番外編 憧憬のアルカディア・脳を焼かれた新人とお馴染みの英雄
パリィィィンッ!
硬質な音と共に、オークの巨体が光の粒子となって崩れ落ちる。
後に残ったのは、拳大の紫色の結晶――魔石だけだ。
「……よし。これで本日18個目」
俺、ケンタは、E級ダンジョン「風鳴りの渓谷」の岩場で、ドロップした魔石を拾い上げた。
ずっしりとした重み。
この石ころ一つが10万円。
今、俺の手の中にある18個の石だけで、180万円の価値がある。
「はは……笑いが止まらねえな」
俺は魔石を腰のポーチに放り込み、愛用している「三菱重工製・量産型探索者スーツ(ローン残高800万)」のバイザーを上げた。
ひんやりとしたダンジョンの空気が、火照った頬に心地いい。
24歳。元システムエンジニア。
毎日終電まで働いて、手取り20万そこそこだった俺の人生は、探索者になって劇変した。
満員電車の代わりにポータルゲートをくぐる。
理不尽な上司の代わりにオークを殴る。
それだけで日給180万円、年収換算で4億円オーバー。
俺は「勝ち組」になったのだ。
もちろん装備には、1000万円近い借金を背負った。
だが、このペースなら一週間で返せる。
その後は溢れ出る金でタワマンを買い、高級車を乗り回し、港区の女たちを侍らす――そんな未来が約束されている。
「おーい、ケンタ。そろそろ休憩にしないか? 集中力が切れると危ないぞ」
パーティリーダーの先輩が声をかけてくる。
俺は少しだけ鼻を鳴らして答えた。
「大丈夫ですよ、リーダー。俺、まだ全然いけますから。
今の俺たちなら、D級だって通用するんじゃないですか?」
「馬鹿野郎、調子に乗るな。ダンジョンで死ぬのは、いつだって『慣れた頃』の奴だぞ」
リーダーの説教を聞き流しながら、俺は次の獲物を探して視線を巡らせた。
慎重すぎるんだよ、おっさんたちは。
俺たちは「新人類」だ。
ステータスという神の力を得た、選ばれた存在なんだ。
そう。
この時の俺は、本気でそう思っていた。
自分が世界の主人公になったのだと、勘違いしていたのだ。
――その「勘違い」が、物理的に粉砕されるとも知らずに。
◇
異変は唐突に起きた。
風の音が止んだのだ。
「……なんだ?」
渓谷特有の吹き荒れる風がピタリと止まり、代わりに耳鳴りのようなキーンという音が鼓膜を突き刺す。
空気が重い。
肌にまとわりつくような不快な湿り気。
本能が警鐘を鳴らす。
「総員警戒! 何かがおかしい!」
リーダーの怒声が響くのと同時だった。
俺たちの目の前――空間そのものが、ガラスのように「ひび割れた」。
パキパキパキパキッ!
黒い亀裂が走る。
そこから溢れ出してきたのは、この「風鳴りの渓谷」にいるはずのない異形の怪物たちだった。
不定形の身体。空間を食い破る鋭い牙。
まるで深海魚と亡霊を混ぜ合わせたような、生理的嫌悪感を催す姿。
「じ、次元喰らい(ディメンション・イーター)……!?
馬鹿な、ここはE級だぞ!?
B級相当のモンスターが出るなんて聞いてない!」
リーダーの悲鳴に近い声。
だが、絶望はそれだけではなかった。
亀裂から這い出てきたのは、一匹や二匹ではない。
ズズズ……ズズズズ……。
十二、十三、十……。
黒い雪崩のように、おぞましい群れが溢れ出してくる。
スタンピード(暴走)。
それも高ランクモンスターによる局地的な大災害だ。
「逃げろッ!! 戦うな、逃げるんだ!!」
誰かの叫び声で、俺の身体は弾かれたように動いた。
戦う? 無理だ。
一目見ただけで分かる。
あいつらの一匹一匹が、俺たちが必死に倒しているオークよりも遥かに「格上」だ。
それが群れを成している。
死だ。
触れれば死ぬ。
「うわあああああああッ!?」
殿を務めようとしたタンクの男性が、次元喰らいの触手に薙ぎ払われた。
ゴガァッ!
