24
その日の夜、ワルターはあまり眠れず、ずっと悶々として夜を過ごした。
腕の中でヘレーナが安心しきって眠っている。すやすやと小さな息遣いが、妙に耳にこびり付いてくる感じがする。体の底からヘレーナを味わいたいという欲求が沸き上がってくるし、一方で、ヘレーナが嫌がることはしてはいけないと頭の中で警鐘が鳴る。
とても眠れるような状態ではなかった。
そうすると、シュテフォンの明け透けな言葉が何度もよみがえって来るのだ。
『ワルター様は、ヘレーナ様のことをとても愛していらっしゃるんですね!!』
いやいや。そんな、まさか。黒の国の王である自分が、黒の王たらんと教育されてきた自分が、白の国の姫を愛するなど。そもそも、愛など、親からすら感じたこともない自分が、一体どうしてそんな感情を抱くのかと。
何度も何度も否定してみては、いや、しかし、自分はヘレーナのことをとても大切に感じていることを思い出す。会議で自分のことを勇ましくかばってくれたヘレーナは、自分に温かな気持ちを教えてくれた。たまに微笑む姿がとても美しいと思う。それに、普段はあまり表情のないヘレーナが、夜のベッドの中だけ静かにあえぐ姿がなんとも艶かしく、ずっと抱いていたいと思う。
少しだけ髪に触れてみようか、内緒で唇を奪ってみようか……と言う、異性に憧れを抱いている少年のように深く悩みながら、ワルターは夜を過ごした。
明け方、日が昇り始めた頃、ドアの外から自分を誘う気配がした。
ようやくうつらうつらと眠りかけていた意識を引き戻し、そっとベッドから降りる。夜着にマントを羽織り、乱れた髪の毛を手櫛で整え、まだ眠っているヘレーナを起こさないようそっと部屋を出た。
「やあ、おはよう。朝早くからすまないね」
部屋の外には、随分ラフな格好をしたベルンハルトが、にこやかに待ち構えていた。
「……いや。ヘレーナはまだ眠っているが」
何か用があるのかと、警戒の目を向ける。
そもそも、自分の居住区間だからといって、王が護衛もつけずに歩きまわって良いのか? 何かの罠か?
ワルターの疑惑の視線を受け流し、ベルンハルトは笑顔をワルターに向けた。
「私は貴方に用があってね。妻も娘も早起きなんだ。だから、こんな早くになってしまった」
だから、それが何だというのか。
ワルターはだるい身体を自覚しながら、ベルンハルトの言葉を待った。
「ついて来て欲しい。家族を紹介したいんだ」
「家族とは?」
歩き始めたベルンハルトを見ても、ワルターはまだ歩き出さない。
それに気がついて、ベルンハルトが足を止めて振り返った。
「娘の紹介がまだだったと思ってね。今の時間は、妻と一緒に花の朝摘みをしているよ」
居住区に囲まれた小さな庭に出た。庭に続く扉は一つだけで、その扉はベルンハルトの自室に繋がっている。全てが居住区に覆われていて、外部との接触が一切ない場所。
ベルンハルトとワルターは、並んで庭に入った。
小さな箱の中に居るような気分だ。ワルターはそんな印象を持った。
その中心、芝生の中で、親子が花を摘んでいる。
「エーファ、お客様だよ」
少し大きな声で、ベルンハルトが王妃を呼んだ。座って花を持っていた王妃が、ゆっくりと立ち上がりこちらを見た。その隣で花を摘んでいた少女もはっと顔を上げ、素早く立ち上がり母親の後ろに隠れる。
二人の様子を確かめながら、ベルンハルトが足を進めた。ワルターもそれに続く。
「おはようございます、ワルター様。朝早くから、お呼びしてしまい申し訳ありません」
スカートの裾を少しだけ持ち上げ、略式の礼をする。エーファ王妃の姿が、ヘレーナと重なって見えた。
「いえ。お招きいただき、光栄に思います」
