12話 自然の一部
「で、良二さんについて畑仕事をする毎日。その合間に一息ついて、畑の端に腰を下ろす。そうするとちょうどあの山が目の前に来るんだよね。で、その山をぼーっと見ながら思うんだ。
和可はどの辺りにいるんだろうって。」
和可ちゃんの名前を出されて一瞬ドキッとした。気取られないように湯をすくって顔をぬぐった。
「あの稜線のどこかに和可がいるんじゃないだろうか。そしてパパがあそこにいる、ってこっちを見てるんじゃないだろうかって思うんだ。
いつも、どこにいても和可を探していた。あの角に、あの空の向こうに、あの道の端にって。いつもいつも。それはここに来てからも変わらなかった。
ふっと気が抜けて、ぼーっとするとそんなことばかりまた考えるようになった。
そんなある日、辰夫さんにさ。」
「ああ、兄貴な。」
農協に勤める10歳ほど上で、近所に住む辰夫さんは面倒見のよい兄貴だった。子供の頃、遊びに来ると率先して面倒を見てくれた。
「これ教えてもらったんだ。」
隆博は、湯船の中で釣竿を掲げる仕草をした。
〝釣り?〟
〝そう。〟
この辺りは夏場になるとあまごや鮎がたくさん取れる。
この辺りの土地の者はほとんどが、釣りを趣味と実益を兼ねてやっていた。
「初めてか?」
「ああ、初めてやってみたけどあれ、おもしろいね。
腰まで川につかって、ぼーっと釣り糸を垂れていると、涼しくてね。この辺りの川の水は本当に冷たいんだね。」
「ずっと入っていると、寒いくらいだろう。」
「ああ。」
「それに水が澄んでいてとても綺麗だ。
それで、釣り糸を垂れてぼーっとしていると、そのうち川の流れる音しか聞こえなくなるんだ。水が音を立てて流れていく、ザーッ、ザーッってそういう音。まるで時間が止まったようで、自分の存在が川の流れの一部になってしまったようなそんな錯覚に陥る。そんな時、自分も自然の中の一部なんだって実感するよ。」
「それ、わかるな。山へ登った時にそんな感覚に陥る事がある。」
俺もヤツの意見に同意した。
湯船の縁の腰掛けながら、隆博が急に聞いた。
「川って何で流れているんだろうって、考えた事ある?」
「いや。」
何を聞くのだろうと、不思議に思う。
「気に留めたこともないな。」
「そうだろうね。」
「でも流れているから川なんだ。流れが止まってしまったら川じゃなくなる。どこへ行くとか、どこへ辿りつくとか、どうして流れていくんだろうなんて考えもせず、川はただ流れているんだ。流れが止まったら死んじゃうってことなんだよね。川に棲んでいる魚とか虫とか、川自体が死んでしまう。」
「だから止まっちゃダメだ。人間も一緒なんだ。立ち止まって動かずにいたら死んでしまう。
その時、思ったんだ。何も考えずにこの川のように動いていればいい。それでいいんだ。動いていれば何か答えが出るのかななんて思って。良二さんについて畑仕事をするのが何とはなしに楽しみになった。」
「草取りとか?」
「ああ、あれ、無心になれるんだ。一番いいよ。」
彼は、そう笑った。
「何も考えずに体を動かすって、なんて心が安らぐことなんだろうって実感したよ。それでも、さっき言ったみたいに、仕事の合間に畑のへりに座って山を眺めると、和可のことを思いだした。思い出しはするんだけど、それでも、胸の中の霧が晴れていくように前とは違うんだ。何だろう、もっと違う感情だ。」
どんな?
尋ねると、湯船の湯を手ですくってじっと眺めたまま黙り込んだ。
少し沈黙が流れた後、急に、
「もう出ようか。」
「良二さんが夕飯の支度をして待っているよ。暗くなる前に山を下りよう。」
そう言って、俺の返事を待たずにさっさと湯船から出て、服を着はじめた。
少しナーバスさせてしまったんだろうか。今の話で。
ちょっと心配になった。ふっきれたように笑いながら和可ちゃんの話をするので、もう大丈夫なのかと思い、急にいろんな話を聞きだしてしまったんじゃないかと。レナさんの話しだと、躁状態と鬱状態が交互に入れ替わることがあるらしい。急にストンって、前触れもなく。
温泉を後にして、さっき来た道を戻り始めると、今まで湯船の中から見ていた山の連なりにオレンジ色の夕日が徐々に吸い込まれていく様が見えた。
すぐそこまでせまった夕暮れを背中に感じながら、足早にさっき来た道を戻る。手に懐中電灯を持って。たぶん途中で暗くなってしまうだろう。
前を歩いていた隆博が急に立ち止まり、
「さっきの話の続きだけどさ。」
急に先ほどの話の続きを話し始めた。
かさかさと枯葉を踏む音が聞こえる。
「前、山へ行った時に、雪が積もっているのに、僕が川原に降りてみたいって言ったのを覚えている?」
ああ。
覚えている。
雪が積もっていて、川原へ降りるのも大変なのに、急に変なことを言い出すといぶかしげに思ったが、やつの言うとおりにして俺も後をついて川原へ降りた。あの時、隆博がした話も覚えている。
そう、死んだら魂はどこへ行くのかというような話だ。
「僕、あの場所に立って実感として何だか分かるような気がしたんだ。死んだら魂だけになって帰っていく場所があるんだって。それと同時に、死んだら何もかも終わりなんじゃなくて、たぶん、今こうやって僕らが歩いている山道の、木々やこの岩や、いろんな植物や、この風の中やそんなものにきっと死んだ人の魂が帰っていくんじゃないかって。」
〝僕らは自然の一部だ。それと同様に魂も同じように自然の一部だ。形を変えて、きっと、でも、存在する。〟
隆博は死んだ娘がこの山の木の一本になって、もしくは今肌に感じる風の一部になって、自分の側にいるのだといいたいのだろうか。
まだ、それが現実逃避としてあいつの心を慰めているだけの事で、あいつは自分の心の傷をまだ見据えてもいないんじゃないだろうかと、ふと、不安になった。




