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十六話 代償

 その日の夜ご飯は味がしなかった。妙に億劫で食べ残した。嫌な予感がした。

 当たった。

 翌朝の体温38度。

 ベッドの上で体温計の値を見たときの絶望と言ったら。

 大丈夫だろとかいって普通に風邪ひいたってダサすぎだろ。

 頭は痛いし関節は痛むし体は熱がこもってるのに鳥肌立ってるし……。

 俺は再びベッドに寝転がった。

 体重てえ……。

 スマホで母にメールを送った。

 足音が聞こえてきたかと思うと、扉が無遠慮に開かれた。そちらの方を見やる。

「……症状は」

「頭痛と怠さと熱と鼻水と鼻声とその他もろもろです」

「分かった。食欲は?」

「ないっす」

「じゃあゼリー持ってくるから、それだけ食べて薬飲んで寝てなさい。あと気力があるなら着替えて」

「はい」

 我ながら声が風邪ひいてるなと思った。

 母は、何度も一人で平気か確認した後、家を出ていった。

 一応、午後二時には帰ってきてくれるらしい。高校生にもなったのに過保護じゃないか、とは思うが、自分を客観視すると強く言えない。

 母の言いつけを守って、しっかり着替えはすませた。

 家に誰もいない。

 がらんとした部屋の中、天井をぼんやり眺める。静かでつまらないし、やることもない。

 ぼーっとする頭で、今更ながら自分の愚かしさに悶えたくなってくる。

 俺は馬鹿か。

 頭痛が酷くなってきた。

 一人の部屋で何か起こるはずもないので、俺は大人しく目を閉じた。

 体の熱の気持ち悪さこそあるものの、元来寝つきはいい方だ。

 特に苦労することなく、俺は眠りに落ちた。

 意識がなくなる前、回らない頭で悪夢だけは見ないといいなと考えた気がする。




 誰かがバイオリンを弾いている。姿はぼやけてはっきりしない。

 天井から白い光が降り注いでいた。

 地面にぱっと落とされた影。床は上質な木だ。暖かみのある茶色。

 人物の顔もシルエットも明瞭でないのに、バイオリンと音だけはくっきり分かる。

 艶のあるボディがキラキラと光を反射する。音を奏でるたび、弦が揺れる。

 弓が弦を撫でる。かと思えば、生き生きとバイオリンの上で踊り始めた。

 優美だ。華やかだ。軽やかで上品で、耳馴染みがいい。

 ずっと聴いていたい。聴いていると視界が澄み渡っていくようだ。

 ふと、古びた記憶につながった。

 そうだ。これは俺が初めてバイオリンを聴いたときの演奏だ。景色といえば、小さい頃の朧げな視野くらいのものだから、舞台上の女性が酷く遠くに、上に見える。

 気がつけば俺は、舞台袖に居た。

 急な場面転換。連想ゲームみたいな唐突さに、夢だと悟った。

 悟ったのに、出番前の不安と恐怖が入り混じった気持ちが押し寄せてくる。

 緊張で、心臓がバクバクバクバク、うるさい。

 頭がふわっと白くなってきて、足の感覚が薄れていく。身体中が不安でまみれていく。

 一音。

 そのとき舞台上で響いた一音だけで、俺は心臓が止まった。いや、実際に止まるわけはないのだが、あのとき確かに、一瞬自分の心臓の鼓動が聞こえなくなったから、実は本当に止まったのではないか、と今でも錯覚している。

 固まっている俺をよそに、そいつの演奏は始まった。

 課題曲の楽譜を、正確に鮮やかに踏み抜いていく。

 バイオリンという楽器の魅力を凝縮したみたいだ。

 だから、聴いていてなめらかに耳に入ってくるのに、音楽の世界に引きずりこまれるような強さも感じる。

 ひたすらに、心地よかった。

 その瞬間、ギィーと、不協和音が鳴った。

 音程がズレてる。

 ……ああ。

 俺の音だ。

 これは、代償だ。バイオリンを侮辱した、貶めた、代償なのだ。

 焦ってどんどん楽譜から外れていく。

 もう聴きたくない!

