二十六話 渡す
しばらく、彼女は放心したみたいに座っていた。
俺はその隙に、そっと一条から距離を取った。
一条は口を開けたまま、ぎこちない動きでスマホを取り出した。
ちらりと俺を窺う。
「……いいのですか?」
なにか既視感があると思ったら、そうだ、俺が入学してすぐの頃、放課後一緒に帰ろうといったときくらい動揺しているんだ。
「いいから言ってる」
俺もスマホを開いた。
すると一条は、きゅっと口を引き結んで、微笑をこぼした。
「補習のとき、私、嫌われたくなくて、言えなかったんです。連絡先、交換したいって」
一条はそういったあと、
「友達登録、て、どうやるのでしたっけ」
困り顔でスマホを差し出されたので、俺は一条のスマホの画面を見た。
「えーっと、確かここをこうして……」
中学入学のタイミングで母が教えてくれた方法を掘り起こし、探り探りで操作した。
「そう、ここでQRコード出せっから、俺の方で読み取ればいいはずだ」
……お。
「「できたっ」」
思わずつぶやいてしまったあと、お互いに顔を見合わせた。
今、一条の敬語が外れた。
「見てください市川くん。市川くんです。あ、でも市川くんではありませんね。『弦也』となっています」
が、すぐどうでもよくなった。静かにはしゃいでいるらしい一条に釣られ、柄にもなく俺もテンションが上がっていたからだ。
「ああ、こっちにも『静乃』って表示されてる」
「ええと、送信してみますよ」
「おお」
俺のスマホが鳴った。
「あ、来た。宜しくお願いします、って」
「……!」
一条は、それはそれはもう感動したように瞳孔を開ききり、自分のスマホの画面を眺めていた。
「市川くん」
「うん」
「文明とは、かくも素晴らしいものなのですね」
「……そうだな」
俺も、どこかこそばゆいというか、こっぱずかしいというか、むずむずする気持ちで、一条へのメッセージにこちらこそ、と返した。
多分、数分は二人でメールの素晴らしさに浸っていた。
「では、そろそろ水族館回りましょうか」
が、顔色が戻った一条の一言で、俺と一条は立ち上がり、水族館に着いて早十五分、ようやく魚のいる水槽へと意識を向けたのだった。
一条はさきほど眺めていた水槽の方へ歩いていった。遅れて、その後を追う。
やけに水槽に近いなと、隣に立って横顔を見た。俺が選んだ鞄をきつく握りしめている。
額がガラスにくっついている。眼鏡が水槽につきそうだ。
薄暗い館内の中、水槽付近の光で一条の顔が明るく照らされた。白い肌は光を素直に反射する。黒い目は好奇心で生き生きとしている。
「魚ですね」
俺も一条が見ている方へ視線を移す。
色鮮やかな水草の隙間をのびのびと魚が泳いでいる。ぽこりぽこりと、人工的に供給された酸素が、水中に浸透していく音がする。
「すごく綺麗です」
無意識のうちに耳を澄ませていた俺は、その声で視覚を研ぎ澄ましてみた。
よく観察してみれば、小さい魚は、確かに綺麗でカラフルな体を揺らしている。
「そうだな」
そう返答し、俺は別の水槽はないかと周りを見渡した。
「あ、あっちにクラゲいるぞ」
「わあ」
特別感動しているわけでもなさそうな声ではあるのだが、先ほどと同じように目をガラスに近づけている。
「これ、なにでできてるんでしょうか?」
触手を指さした。そんなに近づいて怖くないのだろうか。いくらガラス越しとはいえ、流石に俺は怖い。クラゲって大体毒持ってるイメージあるし。
「タンパク質だろ。多分」
「そうですか。おいしいのでしょうか」
「……おいしいらしいぞ」
調べたらそう出てきた。おいしいのか、これ。まあ、食べ物だと言われてみれば春雨のように見えなくもない。
「ふんわり広がってきゅっと縮むの、かわいいですよね」
初めて一条の口からかわいいという単語を聞いた気がする。というか、おいしいのか疑問を持った後にかわいいという感想が出てくるのか。
