十八話 自己理解
一条が帰ったあと玄関を見たら、透明なビニール傘が立てかけられていた。母に聞いたところ、一番最初に傘をお貸しいただきありがとうございましたって渡してきたわよ、と。
律儀な奴だと思った。
その次の日、俺は無事に体調が戻った。
登校してきた俺に、一条はいつもと変わらない声音で、おはようございます、と言った。
なんだかそれに嬉しくなって、挨拶を返したあと、誘った。
昼休み、久しぶりに中庭に行かないかと。梅雨の晴れ間くらいじゃないと、来る機会がなさそうだったので、せっかくだし、と考えたのだ。
そういうわけで、昼休み、俺と一条は中庭に来ていた。
「……体勢ムズ」
真ん中に大きな桜だかの木があるだけの場所だ。それを囲んだ木のベンチに背もたれはないし、かといって寝そべろうにも曲がってるから不安定。
なるほど、入学して数か月で人がいなくなるわけだ。ありえないほど不便。
「膝枕でもします?」
「なに言ってんの?」
「え?」
なんでちょっときょとんとしてんだよ。そこでありがとうと誘いになるとでも思ってたのか? 冗談じゃない。
一条はまだ弁当を食べている最中だし、別のところに移動するわけにはいかない。俺は諦めた。せめて足はと思い、靴を脱いでベンチの上で胡坐をかいた。
レモンティーの紙パックを飲みながら、ふと思い出した。
『なんで俺のこと知りたいの?』
『貴方が演奏している動画を見て、ヴァイオリンを心から愛されている方だと思ったのです。あと、その演奏している姿が綺麗だと思ったからです』
『……あ。いや、ちげえ。そうじゃなくて、……』
あのときどうして俺は、聞きたいこととズレてると感じたんだ?
あー、折角忘れていたのに、思い出してしまった。嫌に良い記憶力を恨めしく思う。
……いや、待て。もしかすると俺は、とんでもなく恥ずかしいことを聞いていたのか?
「……変なこと聞いていいか?」
「はい」
「お前が興味を持ってるのは、俺じゃなくてバイオリン、で合ってるか?」
「…………」
一条は考え込むように俯いた。しばらくそうしたあと、顔を上げた。
「答えることができません。というよりも、分かりません。なぜ市川くんがヴァイオリンを辞めたのか、ということに対する興味と、市川くん自身への興味を、私は切り分けられませんから、自分の気持ちがどちらにあたるものなのか、分からないのです。なによりも、多分、私は既に市川くん自身のことを知りたいと思っています」
……それは、うすうす感じてた。だけどあの時点ではそこまでじゃなかったはずだ。あるいは、俺がそれを読み取れていなかっただけかもしれないが。
少なくとも。俺は、一条が興味を持ってるのはバイオリンだと思っていた。
そのうえで、なぜ「俺」を知りたいのか、と問うたのは、自分の中で、バイオリンイコール俺と脳内変換していたんじゃないのか?
ああ、なんで、そんな傲慢なことを。
いや分かってる。それだけ、俺の世界でバイオリンは大きい存在だった。アイデンティティをそこに求めてしまうくらい。
……でも、いやだから?
あのとき俺が本当に聞きたかったのは――。
「……俺にも、興味、持ってるのか?」
そういう、愚かしくて恥ずかしい、不安からでた問いだったんじゃ、ないのか。
――仕方ない。悪いのは自分だ。
――その気持ちがちょっとわかって、心臓が跳ねた。
ほんのちょっと共感した相手に、少しでも俺の価値を肯定してほしかったのか?
俺はそんなに、弱かったのか?
「はい」
…………いや、そうじゃない。もっと単純なんだ。
あのとき、一条静乃の本質に触れた気がした。その本質が、俺にとって身に覚えがあるもので、心地よかった。だから俺は、一条に近づきたいと思ったし、知りたいと思った。
そして、一条はどうなのか、聞いておきたかった。
そういうことなら、もうなにも問題はない。一条は、ちゃんと俺と同じ気持ちでいる。
「一条」
「はい」
「……答えてくれて、ありがと」
俺は案外、こいつのことが好きなのかもしれない。
「いえ。……そうだ。今週末、家に来ませんか?」
「は?」
思わず一条の顔をガン見してしまった。人一人分スペースを取った先で、一条はしれっとしている。
「借りは返しておきたいタイプなので」
俺はようやく借りを返せたと思ったところなんだけど。
「……まあ、一条がそうしたいなら」
「ありがとうございます」
「……や、まあ。別に」
なんで俺は感謝されてるんだ?
一条はジャケットの胸ポケットからシャープペンを取り出すと、同じく胸ポケットから出てきたメモ帳にさらさらなにか書き込むと、ちぎって俺に渡してきた。
「住所です」
「ふうん」
メモを眺める。普通に綺麗な字なんだよな。
「今週末のいつ行けばいいの」
「市川くんの好きなタイミングで構いませんよ。ああ、土曜日か日曜日かは聞いておきたいものですが」
「じゃあ、土曜日の十一時ぐらいに行くわ」
スマホの地図で住所を検索してみたら、学校を挟んで真反対の方向だった。
遠い。電車で一時間ぐらいかかるんじゃねえか、これ。つまり、一条が学校に来るのにかかる時間は俺と同じくらいの、三十分。
「分かりました。お待ちしています」
「おお」
風が吹いた。春に比べて、随分温度が上がった。
ぐっと腕を伸ばした。
「……入学式から、もう二ヶ月か」
「まだ二ヶ月ですよ」
一条は俺が顔を合わせると、全く変わらないトーンで言った。
「まだ二ヶ月ですよ。私と市川くんが出会ってから」
「……そういや、そう、か」
そりゃまあ、入学式の日に出会ったわけだから、そうなるんだが。入学してから二ヶ月って聞くと長く感じるのに、一条と出会ってから二ヶ月って聞くと短く感じるのは、なんでだろうな。
「私、市川くんとやりたいこと、いっぱいあります。貴方は?」
「……俺は別になんでもいい」
「価値観の相違ですね」
ちょっと残念そうにした。……悪かったな。
「……あー。でも。一条といると、何回も行ってる場所が、新鮮に聞こえる。……俺の価値観を原曲としたら、それを一条の価値観にミックスとかアレンジとかされるみたいな」
「人と関わるうえでそれほど嬉しい言葉は中々ないと思いますよ、市川くん」
「そうか?」
「私は、その言葉がとても嬉しいです」
事実、一条はじんわり柔らかい雰囲気をしていた。
「……そういうもんか」
言葉を嬉しいと言われたこと、あったっけ。思ってることが上手く伝わらなくて、嫌そうな顔をされることしかなかったような。
……そっか、自分の思ってることを言葉で伝えるって、こういうことか。
やべ、嬉しい。
にやつく。
作詞してる人の気持ちが、ちょっとわかった、気がする。
……楽しいわ、これ。




