十五話 雨傘
定期テストも終わり、六月に入って気候がじめじめしてきた。
汗が鬱陶しくなる時期である。それに雨が多く、教室内もどこか憂鬱として感じる。
最も、その不快感すら楽しめるやつがクラス内には数人いるらしいが。一条とかな。風情だとかなんだとか、ある意味無敵だと思う。
そんなある日、大雨が降った。放課後になって急にの話だった。
雨傘を持っていない人が慌てふためき、焦る中、俺は余裕の面持ちでいた。
楽器を扱っている都合上、湿度や温度には常に注意を払っている。なんとなく雨が降るかどうか、予測できなくもない肌感覚を持ってるんだ。
持ってきておいて損がないから、そういうときは絶対に折り傘を持ってくるようにしている。
俺は悠然と鞄を机の上に広げ、ファスターを開けると、固まった。
ない。
現実逃避のために、とりあえず今日使う分の勉強道具を詰め込む。
なんでないんだと原因を探るうち、一つの記憶に思い当たった。
時間ギリギリまで楽器を弄っていて、出るとき大慌てで準備したんだ。昨日の時点では分からなかったから、今日の朝になって用意しようと思い立ったのである。
先ほどまでと違って、絶望した心地で窓を見る。勢いは増すばかりで、削がれる気配がない。スマホの天気予報でも、しばらく雨は続くとある。
いくら湿度が高く暑いから風邪ひかないとしても、駅前まで行く手段がない。レインコートもなしにそこまで走って服がずぶぬれにならないで済むはずがない。そのまま電車に乗るなんて迷惑になるから、駅前で服が乾くのを待つか、服を着替えなきゃならなくなる。
そんなの不可能だ。
教室内はもう人がいない。確か、体育館使用日の外部活と文化系の部活は通常通りあったし、同好会は各々の判断で活動をしてもいいことになってる。だから、最悪その人たちの誰かから傘を借りて、コンビニにでも傘を買いに行けばいいんだが。
そんなの無理だろ。嫌だろ。
くそ、なんでこういうときに黒井はいないんだ。俺の唯一の知り合いだったのに。いやまあ、さっきまで終わったーと頭を抱えていたんだが。
「どうされましたか?」
いよいよ詰みかもしれないと思考停止しかけたところで、声がかかる。
顔を上げた。一条だった。
手に折り畳み傘を持っている!
一条なら同じ電車通学のはずだし、駅前まで一緒に行かせてもらえる!
頼もうと口にしかけたとき、一条がカバーを外した。ボロボロだった。傘の布は泥を被ったらしき跡があるし、穴が開いている。傘の骨組みも折れてると一目でわかる。
絶望だ。なんだこれ。
「どうやら、捨てる用のものを持ってきてしまったようです」
「……なにをどうしたらそうなるんだ」
「中学の頃、どうも私がやらかしまして、怒った女の子が川に投げ捨てたのを拾ってきたのですが、この有様で」
「……すげー一条が酷いことを言ったか、すげーその子が短気だったかだな」
「十割私のせいですね」
「そう」
一条がそう言うってことは、一条が悪いんだろうな。
「というわけで、この傘は差したところで雨入り放題です。……市川くんも、忘れました?」
「……ああ」
「困りましたね」
「……まあ、昇降口行くか」
「はい」
二人で昇降口に行った。階段を下っている最中も、雨音が良く響いてきた。
ザーザー、ドアに雨が叩く。ものすごい音だ。
一条は、一応と靴を履いた。運動靴ならまだしも、ローファーだ。
「女子って体育校庭じゃねえよな」
「はい」
男子は校庭だから、俺は運動靴持ってるんだよな。
一条は鞄に壊れた折り畳み傘をしまった。
水たまりができ始めている外の景色を見て、俺は覚悟を決めた。
「一条、ちょっと待ってろ」
運動靴に履き替え、昇降口を飛び出した。気休め程度でも鞄を使うと、中の教科書類が濡れる。だから手ぶらだ。
全速力だ。四月にあった体力テストなんかより余程本気で走った。
目指すは近くのコンビニだ。
制服は一瞬で水を吸って、暑いわ冷たいわ重いわで最悪だった。
冬の雨じゃないとはいえ、流石に体が冷えてきた。
ワイシャツが体に張り付いてきて気持ち悪い。
つか、風が強い!