「そうか? 生き物なんて基本気持ち悪くないか」
植物にすら意識があるかもとか言われてるんだぞ。なんかやだろ。
「かわいくないですか?」
「ああ」
そもそもなにかに対しかわいいと思った経験が少ないかもしれない。
「人間は?」
「かわいいと思ったことないな」
「そうですか」
ぱっと興味を失ったように他のところへ行った。
「見てください市川くん。クラゲの体で虹ができています」
ミズクラゲの体は水槽の底のライトの色で変わるのか。クラゲが色とりどりになっている。
「虹ではないだろ。いやどっかの国にはこんな虹があるかもしれないけど」
「……」
駄目だ集中してなんも聞いてねえ。俺は飽きてきたし、もう少し先に進むか。
「あ、待ってください」
俺が歩き出した瞬間、慌てた様子でついてくる。お前は俺を置いてったろうが、とは思うが、そっか、一緒に回る気はあったのか。
「……ごめん」
「いえ。あの、すみません」
「え? なにが」
「いろいろ」
三つ編みを持ち上げた。
「大したことしてねえよ」
急に何の話だ、とも思ったが、一条の話が唐突なのはいつものことか。
「あ、向こうに大きい水槽あるぞ」
「本当ですね。早く行きましょう」
一条は俺の手をひっつかんで、すたりすたりと規則正しく早歩きをし始めた。
「……」
俺は、なにも言えず黙り込んだ。
そうか。さっきのすみませんってのは、置いてったお詫びも入っていたのか。それで今回は、置いてかないようにと。きっと頑張って考えたんだろうな、ブレーキかからない自分が、どうしたら俺を置いていかずに済むかと。
……いや、俺、男。距離感どうなってんだよ。
「…………」
すらっとした細長い手だ。暑さでばててたとは思えないくらいひんやりとしている。ただ、手の形がペンを握り慣れた人のそれ。いつもメモ帳とペンを持ち歩いているし、よく使うんだろうな。
楽しそうにしている一条を見ていると、手を振りほどくのもちょっと気の毒だ。
慣れてないんだよ、こういうの。いくら普段から一条が距離が近くたって。
「………………」
こういうときは深呼吸だ。顔が熱いのも変な汗が出てくるのも、それですっと消える。大丈夫だ、俺は昔から緊張する経験は山のようにしてきた。
あ、慣れてきた。
「見てください。サメですよ」
一条にそう話しかけられたときには、俺はもう落ち着きを取り戻していた。我ながら優秀な脳を持っていると思う。
「ああ、そうだな」
例のように一条は、顔を水槽に押し付けていた。口が水槽に当たっていないのだけは幸いか。
「ほかの客に迷惑だぞ、そこまで近いと」
「……え、すみません」
離れた。素直だな。客観視の能力に長けているくせに、視界が妙に狭いんだよな。
「愛嬌がある顔をなさっています。私もこうなりたいものです」
「そうか?」
「はい。同じクラスの月待さんとか月雪さんとかも。感情豊かで表情筋が柔らかくて、いいなと思います」
真顔で頬をこねくり回しながら言うと説得力がある。
「一条はまだマシだろ。俺は目つきがどうしたって治らねえよ」
「三白眼、カッコイイじゃないですか」
「目が死んでなけりゃな」
俺も父のように明るい表情ができればな。
「まあ、どうでもいいんだけどな」
ガラスの自分の顔を見ないよう、魚の方へ焦点を合わせ直す。
「見た目なんかより中身のがよっぽど大事だ」
「でも、相手に中身を伝えるのに最も効果的なのは、見た目で表現することです」
論点がズレてる、とは思ったが、まあいいか、と言わないでおいた。
「まあな」
「……あの魚、水槽に引っかかってますね」
頭使わない会話って、楽だな。
話題が変わったり、もはやほとんど独り言だったりするそれを、気まぐれに拾って会話する。
同意が返ってきたり、反対が返ってきたり。
楽しいと思った。
昼ご飯を一緒に食べ、改めて食の細さに驚いたり、面白い視点からの感想が聞けたり、一条についてを知れたりするのが、楽しいと思った。
