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彼の娘  作者: 大島 有
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第5章「再生」 1話 再会

Y市に着いたのは朝だった。

まだ7時を過ぎたばかり。

良二さんの家に続く民家を、点在する集落をいくつかを通り過ぎる。

朝早くからあちこちで畑仕事をする老人や、洗濯物を干す主婦らの姿を見かける。

都会と違って田舎は朝が早い。この土地では、もう人々の時間は動き始めている。


車が数えるくらいしか走らない田舎の県道をひたすら真っ直ぐ走ると、良二さんの家がある集落が見えてきた。その広大な畑や田んぼが並ぶ中にぽつん、ぽつんと古い民家が建ち並ぶさまを見たとき、急に胸の中をどんよりとした思いが広がった。勢いづいてこんな所まで来てしまったが良かったんだろうか。あいつの思いを無視して、自分の思いだけを押し付けに来てしまったことにならないだろうか。

車を県道の脇に留め、思いを巡らせる。

窓を開け、朝の空気を車内に取り込む。

窓から見える景色は、どこまでも続く畑と田んぼの茶色のグラデーションだ。もうそろそろ稲刈りの時期か。黄金色の穂をたなびかせる稲穂。所々民家が点在するだけで、大きな建物も商店すらない。こんなところに隆博は何をしに来たのだろう。良二さんを頼ってきていることには間違いないけど、この土地に彼は何を求めて?


ぼんやり車窓から景色を眺めていると、ふと、後ろから声がした。

「おい、おまえさん。道に迷っていなさるか?」

車の窓から顔を出して振り返ると、腰の曲がった小さなじいさんだった。

この土地の人だろう。

「あ、いえ、あの。」

急に声をかけられて戸惑っていると、

「どこへ来なすった?」

「あ、あの。」

老人は他県ナンバーの俺の車を見て、道に迷っているのだろうと思い、親切に声をかけてくれたのだろう。手にした籠の中には丸々とした紫色のさつま芋がこぼれんばかりに顔を覗かせていた。野良仕事の帰りか。

「江崎さんのうちへ。」

良二さんの名前を出した。

「ああ、良二さのとこへ来なすったか。これを真っ直ぐ行って、3本目の農道を入るとすぐだ。」

何回も通ったお馴染みの道を老人は教えてくれた。

「ありがとうございます。」

迷ってこの場で留まっているのも変に思われる。老人に後押しされるような形で車のエンジンをかけ、その場を後にした。


思えば、あのじいさんに声をかけられて良かったのかもしれない。

そうでなければ、自分の行動に怖気づいて東京へ戻っていたかもしれない。

3本目の農道を曲がると、すぐに良二さんの茅葺の古い家が見えてきた。

家の前の広い玄関先に車を止める。

車を下りて、家の前まで来て、辺りをうかがう。

誰もいないのだろうか。ひっそりとして、誰かが家の中にいるような雰囲気が伝わってこなかった。

いつも鍵などかかっていないこの家の玄関の引き戸を開けると、中に向かって遠慮がちに声をかけた。


「おはようございます。」

応答はない。

「良二さん、いないの?」

もう一度声を少し大きくして声をかけてみたが、返事はない。

あきらめて外へ出たところで、良二さんの愛用の軽トラックがないことに気がついた。

〝あ、畑か。〟

家の前にもちょっとした畑があるが、もっと広い畑がこの家の近くにある。そこで良二さんは本格的に野菜を作っているのだ。朝から畑に出かけたのだろう。そう思った。

が、隆博は本当にここに滞在しているのだろうか。他に車なども見当たらないし、家の中には誰もいないみたいだ。

いぶかしく思ったが、それでもとりあえず畑へ行ってみることにした。車で5分。歩いても10分くらいのところに畑はあった。

家の玄関先に車を止め、家の裏側へ向かった。

家の裏側にまた細い農道があって、そこを山の方へ向かって足を進めると、すぐに良二さんの畑が見えてくる。この左脇の山を少し登ったところに文さんの墓がある。


夏に隆博と良二さんを訪ね、文さんの墓参りをしたことを思い出した。

あれから数ヶ月。そんなに経っていないのに、とても長い時間が流れたような気がした。青々とした草が繁る農道が、今はもう所々枯れたような雑草が細々と繁り、秋が深まっていることを感じさせる。晩秋の涼しい、少し寒いと感じるくらいの朝の風に思わず身が引き締まる。昨晩、慌てて車に乗り込み、薄いシャツ一枚しか着てこなかったことを後悔した。

畑が見えてきた。

良二さんの軽トラがない。

でも、遠くから見ると誰か、人影が畑の中で動いているのが見えた。

あ、やっぱり良二さんだ。

そう思って歩調を速めて、近づくにつれその人影が、良二さんのような老人のものでないことに気がついた。細いけどしっかりと筋肉がついた背中。程よく引き締まった長い腕。白いTシャツにうっすらと汗がにじんでいる。頭にタオルを巻き、長靴を履いてなにやら一生懸命に掘っている。

隆博。

彼だった。

声をかけようとした。が、かすれて声が出ない。

足をいったん止めた。

彼は俺に気づかず黙々と畑仕事に熱中している。

迷った。でも、それはほんの何秒かのことで、無意識に足が前に出ていた。

4段ほどの段になっている畑の下段から、彼がいる上段まで足を運ぶ。湿った土の感触を足に感じる。

すぐ側まで寄った俺に気がついたのか、

「良二さん、そこに掘った芋をトラックに乗せてよ。これだけあれば明日の朝市に間に合うだろう。」

動かしている手を止めようともせず、彼は振り返らないままそう話し始めた。

俺を良二さんだと思っているみたいだ。


「・・隆博。」

声をかけると、

彼は驚いた様子で、肩を揺らし、ものすごい勢いで振り返った。

「悟!」

慌てて狼狽した様子が手に取るようだった。鍬が手から離れ、あまりの驚きに尻餅をついたような形で畑の真ん中に倒れこんだ。それを抱き起こそうと、近寄って腕を取ると、

「ダメだ!」

また大きな声で叫んだ。

「何で!」

こっちも負けじと大声を張り上げると、あいつは急に泣きそうな顔になって、小さく

「ダメだよ。悟に触れたらもう戻れなくなる・・・」

俺はやつの腕を掴んだまま返す。

「どこへ?」

やはり泣きそうな顔を崩さないまま、

「戻れなくなる。」

「どこへ?どこかに戻らないといけないのか?」

彼は顔をくしゃくしゃにして、ゆっくり首を振った。真っ黒な日焼けした顔が以前の彼ではないみたいだ。健康的で、昔の自分が知っているどこか青白い線の細い青年の姿は消えていた。


「もうすれ違うのは嫌だ。なぜ離れていないといけない?もう、たくさんだ。」

そう叫んだ。落ち着いて話をしようと思ってきたのに、急に怒りのような感情が湧き出して、止まらなかった。

「何であんな手紙一枚残して、こっちの話も聞かずに、勝手に自分だけで何もかも決めて、失踪したみたいに姿を消したりして、何考えてんだ!」

自分では泣いているつもりはなかったのに、最後の方が涙で声がかすれて、まるで自分の声じゃないみたいだ。吐き出した思いが胸を思いっきり殴るかのように、胸が痛くなる。だけど、感情を押し殺すことは無理だった。このまま畑の真ん中であいつを思い切り殴りたいような衝動に駆られた。怒りで麻痺した左の薬指が痙攣し始めた。


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