流石親子、よく似ている。挨拶を返しながら、ワルターは思った。
食事の時にも会ったが、間近で声を聞くのは初めてだ。柔らかなエーファの声は、ヘレーナの声と似ている。髪の色も瞳の色も違うけれど、姿形はヘレーナの母とすぐに分かるほどよく似ていて……。ヘレーナが歳を重ねたらきっとこうなると思う。
未来のヘレーナの姿を見た気がして、ワルターはひそかに緊張した。
「さあ、マリア、出ておいで」
ベルンハルトがエーファの後ろに隠れた少女を呼んだ。
自然と、ワルターの視線もそちらへ向く。
マリアと呼ばれた少女は、おずおずと顔を出し、ワルターを見た。
エーファは、マリアを促すように身体をずらした。あっと声を出し、マリアの身体が揺れる。
ワルターと向かい合うような態勢になったマリアは、エーファのスカートの裾をしっかりと握りしめペコリと頭を下げた。
「はじめまして、ワルターさま。マリアでございます」
10歳になるかならないかの小さな女の子。ヘレーナとは違い、髪も瞳もエーファと同じ色だ。ひらひらとフリルを重ねたドレスを着て、花の冠を持っている。
可愛い。
ワルターは、初めて見たヘレーナの妹に、思わず頬が緩みそうになった。
まず、見た目がヘレーナのミニチュアだ。きっと、ヘレーナの小さな頃はこんな感じだったのだろう。まだ完成されていない、可愛い仕草の挨拶も、気に入った。ヘレーナも小さな頃はこうやって挨拶していたのだと思うと、何となく嬉しくなった。
ワルターはマリアの目の前で膝を折り、恭しく挨拶を返した。
「初めまして、小さな姫。私は黒の国アーテルのワルターだ」
急に大きな身体のワルターが目の前に現れたのが怖かったのか、マリアは返事もそこそこにエーファの後ろに逃げてしまった。
ともすれば非常に失礼な行為にあたるのだが、ワルターはちっとも怒る気になれなかった。とにかく、仕草が可愛いと思う。
「マリア、そんな、隠れていないで出ておいで。その花冠、父にくれないのか?」
マリアの行為をたしなめるように、ベルンハルトが声をかける。
「……。ごめんなさい、おとうさま。けど……、この花冠はだめなのよ。おとうさまは、おかあさまからもらってください」
マリアは、結局、エーファの背中から出て来なかった。その上、ベルンハルトから自分の花冠を守るように、さっと後ろ手に隠してしまう。
「娘が申し訳ない。なかなか、恥ずかしがり屋でね……」
「いや」
これ以上は無理だと思ったのか、ベルンハルトはワルターを促し庭を後にした。
ベルンハルトの後ろを追いかけながら、ワルターは思い出す。そう言えば、ヘレーナも花冠を作っていた。
白の国では、花を摘んで冠を作るのが流行っているのだろうか。
疑問に思い、ワルターはベルンハルトに聞いてみた。
「そうだなあ。流行りというか、まあ、花冠を恋人や夫に贈るのが良いとされているな。ヘレーナは、そう言って私に花冠をくれたことはなかったな。マリアも、姉に倣って私にはちっとも花冠をくれないのだよ。まだ恋人などいないだろうに」
何となく面白くなさそうに、ベルンハルトは言う。
しかし、ワルターは、その言葉に衝撃を受けた。
ヘレーナは、自分に、花冠をくれたではないか。
確かに、くれた。頭に乗せてくれた。
ずっと手酷く扱ってきて、ひどい言葉を浴びせかけて、半ば強引に犯して、そんなワルターにヘレーナは花冠をくれた。
あの時、ヘレーナはどんな思いで自分に花冠をくれたのだろうか。
ワルターは、たったそれだけのことを知っただけで、急にヘレーナに会いたくなった。
「なかなか妻子を紹介できずに申し訳なかった。ワルター王はヘレーナのことを気に入らない様子だったので、随分警戒してしまってね」
