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彼の娘  作者: 大島 有
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2話 見つめなおす時間

が、その衝動を止めたのはあいつだった。

あいつは自分の腕を掴んだ俺の手を思い切り引っ張った。畑の真ん中に同じようにして倒れこむと、あいつは子供のように俺の首根っこにかじりついた。子供のようなしぐさに、ふとあの時のことを思い出した。

子供が駄々をこねるように、親に抱擁をせがむみたいに、思いっきり俺の首に手を回した。

あの雪の日。お互いの場所へと、離れていくことを決意したあの夜。話をする俺の首根っこを子供のようにかじりついて離れなかった隆博を思い出した。あの時の、細い柔軟な線を持つ体。あの時の感触とは違う筋肉のついた肩や背の感触が薄いTシャツを通して、じかに体に感じた。じっとりと湿気た汗の感触がした。興奮した彼が息を短く吸う音を耳に感じて、胸が波打った。

長い間離れていた。そう思った。

「もう、戻らなくてもいい。」

「戻るところなんてもう。」

そうだ。お互いもう他に戻るところなんてない。


畑の脇に座ってお互いの体のついた土を払った。

「家に戻る?」

彼が聞いた。良二さんの家に戻って話をしようかと、そう聞いてきたのだ。

「いや、ここで少し話をしよう。」

日がだいぶ真上の方に登ってきた。畑の作物の緑が光を受けてつやつやとした表情を見せていた。

彼は落ち着いたのか少し笑顔を見せ、お互いひどい格好だと呟いた。あいつの白いTシャツもそうだが、俺の着ているグレーのストライプのシャツも土で真っ黒だ。

手を伸ばして、あいつの髪の毛についた土を払ってやると、同じようにあいつも手を伸ばして俺の髪に触れる。どのくらいお互いの体に触れていないのだろう。とても昔のような気がした。自分の手に、相手の体の感触を感じると不思議に落ち着く。何故だろう。この感覚は。

(ひどい格好だ。)

しょうがないなあ、というように首をすくめると、

「いいさ、後で温泉に行こう。良二さんも行ってるから。いや、もう帰ってきたかな?」

「温泉?」

「ああ、悟が教えてくれたんじゃないか。良二さんたちが掘り当てた・・・」

「ああ、あの温泉。まだ入れるのか?」

「いいお湯だね。あそこ。ふたりで毎日くらい入りに行っているよ。」


良二さんと隆司叔父がふたりして掘り当てた温泉。

山の中腹辺りにぽつんと湧き出ている。俺が小学生か中学生の頃の話だ。

偶然近所の親父さんが掘り当てて、そんじゃ俺んらもやってみるかと、良二さんと叔父がふたりして、良二さんの土地を掘ったらお湯が出た。嘘みたいな話だ。

隆博は良二さんと野良仕事の後、その温泉に入りに行くのが楽しみだと言った。

今日は、昨夜、腰が痛いと言っていた良二さんを、休ませようと朝風呂に出して、自分ひとりで畑に来ていたのだと言った。

びっくりして、

「お前が畑仕事なんか?」

と言うと、むっとした顔をして、

「バカにするなよ。結構いろんな作物作ってんだよ。自分たちが食べる分は残して、あとは朝市に持っていったりするんだ。良二さんのいい小遣稼ぎになる。」

そう言って、こっちの畝はじゃがいも、こっちの畝はさつまいも、こっちは小松菜で・・と、畑の説明をし始めた。

「畑仕事するためにここへ来てんのか?」

と、聞くと、

「まあ、元々はそれが目的ではなかったんだけど・・・」

そう言って、良二さんの家に身を寄せている理由を話し始めた。


「ひとりでいるのがたまんなかったんだよ。逃げるようにして悟のところから帰ってきて、あれこれ考えていたら、ふと思い浮かんだのは良二さんちの、この何にもない田舎の山や畑の風景だった。それで取るものもとりあえず、良二さんちに向かったんだ。」

良二さんはあれこれと詮索することもなく、ただ

〝気が済むまでいたらええ。〟

と言ってくれたらしい。夏からずっとこっちで、良二さんの畑や田んぼを手伝ったり、空いた時間で執筆したりして過ごしたと言った。

「仕事は?」

「うん、結局独立したんだよね。」

「辞めたの?あの会社?」

せっかくコネを作ってくれた悟には申し訳ないと思っているんだけど、と隆博は前置きして、語り始めた。

長年半フリーみたいな形でやってきたが、仕事に対して、どこか自分の思いとは違うような気がして、それが長年くすぶっていた。自分が目指しているものや、やっていきたいペースが何となく会社の意向としっくりかみ合わない部分があった、とも彼は言った。それに、どうしても、会社に属していると出版の関係もあって、売れる本を書かないといけない。訳するものもそれなりに評価を得て、売れるものでないとやらせてもらえない。どこかで自分の仕事に対する思いと食い違っていくことがたまらないんだとも。

「まあ、自分の我儘なんだけどね。」

ついた溜息がひどく大きく聞こえた。

「レナとも別れてひとりになって、責任を負わないといけない家族もいないし、自分のやりたいようにやれるならやってみたいって思って。それにここで生活をしながら、これからの自分のことを考えたり、自分を見つめなおす時間を持ちたいと思って。」

「そうか。」


ここでの生活の事を話し終えて、一息つくと、

「レナだろ。教えたの。」

そうつぶやいた。

「まさか、奥さんに教えてもらえるとは夢にも思わなかったよ。」

彼女らしい、そう言って隆博はおかしそうに笑った。

「ああ、レナから聞いてると思うけど、和可の法要のことでレナから連絡をもらって。レナが悟に居場所を言うなんて思いもしないからね。」

「聞かない方が良かったか?」

そういうと、隆博は、別に、というふうに首を振り、

「最初の頃は、本当に誰にも会いたくなかったんだ。ひとりでいろんなことを考える時間が欲しかったからね。」

「でも、和可の法要の日が近づいていることが気がかりで、レナを呼んだんだ。

用事を済ませたら彼女はすぐに帰るのかと思っていたら、不意に自分も数日滞在したいなんて、言い出すんだ。」

彼女ね、休みまでとってきてたんだ。

大学の付属病院の薬局部で、そこそこ出世していた彼女は、仕事も結構忙しくて、たまには休みが取れたときくらい、田舎でのんびり骨休めでもしたいんだなんて、言い出したらしい。


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