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二十三話 勉強と色

 俺は、自分を救われるべき人間ではないと思っている……などというと、ちょっと大げさか。過去の自分を許せないんだ。

 一生の恥とすら思ってる。

 ほかの人からすれば、どうでもいいことだ。なんなら、なにが悪いのだろう、とすら思うかもしれない。でも、俺にとってはそうじゃない。

 バイオリン以外なかった俺にとっては。

 俺はパソコンを閉じた。

 ……許したい。けれども、許せない。

 心臓がバクバクしている。今でもあのときの絶望感を思い出す。

 ああ、やっぱりまだ許せない。一条には悪いが、こればっかりは曲げられない。それが、俺なりのバイオリンへの向かい方だから。

 俺は紙を丸め、ゴミ箱に放り込んだ。

 もうすぐテスト期間に入る。勉強しよう。

 俺はそう思い立ち、教科書を取り出したのだった。




 一週間後。期末テスト目前。

 俺は、勉強していた。

 俺の部屋は冷房がないので、扉を開けっ放しにして他の部屋からの冷風が届くようにしている。が、冷房のある部屋とは大分距離があるので、暑い。扇風機を持ってくるのも面倒くさい。

 なので俺は、基本的にリビングで勉強している。母は家事のために大抵リビングにいるし、適度に緊張感があり集中できるから丁度いいのもある。

 だが、流石に飽きてきた。景色は変わらないし、音楽をかけるとヘッドホンもイヤホンも邪魔になるし、スピーカーにすれば母にうるさいと言われるし。

 というようなことを今朝思ったのを思い出し、俺は放課後、図書室で勉強してから帰ることにした。荷物を持ち図書室に寄ったのだが、いかんせん考えることは皆同じ。人が多い。