鈍い音が響き、100万円の重装鎧が紙屑のようにひしゃげる。
「ガハッ……!」
即死は免れたようだが、一撃で戦闘不能。
三菱製の最新装甲が、まるで役に立っていない。
「クソッ、ポータルだ! 全員、ポータルで脱出しろ!」
俺は震える手で腰のポーチを探った。
『帰還の巻物』。
これさえあれば、一瞬で地上のゲート前まで転移できる。
命綱。
絶対に助かる切り札。
俺は巻物を引き抜き、魔力を込めた。
「起動! 起動しろッ!」
巻物が青白く発光する。
助かった。
そう安堵した瞬間――光はプツンと途切れ、巻物は黒く炭化して崩れ去った。
『エラー:空間干渉を確認。転移座標を特定できません』
無機質なシステムログが視界の端に浮かび上がる。
「は……?」
俺は呆然と手の中の灰を見つめた。
不発?
そんな馬鹿な。政府支給の純正品だぞ。
「駄目だ! 空間固定だ!
奴ら、空間を食い荒らして転移を封じてやがる!」
リーダーの絶望的な声が現実を突きつける。
退路は断たれた。
前には数十匹の死神の群れ。
後ろは切り立った崖。
終わった。
俺の人生、ここで終わりか?
日給180万の夢も、タワマンも、何もかも。
まだローンも返してないのに。
親に仕送りもしてないのに。
こんな薄暗い渓谷の底で、得体の知れない化け物の餌になって――。
「いやだ……死にたくない……!」
俺は腰を抜かし、後ずさる。
次元喰らいの群れが獲物を追い詰めるように、じりじりと包囲網を狭めてくる。
そのねっとりとした視線が、俺たちを舐め回す。
――その時だった。
遥か頭上。
渓谷の切り立った崖の上から、とてつもない「圧」が降ってきたのは。
ヒュオオオオオオオオオオオオッ――!!
風切り音ではない。
大質量の物体が空気を引き裂いて、落下してくる音だ。
「え?」
俺が見上げた瞬間。
ドォォォォォォォォォォォォンッ!!
地面が爆発したかのような轟音が響き渡り、大量の土煙が舞い上がった。
小型の隕石でも落ちたのかと思うほどの衝撃に、俺たちの包囲していた次元喰らいの群れさえも、驚いたように動きを止める。
土煙が晴れていく。
そこに立っていたのは人間だった。
いや、あれを人間と呼んでいいのか?
一人は「鋼鉄の要塞」。
全身を、光さえ吸い込むような漆黒のフルプレートアーマーで覆った大男。
身長は2メートルを超えているだろうか。
その手には人の身の丈ほどもある、分厚い鉄塊のような「大剣」が握られている。
顔はフルフェイスの兜に完全に覆われており、表情は窺えない。
ただスリットの奥から放たれる眼光だけが、赤く鋭く輝いていた。
もう一人は「冷徹な魔女」。
鋼鉄の男の背後に静かに着地した、ローブ姿の女性。
息を呑むほどの美貌を持っているが、その瞳は氷のように冷たい。
手には豪奢な杖を持ち、周囲の空間に無数の魔法陣を展開している。
「……14時30分。座標E-4。次元断層の発生を確認」
フルフェイスの男が、くぐもった、しかし重厚な声で呟く。
「マスターの予言通りだな。1分の狂いもねえ。……さすがだ」
「ええ。あの人の『SSS級鑑定』に見えない未来はないわ」
女性が淡々と答える。
二人は、俺たちの方など見ていなかった。
彼らの視線は、目の前の絶望的な怪物――次元喰らいの群れだけに向けられている。
「おい、お前ら……ここは危ないぞ……」
俺は震える声で警告しようとした。
いくら装備が凄くても、相手はB級相当の群れだ。
二人だけで勝てる相手じゃない。
だが、鋼鉄の男は兜越しに俺を一瞥し、軽く手を振っただけだった。
「下がってな、新人。
こいつは俺たちの『仕事』だ」
男が一歩踏み出す。
その瞬間、背後の女性が指をパチンと鳴らした。
「――状況開始。
バフ展開。『ハイ・ストレングス』『ヘイスト』『リミットブレイク・ランク4』。
対象前衛。リミッター解除」
ブォンッ!
