二十五話 結ぶ
現実逃避は、不安があればあるほど捗る。
バイオリンについて考えなければと思うほど、勉強が捗る。そういうことだ。
課題をあっさり終わらせてしまった俺は、暇になった。
暇になると、勉強に使っていた脳はバイオリンについて考えるようになる。しっかり自分の中で終わらせたあと、一条が聞きたいことを話してやりたいとは、思う。
が、考えると鬱屈としてくる。
非効率的な自己嫌悪に溺れそうになるのだ。
思考するうち、手がうずうずしてきたので、ギターを手に取る。
そのまま考え続けても、埒が明かない気がした。
気分転換にと最近弾きたいと思っていた曲を弾いてみる。方法は簡単。音源を流しながら、その音にギターの音を近づけていく。いわゆる耳コピと呼ばれるものだ。
バイオリンのおかげで、音階を他の音との関係で判断する、相対音感は相当鍛えられている。始めた時期が時期なので、その音だけでどの音か判別がつく絶対音感は身に付けられなかった。五歳くらいまでに訓練を始めないと駄目なんだよな。
そういうわけで、案外あっさり耳コピできてしまったので、アレンジを入れてみた。
弾いているうちに楽しくなり、打ち込みで他の楽器のアレンジまでし始めてしまった。
こんな具合に、俺は現実逃避を繰り返し、とうとう一条と会う約束をしていた八月三日が来てしまったのだった。
自分自身に呆れるが、とにもかくにも楽しもう。せっかく時間合わせてんだからな。
なんとなく緊張して待ち合わせの一時間前に来てしまった。
俺は大馬鹿者だと思う。
まあ、目が覚めてしまったらつい準備を進めてしまうし、準備を進めてしまったら暇になるので、万が一の事故などを考えさっさと電車に乗ってしまおうと思うのも仕方ない。
いや全然仕方なくねえわ。
浮かれすぎだろ。はず。
しかし、来てしまったものはどうしようもない。
俺は一時間周辺の散策で時間をつぶすことにした。なにがあるのか調べようとスマホを取り出したところで、そういえば一条と連絡先交換してなかったな、と思い至る。
機会があれば聞いておくか。
とはいっても、そんな機会来ない気もするのだが。なにせ俺も一条も距離の詰めかたが下手くそだから。
でも待ち合わせに少しでも遅れたら会えない可能性があるの、双方にとってしんどいよなあ。
なんて考えごとをしつつ、コンビニで炭酸水を買う。暑い空気にやられた体に、炭酸水の冷たさ、爽やかさがしみわたる。
美味しい。
やっぱり食べ物・飲み物において大事なのは、周りの環境だよな。一緒に食べる人・飲む人とか、温度とか。
にしても、時間すぎるのおせえな。
なんか緊張するし、暑い。本当に暑い。汗がだらだら垂れてくる。
楽器類の温度管理、きちんとしてきたから大丈夫だよな? 扇風機つけてきたし、直射日光に当たらないように調整してるし。
とか思いながら辺りを見渡したり歩いたりしていると、カフェらしき店の看板が見えてきたので、そこに入った。
店内の涼しさに癒されたので、炭酸水を飲んだばかりではあるものの、紅茶を一杯注文した。流石に水だけで帰るなんてことはしたくないし、甘いものを食べる気分でもない。
俺が窓を見たのは、単なる偶然だ。何気なーく窓の外を眺め、これまた何気なーくベンチに座っている人を視界に入れ、固まった。
一条じゃね?