 テスト期間に入ってから部活動も停止になったし、普段よりも混んでいるはずだ。あまり来ないからわからんが。

 まあ、仕方ない。

 俺は回れ右をし、近くの図書館へと向かった。

 雨が降っているから、まだ人が少ないと踏んだのだ。

 図書館に着くと、予想通り、学校よりは人が少なかった。なにより静かだ。

 せっかくだからと数冊本を借り勉強スペースに歩いていくと、一条がいた。

 顔とノートの距離がほとんどゼロだ。目が悪くなりそうだな。

 話しかけるのは(はばか)られるが、遠くの席に行くのもそれはそれで避けてるみたいで気が引ける。

「正面使うぞ」

 一条に一声かけ同席した。

 気づいてないらしく返答はない。

 俯いていて、前髪が長めなので表情もうかがい知れない。

 そう観察するのもよくないので、俺は思考を切り替えノートを広げた。

 シャーペンの芯を出す。

 無音の状態だと、案外筆記音が目立つんだよな。多分この音がなければ、俺はここまで勉強に集中できない。

 筆記音、時々シャーペンの芯を出す音。赤ペンの採点の音に、雨音。

 ときどき一条の方を確認してみるのだが、全く頭を動かさない。代わりに手だけはものすごい勢いで進んでいく。

 絶え間なくぺンが紙の上を滑っている。文字を書くのと問題文を読んで思考するのとがほとんど同時なのだろう。凄いな。

 そのたび、俺もやらなきゃと、また視線をノートに戻す。

 一条は一度も顔を上げなかった。

 俺が図書館に来てから数時間が経ち、外も流石に暗くなってきたころ、俺は荷物をまとめ始めた。

 気分転換に外で勉強したのは正解だったな。普段よりも大分捗った。

 鞄に使った筆記用具やらノートやらを入れ終えたとき、やっと一条は顔を上げた。

「ああ、市川くん」

 俺を見てもさほど驚いた様子がない。音で気づいたのだろうか。

 一条は伸びをするように腕を天井に向け、見上げた。そりゃあんな姿勢で何時間もいたら疲れるよな。

「……一条は、まだ勉強すんの?」

「いえ。私も今から帰ろうかと」

 言いながら、取っ散らかっていた教材をすぐさま整え、鞄に詰めた。鮮やかな手腕だった。

「よければ、ご一緒しても?」

「いいけど」

 支度早えな。

 俺が内心舌を巻いているうち、一条は立ち上がった。

「行きましょう」

 図書館の外に出て、傘を差したところで、俺は声をかけた。

「新しいの買ったのか、それ」

「はい」

 一条は内側から傘を眺めながら、

「ビニール傘でもよかったのですが、母からせっかくならもっと趣味が出るものを、と」

 くすんだ水色、といった色味だ。涼し気で静かなんだけれども唯一無二な感じ、なるほど、『趣味が出る』……。

「水色、好きなの?」

「はい。といっても、明るく見えてくすみがかった色、が好きなのだと思います」

「その傘の色以外だと、たとえば?」

 イマイチ想像できなかったので聞いてみた。

「緑系統だと、ミントグリーンとかスプリンググリーンとかですかね。淡いくすみカラーの、かわいらしい印象とレトロな印象が同居した雰囲気が好きなのです」

 ああ、ぼんやりイメージできたわ。

「へえ。俺は色にこだわり持ったことねえかも」

「意外ですね。髪を染めているくらいなので、色に並々ならぬこだわりがあるのかと」

「それ関係なくね」

 傘を持っていない方の手で髪を触った。

「ところで、その傘は以前買ったものですか?」

 俺のビニール傘を指さしてきた。

「ああ。元々持ってたやつと日替わりで使ってる」

 買ったんだから使わなきゃ勿体ねえしな。ちゃんと壊れるまで使うつもりだ。

「いいですね。ちなみに、もう一本の方の傘は何色なのですか?」

「黒」

「……なんで髪染めてるんですか? 地毛、黒ですよね」

「だから関係ねえって」

 いつまで引っ張るんだ、髪の話。

「……いえ、純粋にそういえばなんでだろうと思って」

 ああ、俺の好きな好奇心旺盛な目をしてる。俺はさりげなく目を逸らして答えた。

「ネットに大会関連で顔とか全部出てるってのと、……願掛けだったんだ」

 ネットといえば、父親が毎日俺の録音したカノンをブログに載せてくれてたな。……まあ、ふっつり途切れてるんだけど。

 あれ、そういえばこいつ、初対面のときなんで俺がバイオリン辞めたって分かってたんだ?

 もしかしてブログの方まで行ってたのか?

 ……マジで?

「願掛け?」

「……ああ、うん」

 混乱していたせいで、返事がそっけなくなった。

「……受験前の冬休み、父が受かるようにって、美容院連れて行って髪染めてくれたんだよ。ほら、うちの高校、基本髪色自由だろ? だから絶対受かれよっていうので」

 なんとなく、空いている左手が髪に伸びた。

 今思えば、多分、暗くなった俺のことを物理的に輝かせてしまえって父なりのユーモアでもあったんだと思う。そういうことをいいかねない人だ。

 一回染めただけじゃ、そんなに髪痛まないだろうし、健康的に影響は少ないだろうからな。

「そうなんですか」

 一条は自分の髪を一束つまみ、私も母に染めてもらうのも悪くないかもしれません、なんて言った。

 これは言っていいのだろうかと思ったが、まあいいか、と言うことにした。

「一条は、髪、綺麗だよな」

「……そうですか? 癖っけと寝ぐせであまり綺麗ではないと思いますが」

「……なんていうか、つやつやしてる」

「そうですかね」

 一条は三つ編みをいじった。

「……あの」

「なに」

「比較対象がいないと分からないので、髪、触っていいですか?」

 そこまでするのか。本当好奇心旺盛な奴だな。

「別にいいけど」

 ありがとうございます、と返ってきた。

「……そういやさ」

「はい」

 一条が割と躊躇なく髪を触った。……いてえんだけど。引っ張るなよ、子どもかよ。

「お前、身長いくつ?」

「160前後です。市川くんは?」

「175前後だな」

 てことは身長差十五センチくらいか。もっと差が少ないと思っていた。一条がしっかり背筋を伸ばしているからかな。

 というか、もう十分だろ。いつまで触ってるんだ。

「……よく分かりませんでした」

 若干残念そうに手を離した。

「いつか分かるといいな」

「はい」

 まだ未練がましく自分の髪を触っている。

「……あ。そろそろ私の方電車が来ます。また明日」

 一条が走り出した。やめろびしゃびしゃ俺の方に水が飛んでくるんだよ!

 追いかけるのも疲れるから、俺は立ち止まって手を振った。

「……また明日!」

 雨の日で声の通りが悪いから、無駄に張り上げることになってしまった。

 一条の背が遠ざかるのを見届けた後、俺は地面の方に視線を移した。

 俺は見事に濡れたズボンを前に、どう言い訳したもんかと考え始めた。

 ……異性の同級生に髪を触らせるという距離感はどうなんだろうとはっとしたのは、帰りの電車でだった。

 どうしよう、一条のせいで人との距離が狂った。

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