目が痛い。
髪もびっしょびっしょになったが、着いた。
まさかずぶ濡れで店内に入るわけにいかないので、屋根のある店の外に店員を呼んで、その場で会計を済ませてもらった。
「風邪にお気をつけて」
「ありがとうございます」
透明なビニール傘を差した。帰りも走って戻る。
昇降口に着くと、困惑顔の一条がいた。
俺の差しているビニール傘に気がつくと、
「あの、その傘をお借りしても? 傘を買いに行きたいので」
「いや、いい。これ使おうぜ」
俺は自分の分だけ買いに行くような薄情者じゃない。
二本買うと、一条は必ず一本分のお金を払おうとするはずだ。だが、一本だけ買ったら、これは自分用だからと支払いを断れる。一条が払わなくてはならない必然性がなくなるのだ。
そしてこいつは、相合傘を嫌がるメンタルをしていない。
一条は理解不能なものを見る目で俺を眺めてくるが、全く気にならない。
一条が俺の服で濡れないよう距離を離して傘一本を使うとなると、俺がわりと濡れるわけだが、今更濡れたところで変わらない!
周りの音は雨のせいで何も聞こえない。
完璧だ。
できるだけ素早く駅前まで移動すると、俺は傘を閉じた。
「……あの、肩、濡れていますよね」
「誤差だろ」
「……というよりも、全身びしょびしょですよね」
「まあ、大丈夫だろ」
「……あの、お体をどうかご自愛くださいね」
「ああ。あ、お前電車降りてから家まで何分?」
「十分程度ですかね」
「じゃ、これもってけ」
ビニール傘を渡した。
「え」
「俺もう使わねえから、やるよ」
「……」
一条はぴったり九十度の角度でお辞儀をした。
「ありがとうございます。何から何まで。……身長のせいで、持ってもらうことまで頼ってしまって」
「別にいい。……じゃ」
「はい」
そうして、俺は一条と別れた。
……先程から、身体が嫌な感じに冷え始めている。
だが、まだ帰れない。こんな状態で電車には乗れない。
俺は考えると、まずジャケットを脱いだ。
「うわ軽っ」
一気に体が軽くなった。つくづく水って重いんだな。
それから手で髪の水を払う。
人の邪魔にならないように、屋根になってる端の端でやっている。
スマホを取り出し、母に電話をかけた。
「なあ、母さん。駅前にお迎え来れない?」
『はあ? なに、ずぶぬれになったの?』
流石に察しがよろしい。
「……はい。仕事忙しいことも、高校生になってまで失敗を助けてもらうのはすげーはずいことも分かってます」
ふーって息が漏れる音が聞こえた。……怖い。
母さん叱るときはすげー怖いんだよなあ……。理詰めの正論かましてくるから、不満の持ちようがないんだ。自分の失敗したポイントとか、痛いくらい客観視させられるんだよ。
『別にいいけど、そうなったわけは聞くからね。濡れてないタオルとかない?』
「ない」
『じゃあ、少しでもあったまっときなさい。すぐ行くから』
「……本当に、ありがとうございます」
『ん』
切れた。
あー、帰ってからが怖い。
一時間以上待って、車が止まった。
急いで助手席に乗り込んだ。
「うーわ、びっしょびっしょ。これで一時間いたの? 絶対風邪ひくじゃない。そこにタオルあるでしょ、一通り拭きなさい。あと、靴と靴下は脱ぎなさい。……ローファーじゃないのね。お父さんが持ってる本革とかならまだしも、通学用のならローファーの方が撥水性能あったりするわよ。あとで合成かどうか調べておきなさい。替えの靴下も持ってきたから、履き替えておいて。あ、それカイロ。少しでも体あっためなさい」
準備がいい。
「……本当、ありがとうございます」
「そうそう、なんで濡れてるの?」
「……えーっと……」
一条は、なんだ? 友達、同級生、知り合い、クラスメート……。
「昼休み一緒に弁当食べてるやつも傘忘れてさ、ビニール傘買いにコンビニ行ったんだよ」
「学校で借りられなかったの?」
「あ? いや、そんな知り合いいねえよ」
「あー、そっちじゃなくて。職員室とかで、学校から貸し出しなかった?」
「……あ? ……あ!」
「なに、気づいてなかったの?」
あっはっはと爆笑された。
「普段は頭回るのに、相当焦ってたんだねえ!」
「…………」
はず。
「まあ、帰ったらすぐお風呂入りなさいよ。湯船も沸かして出たから」
「……ありがとう」
「……ふ」
もう一回ツボに入りやがった。
俺は悔しさと恥ずかしさで唇を噛みしめた。
目の前はほとんど真っ白だった。
車内では、母の笑い声がずっと響いていた。




