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十話 いつか

三十分遅れました。もしお待ちくださっていた方がいましたら、大変申し訳ございません。

 俺は答えに詰まり、咄嗟に下へと視線を逃がした。

「……」

 一条の目がこちらを見ている感覚がある。

 自分の心を見透かされそうに思って、心臓がバクバクした。じんわりと手に汗がにじむ。きつく拳をにぎりしめていたらしい。

 一条はただ、俺の言葉を待っている。

「…………」

 喉の奥がつっかえたみたいに声が出ない。いつの間にか、顔は明確に下がっていた。

「……今、お時間いただけますか?」

 一条が助け舟を出してくれるまで、結局俺は一言も話せなかった。

「……おお」

 ごめんというのもなんだか違うし、かといってありがとうと言うのも余計に感じて、俺はそう端的に返した。

「市川くんは、どこ回っていました?」

 制服の鞄を右手で握ったまま、彼女は歩き始めた。

「……楽器店だけ」

 俺はその隣に並んで、そっと彼女の横顔を窺い見た。

 やっぱり無表情だ。かかり気味の前髪が邪魔して、目もうまく見れないし、今一条がなにを考えているのか、俺には全く分からない。

 でも、いつもより、俺と少し距離がある気がした。

「なにを見ていらしたのですか?」

「……別に。なんか見ようとしてみてたわけじゃなかった」

 俺はこういうとき、人並み以上に口の回らない自分を恨めしく思う。語彙自体は頭の中にあるのに、人と話すとなるとなぜかうまくいかない。

「……私」

 一条は淡々と歩いているが、ほんのちょっと、頭の角度を下げた。

「なにかしてしまいましたか?」

「いや」

 即答した。すると一条は顔を上げ、俺の目をまっすぐ見つめた。

「そうですか」

「おお」

 会話が途切れた。かつんかつんとローファーが鳴り続ける。

 どの店にも向かうつもりはなく、単にうろついてみてるだけらしい。

 するする人の間を抜け、一条は店の前で止まっては、ぽつんと感想をこぼす。ちらりと見ただけで通り過ぎるかと思えば、まじまじと店内を眺める。

 セラミックタイルがつやつやと輝く床を、ゆらりと水面がゆらめくみたいに渡っていく。

 一人でできることだ。

 なのに、なんで俺を誘ったんだ。

「市川くん」

「なに」

 すたりとローファーを止めた一条は、気づけば上がっていた俺の顔を再び下げさせるように、覗き込んだ。どこかしら重大な秘密を打ち明けるような真剣さと、とっておきを自慢するような自信のある声音とがまじりあった声で、

「私は、夏が好きです」

「……は?」

 予想外の言葉に固まった俺をよそに、一条は出会ったときにしたような、あの、熱に満ちた目を見せた。

「真っ青な広い大空を見上げるのも好きですが、道端に咲いたたんぽぽなんかを、しゃがみこんでそっと触ってみるのも好きなのです」

 俺の住んでいる辺りにはどちらもないが、母方の実家に祖父に会いに行ったとき、祖父とぼんやり眺めていた記憶がある。

 祖父は植物に詳しくて、花を見つけるとあれこれ話してくれていた。

 ……今度母が実家に帰るときは、着いていこうかな。

「暑くて冷房をつけ、家で涼んでいるのも好きですし、汗をかいて冷えたお水を飲むのも好きです」

「……はあ」

「……ですから、夏が来るのを楽しみにしています」

「……まだ五月だけどな」

「もう五月です」

「……そうか」

 微苦笑を浮かべたい気持ちで相槌を打った。

 ちなみに冬も春も秋も好きですよ、と補足してきた。

「……市川くんは? どんな夏が好きですか?」

 よく分からんが、一条がキラついた目で話しかけてくるので、俺は真面目に考えた。夏の風物詩を比べ、検討して、答えを出す。

「……涼しい夜が好きだ」

「夏の夜は熱っぽい切なさがありますよね」

「熱っぽい切なさ?」

「はい」

 一条は大きく頷いた。

「冬の夜は、孤独に体中がゆっくり冷え込んでいくみたいな切なさに感じます。淋しいが近いような。ですが夏の夜は、いろんな感情ががっと押し寄せてきて、涙腺がぐしゃぐしゃに緩んで、泣き出してしまいそうな切なさがあるように思います」

「ふうん」

 拳はもう開かれていた。

「……ところで、お前さ、なんで制服なの?」

「服を選ぶセンスが壊滅的にないからです」

「……たとえば、お前が今日着る服を自由に買えるとしたら、どう合わせるの?」

「………………なにを、合わせるんでしょうね?」

「いやこっちが聞いてんだよ」

 熟考して、はっと閃いたように放つ言葉がそれか。センスがないどころの話じゃないだろ。

「では、市川くんに私の服選びを頼んでも構いませんか? 運よくここは駅ビルです」

「……俺でいいなら」

 レディース物の服屋がある方向へ踵を返す。一条は進むのが早い。ローファーがすぐに前へ前へと出ていく。

 それに引っ張られて、俺のスニーカーの紐は軽快に跳ねていた。

「……少し、安心しました」

 不意に、一条がそう零した。

「……」

 そういえば、一条との距離はもう平常通りだ。

 俺は数秒立ち止まったあと、ゆったり歩く一条の背に言葉を返した。

「聞きたいなら、いいよ」

 一条が背を向けたまま両足をそろえた。

 なんでこんなに必死なんだと思うくらい、頭を働かせて的確な表現を探した。

「……大した話じゃ、ねえけどさ」

 声が震えた。

「……」

「……いつか、弱い自分を人に晒せるようになったら、真っ先に話すよ」

 俺が一条の問いに答えられなかったのは、関係性とかいろいろ要因はあるのだろうが、結局は自分の弱みを人に見せるのが怖かっただけだ。

 俺は、それこそが俺の弱さだと思う。

「…………そうですか」

 一条はほんのわずかに笑みを浮かべて、歩き始めた。

 俺はそのあとを追った。

 服屋を目指す道すがら、考える。

 俺は俺の選択を間違いなんて思ったことはない。バイオリンはやめておいてよかったと感じるし、あのときやめてなかったら、俺は今も自分のことを大嫌いだと思ってたはずだ。

 でも、俺はまだあのときのことを引きずってる。

 ……俺は弱い。一度そう痛感したときの記憶がこびりついてるんだ。

 それも全部ひっくるめて、自分は自分だと認めることができたら、俺はきっと前を向ける。

 それはそうとして。

 制服姿の背を眺める。

 ……今は、こいつの服を選ぶことに頭を使った方がよさそうだ。

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