「は?」
急に声をかけられ、思考を中断した。ベルンハルトが何を言ったのか分からず、ワルターは首を傾げる。
「いつ黒の国がエーファやマリアも寄越せと言ってくるのではないかと、思っていたということだが」
「なっ……!」
それはつまり、ヘレーナを娶ったものの、気に入らないからもう一人の姫や王妃さえも差し出せと、ワルターが要求するかもしれないと警戒していたということか。
ワルターは、むっとしてベルンハルトを睨んだ。
「俺にそんな趣味はない。何より、誰がいつヘレーナを気に入らないと言った?」
ベルンハルトの自室に、ワルターの怒気が充満していく。
しかし、ベルンハルトは嬉しそうにニコニコと笑った。
「おお、そうだったね。ヘレーナが愛されていて、私はとても嬉しい」
「ぐっ……」
ベルンハルトの言葉に、思わず一歩下がる。なんというはっきりした言葉を使うのだろうか。ワルターの動揺する姿がおかしいのか、ベルンハルトはイタズラが成功した子供のような笑みを浮かべた。公式の場で見せる柔和で紳士的なベルンハルトと、印象が少し違う。ワルターは戸惑いながらも、ぽつりぽつりと言葉を返した。
「いや、それは……、俺は、愛など知らぬし分からない」
「それは、また、どうして?」
ベルンハルトがポットに湯を注ぎ、ワルターに温かい飲み物の入ったカップを差し出した。
カップを受け取り、一口口に含む。どうやら、薄い茶のようだ。
「どうして、と言われても。母は記憶に無いし、父とは戦いのことしか話をしなかった」
さすがに、ただの駒として扱われていたとは言い辛い。誤魔化すように、もう一口、薄い茶を飲んだ。
「ふぅん。でも、君、ヘレーナのこと好きだろう?」
ぶふっと。飲み込んだはずの茶が逆流してきた。
何度か咳をし、喉の調子を整える。鼻から茶が吹きでなくてよかったと思う。
「……随分楽しそうだな」
多少の恨みを込めながら、ワルターの口からそんな言葉が出た。
「ああ。私は娘ばかりだったからね。ずっと、もし息子ができたら色々語り合いたいと思っていたのだよ」
「娘と語りあえば良いじゃないか」
すでに、王同士の雰囲気など微塵の欠片もない。
随分と気安いベルンハルトにつられるように、ワルターも段々と警戒を解いていった。
「娘は、やはりどうもな。年頃になってくると、父親を敬遠してしまうのだ」
ワルターの言葉に、ベルンハルトが顔をしかめた。拗ねたように、残念そうに、でも、決して嫌っているわけではない。
その仕草だけで、ベルンハルトが娘であるヘレーナをどれほど愛しいと思っているのかが伝わってきた。
「だから、私は嬉しい」
ベルンハルトが真っ直ぐにワルターを見た。
「嬉しいんだよ、ワルター王。たとえ遠くに嫁いだとしても、ヘレーナが結婚して私にもついに息子ができた」
「……」
ワルターは、ベルンハルトの言葉に目を見張った。
自分の子供のことを、深く愛しているベルンハルト。彼が、自分のことを息子と言った。ワルターは、ベルンハルトの愛が自分にも向けられたような気持ちになって、正直うれしいと思った。
「そして、その息子が、可愛いヘレーナのことをとっても愛しているとなれば、万々歳じゃないか」
「だから……っ!!」
どうして、そんな簡単に愛しているとか言ってしまうのか。ワルターは言葉につまる。
そんなワルターの様子に、満足したようにベルンハルトが笑った。
ワルターはむっとしながら、ベルンハルトを見る。
「……。俺の反応で遊んでいますね? お義父上」
そして、初めて、ベルンハルトのことを父と呼んだ。