男の全身が赤熱したオーラに包まれる。
圧倒的な魔力の奔流。
俺が着ている量産スーツの魔力計が、測定不能のエラーを吐いてショートした。
「そんな……」
次の瞬間、俺は信じられない光景を目撃する。
鋼鉄の男は、あの鉄塊のような大剣――優に100キロは超えるであろう質量兵器を、片手で軽々と持ち上げたのだ。
まるで指揮棒でも振るうかのように。
「……相変わらず無茶苦茶なバフかけやがる」
「文句を言わない。敵が動く前に終わらせて」
「へいへい。
――行くぞ、雑魚ども」
男が剣を構える。
それと同時に、女性が杖を掲げた。
「デバフ展開。『広域スロウ』『グラビティ・プリズン』『カース・オブ・ウィークネス』」
ドスッ……!
空間そのものが重くなったような錯覚。
数十匹の次元喰らいの群れが、突然泥沼に嵌ったかのように動きを鈍らせ、地面に這いつくばった。
強力無比な呪い(デバフ)。
B級モンスターの耐性を、紙屑のように貫通している。
動けなくなった群れに向かって、鋼鉄の男が突っ込んだ。
速い。
あの重装備で、目で追えないほどの速度。
「掃除の時間だッ!!」
男が大剣を横薙ぎに振るう。
ただの剣撃ではない。
剣圧そのものが暴風となり、真空の刃となって空間を裂いた。
スキル【サイクロン・スラッシュ】。
ズバアアアアアアアアアアアアンッ!!
轟音。
そして静寂。
俺たちの目の前で、絶望そのものだった数十匹の怪物の群れが。
たった一振りで。
まるで豆腐のように上下に分断されていた。
「…………は?」
理解できない。
俺の脳が現実を処理することを拒否した。
B級モンスターだぞ?
一匹で俺たちを全滅させられる怪物が、数十匹いたんだぞ?
それを一撃?
紫色の血飛沫が舞う中、男は退屈そうに肩を回す。
「ふん……。B級の雑魚じゃ刃こぼれもしねえな。
マスターのくれたこの剣、切れ味良すぎだろ」
格が違う。
次元が違う。
俺たちが「日給180万稼げるようになった」とはしゃいでいたレベルが、児戯に思えるほどの圧倒的な暴力。
これがトップ層。
これが本物の探索者なのか。
だが、悪夢はまだ終わっていなかった。
群れが全滅した直後、空間の亀裂がさらに大きく広がり、どす黒い瘴気が噴き出したのだ。
ズズズズズズ……!
現れたのは、先程の個体とは比べ物にならないほど巨大な影。
家一軒ほどもある巨体に、王冠のような角を生やした次元喰らいの王。
『ヴォイド・ロード(虚空の王)』。
そのプレッシャーだけで、俺は息ができなくなった。
心臓が早鐘を打ち、視界が明滅する。
死ぬ。
これは人間が戦っていい相手じゃない。
災害そのものだ。
「おいおい、親玉のお出ましかよ」
しかし鋼鉄の男は笑っていた。
フルフェイスの奥から、獰猛な笑みの気配が伝わってくる。
「予定より2分早いな。だが丁度いい」
「終わらせて。マスターから『昼飯までには戻れ』ってメッセージが来てるわ」
「了解。
――悪いな、デカブツ。俺は用事があるんだ」
男が大剣を上段に構える。
その刀身に、赤黒い禍々しいほどの魔力が収束していく。
空気がビリビリと震える。
俺の肌が粟立つ。
あれは、ただの魔力じゃない。
もっと根源的な破壊の意思だ。
そして男は、楽しげに呟いた。
「ふぅ……これで特別ボーナス確定だ。借金の返済がまた進む」
――え?
借金?
