十七話 暖かな
「……一条はなんて?」
「授業ノートと連絡事項を市川くんに渡したいのですがって言ってたよ。……なに、貴方友達いたの?」
母はにやつきながら俺を見てきた。
俺はそれどころじゃない。一条が家に来ていることにとてつもなく動揺していたからだ。母の言葉を深く検討し、一条は友達に入るかどうかとか考えている余裕はなかった。
その結果、やりにくい母の目から逃れ、一文にすらなってない曖昧な回答を寄こす羽目になった。
「……いや」
「え、友達じゃないの? ってことは単なるクラスメート? わざわざ届けにきてくれるなんて、いい子じゃないの。荷物貰ってくるから、その間に会うかどうか決めときなさい」
「は」
反論を挟む暇もなく、話が進んでいってしまった。
一人残された部屋で、俺はまず、状況の整理をした。
一条がうちに来た。用件は、俺に授業ノートを渡して連絡事項を伝えるため。
……なぜ。
一条が俺にそこまでする理由もわからねえし、知らぬ間に住所を把握されていることに恐怖を感じるし……。
まあ、そこは担任か誰かに聞いたとしよう。
……なんで俺の家に来たんだ?
分からない。怖い。
少なからず、一条が俺自身に興味をいだいていることは、なんとなく分かってる。でも、だからって家に来るまでするものなのか?
家に俺への客人が訪れるなんて、一回もなかった。他人とそんなに仲良くなることなかったんだよな。
……無意識のうちに、家に誰かが来ることが、特別だと思ってたのか?
そうだ、友達が家に来るのはさほど特別なことじゃないはずだ。同級生はしょっちゅう家に行っていいとか話していたし、高校に上がるまで友達を家に呼んだことがなかった俺が少数派なんだ。多分。
一条にとっては軽いことなんだろうな。
なんだ、そういうことか。怖がる必要はなかった。
……いや待て。俺は一条にとって友達なのか? 流石に単なるクラスメートの家に行くことはないよな?
駄目だ、これは駄目だ。考えるだけ無駄なやつだ。俺にとって一条は一条だし、一条にとって俺は俺だ。以上。
……それで、一条に会うか会わないか、だったよな。
本音を言えば、会いたくない。さっきまでの不調はまだ残ってるし、悪夢のせいで微妙に頭が切り替わっていない気がする。
だけど、家に来てもらうまでして顔も見せないってのは、ないだろ。
……ただ、もし風邪を移したらなあ……。気持ちの問題として、あんなに恰好つけたくせして風邪引いたのがシンプルに恥ずいってのもある。
「あー……」
決めた。
俺は、母が机に残していったマスクを手に取った。
汗で一度濡れた服だったことに気づいて、目についた服に着替えた。
リビングに向かうと、母と一条がテーブルに座り談笑していた。
「……あ、来た。それじゃよろしくね、静乃ちゃん」
「はい」
一条に手を振ったあと、母はリビングを立ち去った。これから自室で仕事だろうな。
「……おはよ」
ひとまず、口火を切った。一条の向かい側――さきほどまで母が座っていた位置に腰を下ろす。
「おはようございます。……不調が顔に出ませんね」
一条が、気持ちいつもよりびっくりしてる。
いや、一条こそ顔に出ないだろ。
「あー……。それより、寝て熱下がってきたから」
まあ、元々顔に出ないのもあると思うが。
「そうなのですか」
「……なんで俺の住所分かったかだけ聞いていいか?」
「先生に聞きました」
ああ、やっぱりそうだよな。安心した。
息を吐きだした。やっぱりまだ不調が抜けきってないな。
一条は俺が黙ったと知ると、足元の紙袋からクリアファイルを取り出した。
「今日配られたプリントです。連絡事項や明日の持ち物についてもメモして挟んであります」
クリアファイルから抜き出し、俺の前に滑らせた。一条はプリントが重なっているのをそっとどかした。
「こっちは、私が勝手にまとめた授業ノートです。左上の空白に教科を書いています」
ごく普通のルーズリーフに、機械で打ったように整った字が並んでいる。改行やスペースの使い方も一般的で、読みやすく分かりやすい、お手本のようなノートだ。
授業中のノートが嘘みたいである。
「……お前って、こんな字綺麗だったっけ」
つい零れた。やべ、失礼なこと言った。
「普段は先生の話などの授業に関係ないことを書きこんだり、焦って字が汚くなったりするのです。一応小さい頃は習字を習っていましたよ」
「……へえ。……ごめん」
「いえ」
沈黙。一条は俺をじっと見つめてくる。特になにか期待しているわけではなく、単に見たいだけらしい。
そうか、こいつはぼーっとしてるとき人の顔を見るのか……。
「プリントとか、ありがとな」
「……いえ」
なにか言いたげな風に口をほんの少し動かした。訝し気にする俺の顔に気づくと、諦めたように小さく息を吐き出した。
「……ありがとうございます」
さっきと話が繋がってない。ますます意味が分からなくなって、思わず眉をひそめた。
「……傘の件」
ああ、そのことか。
「俺が、傘を買いたくて買っただけだ」
「ですが、市川くんが傘に入れてくれたおかげで私は雨に濡れずに済み、市川くんは風邪を引いてしまいました」
一条は、俺を真剣に見据えた。俺は視線をそっと下に逃がした。一条の目に見られると、どうもうまく目を合わせられない。
油断していると、自分の弱いとこ全部見透かされそうだ。
「たまたまだろ。風邪引いたってのも、どうせ俺は傘を忘れたんだから、濡れてた」
恥ずかしいから、風邪のことは掘り返さないでくれ。
「……多分、市川くんならそう言ってくれるだろうと、私は予測していました。ですが、どうか感謝されてください。何度だってお礼を言いたいくらいなんですから」
予想していたよりも柔らかい声がしたので、顔を上げた。
困ったように崩れた笑いに、俺は少しの間、言葉を失った。
「……市川くん?」
呼びかけられて、俺は頷いた。
「……あー。分かった。……受けと、っとく」
……案外、一条も分かりやすい、かもしれない。暖かな表情をしていた。
すごく心地よく、心臓が跳ねた。




