二十一話 関係
俺は、家に帰ると、まず一条の言っていた明日の映画の予約を済ませた。
次に、自室に向かいパソコンを使った。一条がおすすめしてきたフリーゲームとやらは、検索すればすぐにヒットした。早速ダウンロードする。
これはあとでやるとして……。
最後に俺は、スマホの動画を開いた。
椅子に腰かけ、ヘッドホンをつける。深呼吸を一つ。再生ボタンに手を伸ばし、目を閉じた。
最初に聞こえてきたのは、ざくざくと、歩く音。二人分だ。
「それでさっ!」
幼い少年の声。……六歳の俺の声だ。
喋り慣れていないのに、必死に語っている。
正直、当時の記憶はほとんどない。残っているのは、こうして父が回してくれた動画、視点が低いコンサート会場、朧げな音色と演奏者くらいだ。
他の動画データは、おびただしい量のバイオリンの音。ぎーぎー鳴る不快音が、徐々にそれらしい音に移り変わっていく動画。
中学に入ってからはボイスメモの方に録音している。
一日一回、必ず弾いているのは、パッヘルベルのカノン。バイオリン演奏として初めて聴いたのも、初めて演奏してみた曲も、人生で一番好きな曲も、カノン。
ああ、やっぱりこの曲は一人だけじゃ物足りないな。もちろん一人が弾いていたっていい曲ではあるのだけれど、俺の中のカノンは、大人数で弾かれたカノンなんだよな。
……こんなことをするのは、勇気を出すためだ。
言葉として感情をまとめる。そうしたら、一条に話してやるんだ。
そうしたいと思った。
引きずってボロボロになった感情を、クローゼットの奥にしまいこむみたいに、整理する。
あのとき、俺が嫌だったのは、自分に失望したところは、……。
当時を思い返しながら、俺はペンを持った。楽譜にあれこれ書き込むみたいに、記憶をベースに当時の心情の考察を加える。
こうして振り返ってみると、案外自分の感情の動きが分かりやすい。
「…………できた」
音楽を聴いていれば、苦行にも思える回想も華やかで幻想的な作業に感じる。
――不意に、不快な音がヘッドホンから流れ始めた。
……銀賞を取れた時期の音で塗り替えようとした。だけど、逃げるなと告げてくる俺がいるから、結局聴きとおした。
俺は、バイオリンの方に目をやった。
埃一つ被っていないケースは、昔と変わらぬ曲線を描き、昔と変わらぬ美しさでそこにいた。
……弾きたい。弾きたい。弾きたい。弾きたい。
――でも、怖い。今もスマホから流れてくる音色を聴くと、怖い。
もしも、またあんなことになったら、俺は今度こそ自分のことを大嫌いになってしまう。
だからもう、やらない。
俺は視線を手元の紙に戻した。
「…………すー…………はー…………」
ゆっくり間を取り、深呼吸をする。今書き上げたメモを、文頭から読み直す。一番最後、句点のところまで読み切ると、俺はそれを手の平サイズにまで折った。
なんでだろうな、緊張する。呼吸が震える。
明日。明日に、さらっとこの紙を読もう。それで終わりだ。
一条との付き合いが続くかは彼女次第だが、それはもうどうでもいいんだ。正直言って彼女との時間を失うのは惜しいが、それより一条に対してなにか報いたい。
それさえできれば、俺もやっと認めてやれるだろうか。払拭したい過去のことを、しっかりと。
俺は、高ぶる精神をなだめるために、ギターを手に取った。
翌日の、午後五時。約束通り一条の家に来た俺は、二人でテーブルに座るなり、真っ先に昨夜書いた紙を取り出した。
「……一条が知りたいのは、俺がバイオリンを辞めた理由、だったよな」
「……はい」
一条はいつもに増して背筋をすっと伸ばし、窮屈ささえ感じるくらい真っすぐ、俺の方を射抜いてきた。
なんとなく、深刻な雰囲気になった。
「…………まあ、楽しくもないだろうけど、」
まずは俺がバイオリンを知ったきっかけを、と話しかけて、止まった。喉の奥から言葉が出てこない。
なんでもないことのはずだ。なのに、なんでだ。なんで出てこないんだ?
紙に目を落とす。俺の字で、びっしりと埋まっている。
俺は、咄嗟に言葉が出てこないだけで、文章能力がないわけではないんだ。原稿さえあれば、普通に話せる。
口下手が原因じゃない。そもそも、一条相手ならあまり考えずに言葉を発せるのだ。
「……市川くん?」
一条が、首を傾げ俺を覗き込んできた。
……ああ、ピンときた。
この恐怖の感覚は、あれだ。バイオリンを見るたびに思う気持ちと似ている。
――失望されるのが、怖い。
自分に絶望したくない。失望されたくない。これ以上は嫌だ。
そういう、臆病な感情。
馬鹿じゃねえの、失望とか。
そう思うのに、思ってるはずなのに、声が出てこない。
「……これ、あ」
あげる、とも言えない。それは逃げだと叱責する声が、心臓のあたりから喉へ、飛びあがってくるのだ。
ちゃんと話せ。虚栄心なんか捨てろ。
一条に少しでも喜んでもらえるんなら、それでいいんだ。燃え尽きて灰になった感情なんか持ってたって意味ないだろ。
「…………や、ぱ、なんでもない」
ああ、言いやがった。臆病者が。
「そうですか」
一条は、平常通り返答した。
こうなっては、自分を責めたてようと意味がない。俺は頭を振って切り替えた。
「……ああ、そうだ」
一条が手を叩いた。
俺に気を遣っているとかではなく、単に今思い出したらしい。
「夏休み、どこか行きませんか?」
「気が早えよ」
まだ六月だぞ。期末試験も残ってるし、梅雨明けは来てないし。
だが、さっきのことがなかったかのように接してくれるのは、正直有難い。
ほっと息を吐き出せば、もう俺もいつも通り。
「そうですかね」
「……別にいいけど」
「どこ行きたいですか?」
「特には」
「美術館とかどうでしょうか。涼しいですよ、あそこ。……もっとも、知識がないとほんとに退屈ですが」
「せっかくなら夏らしいとこ行こうぜ」
しかも、なんで美術館。
「夏。海。花火大会。風鈴。スイカ割り。そうめん。かき氷。向日葵。七夕。あとなんでしょう」
「……お前、夏似合わねえな」
華やかで明るい夏は似合わない。逆に、いつかのとき一条が話していた、夏の夜はむしろ似合うかもしれない。
「悲しいですね」
全く悲しくなさそうに言って、
「市川くんは、似合いますね」
「……そうか?」
「はい。特に、風鈴なんかは」
風鈴はともかく、ひまわりとか絶対似合わないと思うんだが。
「……買うか? 風鈴」
アイスティーを飲んだ。
「いいと思いますよ」
「冗談だよ」
「えっ。買いましょう、風鈴」
「なんでそんなこだわるんだよ」
「風情が好きだからです」
「知ってる」
ひしひしと感じてるよ、毎日のくだらない雑談で。
「それで、どこ行きます?」
そうだった、そんな話をしていた。
「……水族館とか、お前、似合いそうだよな。一条も、賑やかな場所よりは静かな方が好きだろ?」
つい、先ほどの話に釣られてそんなことを言った。
「ありですね。涼しそうですし」
さっき美術館をあげたときもそう言ってたな。暑いの嫌いなのか?
「じゃ、夏休みが近くなったら具体的な日にち決めようぜ」
「……はい」
予想外に、嬉しそうな声音だった。
遅刻しました。申し訳ございません。