だから、こんなに楽しいと思えたのは、一条が一緒だったからだ。
もし俺一人だったら、ここまで楽しいと思えてない。
俺自身が他人と関わるのを厭う性質だからこそ、わざわざ時間を作って、他人と一緒になにかをするということの面倒さ、煩わしさはよく分かってる。
ぼんやり水槽の水面の動きを見上げている一条を眺める。
「……」
ペンギンには目もくれず、そこだけを見ている。スマホにはゆらゆら揺れる水面と、そよそよと鳴っている小さな水の音だけを撮っているらしい。
「ありがと」
「…………」
一条はぼーっとしていてなにも聞こえていない。
ただの自己満足だったな。
一条の傍によって、俺は彼女の視線の先を追った。
「……もう、見終わりましたね。帰りましょうか」
「ああ、そうだな」
「あ、最後にお土産ショップ寄りませんか」
俺は興味なかったから、お土産ショップの外で一条を待った。
スマホを操作し、音楽を流す。いつもより、少し小さめに。
まだまだ日は明るい。建物が夏の太陽に照らし出されている。
いつもは全く気にかからないのに、先ほど一条が風情があって素敵ですね、と言ったから、なぜだか美しく感じる。
にしても、妙に長いな。もう十五分は経ってるぞ。
スマホの画面に表示された時間に驚く。
ちょうどそのとき、お土産ショップから一条がでてきた。
「すみません、お待たせしました」
「別に。一条ももう帰るんだよな?」
「あ、いえ。私は別方面に寄ってから帰ろうかと思っています」
「駅には行くってことだろ。一緒に行こうぜ」
「はい」
駅まで歩く。衣服のこすれる音とか、歩く音とか、遠くに聞こえる雑踏の音なんかが、妙に耳に残る。一条が静かだからだろうか。
「楽しかったですね」
「ああ」
じゃりじゃりと地面を歩く音。
「……もう、駅ですね」
一条は悩まし気に瞳を揺らし、鞄を落ち着きなく握り直していた。
どうしたのだろうと思ったら、足を止めた。俺も止める。
「市川くん」
ふう、と深呼吸をしたあと、一条はいつも通り、すっぱりとした物言いで、俺の名前を呼んだ。
「なに」
「私、家族以外の人と一緒にどこかへ遊びに行くの、初めてでした。すっごく楽しかったんです。私、多分市川くんに迷惑ばかりかけています。でも、一緒にいてくれます。嬉しいです。なんででしょう、うまく言葉にできません。ごめんなさい、まとまらないです」
これが正しいのか分からないような曖昧な動きで、鞄から何かを取り出した。
「……貴方のおかげで、贈り物をすることが、前よりも怖くなくなりました」
にこり、と控えめながらはっきりと、彼女は笑った。
「私と関わろうとしてくれて、一緒にいてくれて、ありがとうございます。気持ちが伝わるといいのですが」
お土産ショップの、ラッピング。
両手で丁寧に差し出されたそれを、強張った手で受け取る。
拙い言葉と、動きと一緒に渡されたそれが、どうしようもなく嬉しい。
「……ありがとう。完璧に伝わってるわ」
「そうでしょうか。なら、よかったです。では、市川くん。また今度、会いましょう」
「ああ、うん」
一条は、俺に気持ちを伝えるために苦手なことをやってくれた。
なら、次は俺の番だ。
会ったときからずっと、貰ってばっかりで受動的なんだよ。俺は。
自分が許せないんだとか、そんなのどうだっていい。そんなことで、一条の誠意に報えない方が、いやだ。
バイオリンもまともにできなかったくせに、なんで俺はまだバイオリンにすがって、それ以外をやろうとしない?
それはバイオリンへの愛じゃない、執着だ。
何度俺は俺の期待を裏切るんだよ。
ぐちゃぐちゃとまとまりのない感情が脳裏を駆け巡り、心臓がむずがゆい。
一条は振り返り、別の改札口に向かっていく。
背が遠ざかっていく。
俺は半ば衝動的に、彼女の右手首を掴んでいた。
ゆったり、一条がこちらを向く。しっかりと見開かれた目と、目が合った。




