

 一条は、言葉通り本当に気にしていないようだった。俺ははーっと息を吐きだした。

「……今から、時間貰えるか?」

「はい。今日一日は空いていますよ」

「じゃあ、カフェ、寄らね?」

「分かりました。いいところを知っています。行きましょう」

 カフェに着くと、二人席に案内された。

 ああ、俺はダサい。

 誤魔化せないくらいの緊張で、微かに手が震えている。

 一条が訝し気にこちらを覗いている。分かっているのに、顔が上手くあげられない。

 人に弱みを見せる、ということが怖い。

 大丈夫だと確信したはずなのに、一条に失望されることが怖い。

「……市川くん?」

 ふっと顔を上げた。一条が不思議そうに首を傾げている。

「俺、初めて会ったときから、一条のことすげーなって思ってた」

「え?」

 そう口から出たのは、なぜだろう。自分ですら自覚してなかった。

「俺は面倒なことはできるだけやりたくないから、人と関わるなんて御免だ。でもお前は、興味を持って、関わってくる。すげーなって思う。なによりも、好きなことに真っすぐでいられるのが、凄いと思ったんだ」

 俺はできなかったから。

「ありがとうございます」

 よくわかっていないらしいが、頷いた。

 当たり前なのだけれど、平常通りの一条の態度に、先ほどから続いていた奇妙な緊張はほどけた。

 ちょうどそこで紅茶が来た。俺と一条、それぞれの。俺のはレモンティー、一条のはアールグレイ。

「まあ、紅茶もきたし、飲むついでくらいに聞いてくれよ。俺とバイオリンの話」

 一条は狼狽を見せながらも、こくこくと頷き、紅茶を飲んだ。

 俺は記憶力がいい。だから、あのとき丸めた紙の中身も、覚えてる。

 すっと息を吸った。




 バイオリンという存在を知ったのは、父の友人が音楽関係者だったからだ。たまたまクラシックコンサートのチケットを父が貰い、母が仕事の予定と被っていたから、なら俺を連れていこうという話になったらしい。

 バイオリンをやる前の俺は、無口で大人しく、何に対しても興味を示さない子供だった。何をするにも面倒がるが、ほどほどに上手くこなす。好きなものも苦手なものもない。そういうつまらない人間だった。

 だから父は、音楽はどうか、とでも思ったんだろうな。

 父がそう連れ出してくれたおかげで俺は、音楽がこんなにも心を動かすものだと知ることができ、深く感銘を受けた。

 特にバイオリンの演奏を大好きになった。

 繊細で、華やかで、気高い音色。感情豊かに生き生きと奏でられるその音が、今でも忘れられない。

 弾いている人の構えが美しかったことも覚えている。楽器と一体化したような滑らかな動き。

 そのコンサートを聴きに行ったのが、六歳のころ。帰り道、人が変わったようにはしゃいでいるのがよほどうれしかったのか、俺が頼んだら父はすぐバイオリンを買い、習わせてくれた。

