11話 温泉
日が西に傾く角度がふいに大きくなったような気がした。
夕暮れがもうそこまでやってきている。そのことにあいつも気がついたらしく、急に立ち上がり、先を急ごうと言った。
「暗くなると良二さんが心配するから。」
灯りも何もない山道だ。川沿いの道だって、遠くの農道にぽつん、ぽつんと灯りが見えるくらいで、懐中電灯で照らさなければ足元さえ危うい。
休憩した岩場からはすぐに例の温泉があった。
良二さんと隆司叔父が組み立てた小屋のような脱衣場が見える。
「こんなんだったかな?」
呟くと、
〝何?〟
俺の言葉に、隆博は振り返ったが、さほど気に留めることもなく、さっさと服を脱ぎ捨て湯船に勢いよく飛び込む。
「ぬるいよ、結構。」
同じようにして服を脱ぎ、湯船に入ると、なるほど少しぬるい。
晩秋の夕方には少しぬるいと思われる湯が、肌にまとわりつくようだ。
「でも、畑仕事で疲れてるし、ちょうどいいよ。ゆっくりつかるには。」
そう言ってやつは勢いよく頭から湯を被る。
「ああ、そう言えばこんなんだったかな?って何?」
「もっと大きいと思っていた。」
「そう。家族風呂っていうか家族サイズの温泉だね。これ以上大きく掘るのは素人では無理だよ。」
確かにそうだ。中学生の時以来、来ていない。だからかな。もっと大きくて広いと思っていた。大きなごつごつした岩、多分良二さんと隆司叔父が下の川から適当なヤツを選んで運んだと思われる石。それで骨組みをした大人がふたりも入ればいっぱいになるサイズの湯船が、中学生の時は大きく広く思えたが、今この年になってみてみるとさほど大きな温泉ではなかったのだと思う。
彼らふたりが掘って、岩を組み、湯船を作り、その辺の木材を拾い集めて作っただけの簡素な掘っ立て小屋のような脱衣場。子供のような叔父たち。
〝こうやって入れるまでにするのが、とても楽しみでね。形になっていくのがわくわくするよ。で、一番風呂にどちらが先に入るか、真剣に争っちゃって。〟
中学生の時、初めてここへ来た時、隆司叔父が嬉しそうにそう言ったのを思い出した。
(おじさんにもだいぶ会ってないなあ。)
隆司叔父の、細身で顎鬚をたっぷり生やしたワイルドな風貌を懐かしく思い出していると、
「僕はここ、すごい気に入ったよ。こんなプライベートな温泉なんて誰も持っていないよ。それにこんなに奥まった所にあるから誰も来ないしね。誰かが見つけて広く一般に公開したりすると、その辺にある日帰り温泉みたいになっちゃって風情がないしね。」
隆博は本当にここが気に入ったみたいだった。
「ほとんど毎日くらい来ている。良二さんの家のあの例の五右衛門風呂、あれも大好きだけど、ここはいいよ。ほら、見てみろよ。」
指した指の先に朱色の染まる山の連なりが見えた。
「あれ、家の畑から見える山だな。」
「そうだ。」
ちょうど温泉がある前方に山が見えた。山の登り口に少し開けた平らな場所があって、ここも良二さんと隆司叔父が整地したんだろう。周りの木を少し伐採して、温泉の周りだけ人が行き来できる程度にさっぱりと木や草を刈ってある。だからちょうど湯船につかると、木々の向こうの方に山の稜線がはるか遠くに見えるようになっている。
「叔父さんたち、この眺めも計算してるね。すごいよ。」
叔父たちはこの眺めも計算していたのだと、隆博は感心してそう言った。
「あの山さ、畑から見える山と一緒なんだ。僕がここへ着たばかりの頃。そうだな、レナも言ってただろ。自分でいうのも変だけど、ちょっとやばかった。」
彼女が言っていた。
あの人、うつみたいになっちゃって・・・
「やばいって自分でもわかっていた。気力が出なくて、良二さんに迷惑かけちゃいけないって思いながら、どこかてんで違うことをしてる自分がいて。」
良二さんが昨日酒を飲みながら言っていたことを思い出した。
〝あんでも、わしに気を使っているんだろうけど、どうも以前の隆博くんとは様子が違ってな。気を使ってるふうだけど、とんでもないちぐはぐなことをしたり、言ったり。
ここへ来たばかりの頃はそれもしんどそうで、それでわし言ったんや。心配せんでもええで、自分の好きなようにすればええ。ここにはいつまででもおってもかまわんで。と言うと、わしが自分の事をわかっとるんやとあの子は安心したんやろ。〟
〝そうやけど、いつまでもあんなんしとってもいかんやろって思って。ふと思いついて無理やり朝叩き起こして半分ひきずるようにして畑へつれていったんや。〟
〝さっき聞いた話だね。〟
そう言うと、
〝まあ、半分荒治療というか、それであの子があれ以上どうかなってしまったらどうしようかと、内心多少はひやひやしとってんじゃがな。〟
と言って、良二さんは酒杯を一気に空け豪快に笑った。
〝でも、功を奏したみたいで。〟
〝そうや。〟
俺と顔を見合わせて良二さんは嬉しそうににやにやした。自分の判断は正しかったってね。
隆博も昨日の良二さんの会話を思い出しながら、話を続けた。
「そうなんだ。良二さんには感謝している。親父にすらあんな自分は見せられない。いや、親父だから見せられない。母さんにも心配かけたくなかったから、実家へ行くなんていう発想はさらさらなかった。実家へ帰ってゆっくりして、近所に住む幼馴染や、学校からの友達に会ったりしたらどうだろうって、考えれらなかった。というかそういうまともな発想すら出来なかったんだよ。あの時。発作的に良二さんちに来た。彼に了解すら取らず突然。」
びっくりしながらも受け入れた良二さんの懐の大きさを感じた。動じない人だ。昔から。だから子供の頃の俺もあの人には懐いた。