飲んでいた紅茶が喉の奥の変なところに入ったので、むせた。
嘘だろ、待ち合わせ一時間前だぞ、と自分のことは棚に上げて驚愕していると、ふと様子が変なことに気がついた。
顔がほんのり赤い。しかもなんだかぼーっとしている。
俺はすぐさま紅茶を飲み干した。迅速に会計を済ませると、急いで一条のところに行った。
「一条だよな?」
被っていた帽子を引き上げ、前髪の奥から俺を認めた一条は、珍しくすっと目を逸らした。明らかに顔色が悪い。
「……待ち合わせより四十分は早いけど」
なんとも言えない気持ちで一条を見る。
「……時間を、二時間間違えてしまいました」
「は? お前もう一時間もここいんの?」
沈黙。ほとんど肯定と同義だ。
俺はひとまず、時間稼ぎにと飲みかけの炭酸水を渡した。
「飲みかけでいいならそれ飲んでろ」
冷えているから、渡さないよりはましだ。
俺はかつてないほど勢いよくコンビニに飛び込んで、目についたスポーツ飲料とアイスをコーナーから引っこ抜くと、即座に会計をし、また一条のところに戻ってきた。
俺の予想通りというか、まるで人の、それも異性の飲みかけというのに気にしない一条は、普通に炭酸水を飲んでいた。
「ほら、これ」
買ってきた二つを一条の隣に置いて、一条が日影にあたるように俺も座った。
「ありがとうございます、料金は……」
さっきよりはまだいい顔色で、一条は鞄を漁った。
「いや、こんくらいいいから。一時間ここでずっと待ってたのか?」
待ち合わせから一回も動いてないのだろうか。だとしたら、このくらくらするくらい暑い時期に倒れてないのは奇跡だろう。
「……いえ。近くのコンビニで、四十分ほど漫画を立ち読みしていました」
ということは、俺が来たタイミングにはコンビニにいたわけか。周辺にコンビニ沢山あるから、たまたますれ違わなかったんだな。
「なんで時間間違えたんだよ」
「市川くんと約束したときに、頭の中で、このくらいに出ればいいな、と考えた時間で定着してしまって。それが、実際より一時間早かったので、さらに一時間早く来ようと思った結果、二時間早くついてしまいました」
「そう……」
俺は全く大馬鹿者じゃなかった。むしろ一条と時間の感覚が同じだった。まあ、ならいいのか。
一条は、これありがとうございます、と口にしてからスポーツドリンクを飲んだ。つくづく礼儀正しいな。
「俺も人のこといえねえけどさ。十分前に待ち合わせ場所にいればいいから、それまで近くの店の中にいろ。待ち合わせするだけでばててたら遊べないだろ」
「その通りです」
面目ない、恥ずかしい、というように目を伏せた。
「……俺も人のこといえねえけどさ」
思わずもう一回言ってしまった。
「これからどうしますか?」
一条はアイスの袋を開き、ざくりと口にくわえた。
その普段通りの反応に力が抜け、目を離してスマホの時計を確認した。
ちょうど、水族館が開館し始めたくらいの時間だ。
「とりあえず、それ食べ終わったら水族館行くか」
「はい」
まあ、入ってすぐ休憩するだろうけどな。
頬に汗を伝わせ、しきりにハンカチで顔を押さえている一条を見ながら、そう思った。
受付で手続きを済ませ、中へ進む。
水族館なんていつ振りだろうか、意外と暗いな、などと考えながら歩いていると、ちょうど良さそうなソファを見つけた。
暑くなっていた頬が一気に冷やされていくのを感じる。冷房が効いていて涼しい。
「ソファ、空いててよかったな」
「はい。でも、想像していたよりも人が少ないですね」
きょろきょろ辺りを見渡し、一条は顔をこちらに向けた。
ほとんど照明のない中、丸眼鏡とその奥の瞳がキラキラ輝いて見える。しっかりと目が合った。一条はいつも、人と話すときに気まずいくらいがっつり目を合わせてくる。すると当然、俺は一条の顔を直視することになる。