 ただ、正直プロになるには遅い。

「いや、死に物狂いで頑張ればぎりぎりなれたかもな。わからないけど」

 はじめは上手く綺麗な音を出せなかった。それでも、自分の持つ弓でバイオリンの弦を動かせたことが嬉しくって、毎日毎日弾き続けた。

 四年経って、そこそこそれらしくなった。強弱をつけられるようになったり、体の動きが滑らかになったり。

 難しい曲にも挑戦できるようになった。

 コンクールは、いつも佳作どまりだった。賞候補にはなっても、それ以上は手が届かないくらいの腕だったんだ。

 唯一取れたのは、中一の頃。初めて大人用のバイオリンを使って演奏したときの銀賞。

 あのときはバイオリンを弾くのがなによりも楽しかった。

 たとえ目つきの悪さで避けられても、口下手で嫌われても、バイオリンさえあれば俺は生きていけると思っていた。

 俺にはバイオリンしかなかった。打ち込めるものがそれしかなかった。

 俺を俺たらしめるアイデンティティになっていた。

 だから、あの演奏を聴いて心が折れた。

 星野勇気のバイオリン。同い年なのに、ありえないくらい演奏が上手だった。俺の理想を体現したみたいな音色だった。

 バイオリンという楽器の魅力を極限まで磨き、美しく奏でていた。

 なぜか俺が目指す程度のレベルのコンクールに出場していた。生で聴いて、心が砕け散った。まるで初めて聴いたバイオリンの音色のようだったから。

 俺の理想形だったんだ。

 そして、なぜか佳作どまりの俺に執拗に話しかけてきて、どっかで二重奏でもしたいと言い残していった。

 それでバイオリンを辞めればよかったのに、俺は星野のことが嫌いになってしまって、どうにかして彼を超えたいと思った。

 それから、バイオリンを弾くこと自体ではなく、上達すること、星野より上になることが目的になった。

 当時は冷静になれてなかったが、今聴き直してみると、どんどん音に余裕がなくなっていて、ほとんど不協和音みたいなものになっていっていた。

 そのぴったり一年後。中二の終わりかけ。

 なぜか、父が星野から是非とコンクールのチケットを貰った。俺は参加資格すらないレベルのコンクールだった。

 そのステージで、俺はただバイオリンの音色に聴き惚れた。

 バイオリンの音に聴き入って、それ以外忘れて、ただただ音に浸った。

 星野の演奏が終わって、やっと気がついた。

 俺はもうバイオリンを弾く資格をなくしたと。バイオリンを手段になり下げたから。

 それは、当時の俺を壊すには十分な絶望だった。

 さっきも言ったけど、俺にはバイオリンしかなかった。それがなければ俺は、空っぽな人間だった。

 俺は、俺に失望した。酷く失望した。

 バイオリンに縋っていたくせに、恩人ともいえるバイオリンを、貶めたから。

 俺が嫌だったのは、バイオリンを辞めようと思ったのは、星野の実力がすごかったからじゃない。それによって俺が、楽しめなくなったからだ。

 でも、どのみちどこかで終わりが来ていた気がする。

 俺はバイオリンをやるのに向いてなかった。プロを目指して苦しいことを我慢するでも、趣味と割り切って一人で楽しむでもなかったから。

 あのときやっと、それに気が付けただけなんだと思う。

 両親は、お金がかかっているのに簡単にやめさせてくれた。

 バイオリンをやる前に戻ることを恐れたのか、父がギターを勧めてくれたので、買った。

 楽しかった。そりゃあそうだ、バイオリンは俺に、音楽の楽しさを教えてくれていたんだから。

 そこでやっと、自分にはバイオリンだけじゃなかったのだ、と気づくことができた。気が抜け、ほっとした。自分のことを考えてやろう、という気になった。

 受験生になると、基本的に勉強をしていた。あれこれ考えるのが面倒だったし、将来の自分のためを思うのなら、偏差値の高いところに行けた方がいいと思った。

 その結果、今の高校に受かることができて、俺の受験は終わった。

 卒業アルバムの写真を貼るページも、メッセージを書いてもらうページも真っ白だったけど、バイオリンを辞めた喪失感もあったけど、それでもよかった。

 第一志望合格で、自分に少しだけ自信がついた。

「たったそれだけだ。悪かったな、大した話じゃなくて」

 カップをソーサーに戻した。

「人間ですね」

 どこかぼんやりした様子の一条が、そう言った。

「はあ?」

「私は、貴方のその弱さを、美しいと思います」

 そう言われ、俺はふっと肩の力を抜いた。

 想像していたより随分と暖かな言葉だった。

 バイオリンを貶めた自分のことを許しはできないけれど、一条に認めてもらって、気持ちが濾過(ろか)されて執着を捨てられたような気分だ。残るのは、バイオリンへの真っすぐな感情だけ。

「市川くん。私は、貴方のバイオリンを弾くのが楽しい、ずっと弾きたいと思う気持ちを捨ててほしくはありません」

 いつの間にかメモ帳を広げ、ペンを握っていた彼女は、メモ帳も持ち上げた。

「私に、市川くんのバイオリンの気持ちはわかりません。けれど、誰かに美しいと、魅力的だと言ってもらえる。感じてもらえる。それは、嬉しいことです。そして、幸福なことです」

 メモ帳を片付けながら、一条は笑った。

「たとえバイオリンの良さを伝えられずとも、貴方がその魅力を実感することができれば、それはきっと貴方の持つバイオリンにとっての幸福なのではないのですか?」

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