俺が耳を疑うのと、男が踏み込んだのは同時だった。
「必殺【ギガント・ブレイク】ッ!!」
剣が振り下ろされる。
ただそれだけの動作。
だが、その一撃は物理法則を無視していた。
音さえ置き去りにする速度。
剣が振り下ろされた軌跡上の空間が黒く「裂けた」。
ズドンッ!!!!
怪物の咆哮さえ上げる暇もなかった。
巨大な王の身体が、頭頂部から股下まで真っ二つに両断される。
それどころか背後の地面までもが、数百メートルに渡って断ち割られ、新たな渓谷が生まれていた。
断末魔もなく王は光の粒子となって爆散した。
後に残ったのは巨大な魔石と、何事もなかったかのように剣を納める男の姿だけ。
「……ふぅ。一丁上がり」
男はバイザーを上げることなく、ポーチから端末を取り出し、何かを確認している。
「よし、これでまた身軽になる。
先はなげぇな」
「無駄口叩かないで。素材回収して撤収よ。
次の『B級攻略』の準備があるんだから」
女性が手早く魔石を回収し、俺たちの方へと振り返った。
その美貌に見惚れる余裕すら、今の俺にはなかった。
ただ圧倒的な畏怖と憧憬があった。
「そこの新人たち。怪我はない?」
女性の声に、俺はコクコクと頷くことしかできない。
「空間干渉は消えたわ。ポータルはもう使える。
ここはまだ余波が残ってるから、早く地上に戻りなさい」
「あ、ありがとうございま……」
俺が礼を言い終わる前に、二人は背を向けた。
そして驚異的な脚力で崖を駆け上がり、風のように去っていった。
残された俺たちは、しばらくの間、言葉を発することもできずに立ち尽くしていた。
やがて周りにいた他のパーティの探索者たちが、震える声でざわめき始める。
「おおい……今の……」
「見たかよ、あの漆黒のフルプレート……それにあの馬鹿でかい大剣……」
「知ってるぞ。ネットで見たことある」
「ああ、間違いない。あれは……」
一人のベテラン探索者が、信じられないものを見る目で呟いた。
「アルカディアの……『借金まみれのタカシ』だ」
タカシ?
あのネット掲示板で「身の丈に合わない装備を買って、借金で首が回らなくなった馬鹿」としてネタにされていた、あのタカシか?
俺の頭の中で、ネットの噂と目の前の光景がどうしても結びつかない。
あんな神話の英雄みたいな強さを持った男が?
一撃で災害級モンスターを葬り去った、あの怪物が?
――『借金の返済がまた進む』。
さっき彼は、そう言っていた。
そうか。
彼は、ただの馬鹿じゃなかったんだ。
借金を背負ってでも、命を賭けてでも、あの「強さ」を手に入れるためにリスクを取ったんだ。
「……嘘だろ」
俺は乾いた笑いを漏らした。
かつては笑い者だった男が、今はあんなに高い場所にいる。
アルカディア。
八代匠が率いる最強のギルド。
あそこに入れば、あんな風になれるのか?
八代という男に導かれれば、俺みたいな「量産型」でも、あんな英雄になれるのか?
ドクン、と心臓が跳ねた。
さっきまでの「日給180万で満足していた自分」が、急に色褪せて見えた。
金なんてどうでもいい。
タワマンも高級車もどうでもいい。
俺は、あれになりたい。
あの背中に並びたい。
その強烈な衝動が、俺の脳を焼き尽くしていた。
◇
数日後。
俺は港区の一等地に立つ「アルカディア」の本社ビルの前に立っていた。
手には震える文字で書かれた履歴書。
志望動機の欄には、こう書いた。
『あの日見た英雄になりたいからです』
門前払いを食らうかもしれない。
「100年早い」と笑われるかもしれない。
それでも俺は挑まずにはいられなかった。
あの日、風鳴りの渓谷で見た「最強」の残像が、俺の魂を掴んで離さないからだ。
新たな信者(兵隊)が一人、八代の門を叩く。
その扉の向こうに、地獄のような訓練と天国のような栄光が待っていることを、俺はまだ知らない。