だから、暑かったせいかいつもよりも血色感があり、赤みの差している白い頬だとか、睫毛の影が落ちている目元だとか、そういうどうでもいいことにまで目が行く。
なんとなく眺めたくなって、ぼーっとして初めて、艶やかな黒髪がいつもより緩めで乱れていることに気がついた。
「……それ、わざと?」
そういうテクニックか、と思い髪を指さしたら、はい?と首を傾げられた。違ったらしい。
「髪、ほどけそうだけど」
「ああ……」
そっと三つ編みに触れ、一条は若干参ったような口調になった。
「うまく結べなくて、髪がぼさついてしまうんです。もともと少し髪に癖があるのもありますけれど」
ぼそりと、鏡見ないと結べませんし、と付け足された。
「へえ」
スマホで結び方を調べてみる。三束に分けてから、右端と左端の束を交互に中心に重ねていくだけか。
案外簡単そうだな。
「……やってみていい?」
せっかく時間使って来てるんだ、髪が決まらないとか、嫌だろ。多分。俺なら嫌だ。
あと単純に見てて鬱陶しい。
「はい」
ほんのちょっぴり嬉しさの混ざった声で頷いて、わりと躊躇いなく髪ゴムをほどいた。
「ええと、どうすればやりやすいですか?」
「あー……あそこの水槽見といて」
ソファの真正面。
「はい」
背筋をピンと張り、水平に水槽を見据えた。こういうところの完璧さは流石だな。身じろぎ一つしないからやりやすい。
やりやすいのだが。
俺は近づいてから、自分はとんでもない提案をしたな、と気がついた。
どうやっても一条との距離を確保できない。
とりあえず俺は、体の向きを斜めにして、俺の体と一条の体の間くらいの位置に左足を置いた。
これで、少なくとも俺の胴体と一条との距離はちょっとできた。で、右足が邪魔だから右足を折る。
俺は間違っても耳とかを触らないよう、慎重に髪の毛を取った。
癖があるとはいっても軽めだからか、サラサラとしている。触り心地いいな。
三束に分けた。あとはこれを交互に編んでいくだけ。きつくやりすぎると駄目らしいから、ほんの少し余白を残して。
「一条、髪ゴムほしいんだけど」
「あ、どうぞ」
視線を一切ずらさず左手を差し出された。
「……なあ、これどうやって縛るの?」
「えっと、結ぶところを利き手……右手に持ってください」
髪の毛を右手に持つ。
「右手に髪ゴムを通して」
「おお」
「左手で髪ゴムを引っ張ってください」
「こうか」
「そうです。そうしたら、クロスします。バツができるように」
「うん」
「しっかりとまるまで繰り返してください」
よし、もう分かった。要領を得た俺は右側に移動し、もう片方をやり始めた。
「一条」
「はい」
ふと気になり、問いかけた。
「そういやさ、なんで待ち合わせ十分前とかまでコンビニにいなかったんだよ」
途中まで立ち読みしてたんなら、そのままそこにいればよかったろうに。
「……ええと」
一条が言い淀むのも、最近は珍しくもなくなってきた。
「連絡先、交換してなかったので」
「はあ」
イマイチどういうことか分からず、一瞬手が止まる。
「その、もし入れ違いになったら、嫌だなと」
「なるほどな」
入れ違いとか、ありえねえとは思うけど。でも、理論関係なく不安になる気持ちは分かる。俺も、コンクール前に何度もチューニングチェックしちゃってたし。
そういや、さっき機会があれば聞こうと思ったな。
「……交換、する?」
俺は手を離した。
一条は、先ほどまで微塵も動かなかったくせに、俺がそう言った途端顔をこちらに向け、眉を上げ、目を見開いた。瞳孔がぎゅっと小さくなる。
「……要するに」
一条が、どのくらい俺自身に興味を持ってくれてるのか、分からない。
これを今いうのは、卑怯じゃないか、とも思う。
それでも俺は、一条の顔を見据えた。
「また、遊ぼうって話なんだけど」
「……」
一条が固まってしまった。彼女は、驚きすぎると思考停止するらしい。