 幼い頃の俺が叫んで、ぶつりと音がなくなった。あたりは暗闇だ。もがいてももがいてもなにもない。自分の感覚すらまともに感じ取れなくなって、それで――。

 飛び起きた。

 部屋全体を見渡した。

 ああもう、耳に不快音が染みついてる。

「はああ……」

 ため息を吐き出した。

 部屋着は汗でびっしょりしている。気持ち悪い。だが、寝たおかげで随分熱が引いたようだ。体は軽いし、頭痛もマシだ。

 俺はベッドから降りて、まずは着替えた。

 それから枕元に置いておいたスマホを起動する。もうお昼だ。大分寝たな。

 自室を出た。

 足が汗でまみれてるせいで、床がべったべだだ。くそ、気持ち悪い。

 仕方がないので、近くのティッシュで足の汗を拭き取ると、リビングに向かう。辿り着いてキッチンに歩こうとする途中で、テーブルになにか手紙が置いてあるのに気がついた。

 拾い上げてみる。

「お昼について。冷蔵庫に昨日残した夜ご飯があるから、食欲あるなら解凍して食べなさい。まだ食欲ないなら、果物剝いたから、好きなの食べて……」

 母の筆跡だ。

 ありがたく食べさせてもらおう。

 キッチンの電子レンジで、皿を温める。

 異音が出る。この変な音、案外耳に馴染むから俺は嫌いじゃない。

 カチンと音が鳴る。開けて暖まってるか確認する。うん、食べれるだろ。

 椅子に座って、両手を合わせる。

「いただきます」

 箸を握る。

「……美味しい」

 風邪引いて悪夢を見た身に暖かい料理が沁みる。

 十分で完食。洗い物を済ませ、また自分の部屋に戻った。

 もう一度寝る気分にはなれないし、どうするか。この耳で音楽聴くのは嫌だし、かといって活字読む気力はない。

 スタンドに立てられたギターが目に入った。

 棚からチューナーを取り出す。

 ギターを手に取った。

 勉強机の前にある椅子を回し、座る。

 チューナーをギターにつけて、チューニング。

 毎回思うが、フレットの分かりやすさは凄い。バイオリンは目印がなく、正確な音程を指で覚える必要があるから。初めてギターを触ったときは感動した。

 左手で弦を抑える。右手で弦を弾く。

 ぼんやりしながら適当に弾いていると、耳の奥で反響していた不快音がとけていくみたいだ。

 そうして、気持ちの赴くまま動かすと、先ほどまで落ち着きなく波立っていた心が、ゆっくり整っていった。

 ほっと息を吐きだした。

 スマホの音量を上げ、メトロノームに合わせて音を奏でる。

 気づけば体調不良とか悪夢とか、そんなことを忘れて没頭していた。

 ガチャリ、と部屋の扉を開けられ、母が帰ってきていたことに初めて気がついた。

 部屋が防音なせいで、扉の音だったり母の声だったりが聞こえなかったのだ。

「ただいま。体調どう?」

 母は着替えを済ませた様子だった。

「……おかえり。大分マシ。ちょっと頭痛残ってるのと、喉が変なのと、鼻水があるってだけ」

「ふうん。お昼は? 食べた?」

「ああ、食べた。……美味かった」

 ふと気になって、壁時計に目を向けた。学校は授業中か。教科、なんだっけ。

「そう。リビングにいるから、なんかあったらスマホで呼びなさい」

「おお」

 まあいいや。

 ぱたんと扉が閉じる。

 普段、滅多にドア開けないのに、珍しい。

 ……そう思った数時間後、再び俺の部屋の扉を開けて(ノックしても防音で気づかないので)、母は衝撃的なことを口にした。

「一条静乃って子が来てるけど。どうする?」

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