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彼の娘  作者: 大島 有
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9話 それぞれの居場所

「私、あなたを病院に連れていったわ。あの雪山に行く前の日。」

「覚えている。」

「あの時の絵梨香の超音波写真を、あなたが大事そうにしまって出かけたことが忘れられないわ。あの時、あなたを信じたの。絵梨香のためだろうと、何だろうと、私と一緒にやっていく決心をちゃんとつけてくれたんだって。だから、がんばってやっていこうって。」

「そうだよ。あの時、君と絵梨香のために、この先生きていこうって決心した。本当だ。嘘じゃない。」

「わかっている。」

「あなたが悪いのか、私が悪いのか。その両方なんだろうけど、私は結局、不安から逃れられなかったの。あなたはいい夫だったわ。仕事が忙しい時でも、家族のために時間を割いてくれて、一緒にいろんな所へ出かけたし、少しの時間でも会話をしようとしてくれたし・・・。でも、どこかで不安だった。またあの雪山の時のように、帰ってくるって信じているのに、どこかでまた、あなたはどこかへ行ってしまうんじゃないかって。自分はやっぱり複数の中の一人。都合の良い2番手なんじゃないかって。」

彼女は昔のことを思い出し、涙ぐんだ。


「いつからそんなふうに・・・」

「きっと、最初からだわ。あなたに正直に気持ちをぶつけることが出来る人間だったら、ひょっとしたら・・・うまくいっていたのかもしれない。」

「10年前のこと、あなたがあの人に偶然再会したこと。それで、あなたがどうかしたというわけではなかったのに、私の気持ちの中で、不安が執着心や猜疑心に変わっていった。そんな自分が嫌で仕方なかった。」

「泣かないで。」

「ううん、いろんなこと、絵梨香にもあなたにも迷惑をかけた。」

浮気のことを指しているのだ。わかっていた。でも、黙っていた。

結果的にそうさせたのは自分だ。

自分ばかり責めて。

絵梨香にまたなじられそうだが、いや、本当にそうなんだ。

「俺も正直に君に気持ちを言える人間だったら、違う結果があったのかも。」

でも、乃理子に自分の内面を話して過ぎたことを許してもらい、自分の気持ちに正直に、これからは前向きにやっていこうと思えたことは、こうやっていろんな事があったからだし、乃理子がいてくれた日々があったからなんだ。そう言うと、彼女は涙を拭いて、

「ひょっとしてやっと、お互いそれぞれが場所を見つけたのかしら。」

そう言った。


自分が自分でいられる場所。

自分の存在を肯定できる場所。

回り道して、いろんな人を傷つけて、自分も苦しんで、そうしてやっと見つけた場所。

今回の隆博のこと、絵梨香が何年も前から、俺のことを考えて、こうやって会わせてくれた事。その経由を話すと、

「びっくりするわね。あの子には。」

「・・・でも、大人になったのね。私は何もしてやれなかったわ。親のことであの子に傷を負わせただけだと思っていたのに。あの子は親のことを考えていてくれたのね。」


「感謝している。あの子が宝だ。俺の。」

「私にとってもよ。」


「話してくれてありがとう。別れても、他人になっても、もう、会うことがなくても、あなたが幸せでいてくれることが私にとっての願いなの。それだけは覚えていて。」

じっと、真っ直ぐ俺を見つめて話す乃理子の視線が、気恥ずかしくて、

じゃあ、そろそろ絵梨香を呼びに行くよと、立ち上がろうとすると、乃理子が俺の手を取った。暖かくて、柔らかいふんわりした感触。懐かしさが急にこみ上げてきた。

愛していた。そう、形は違えども、確かに俺はこの女性を愛していた。

俺なりに。


庭では、大小さまざまないろんな種類のバラが咲き乱れていた。

「バラって育てるの難しいんだろ?」

「そうね。でも、それがまた楽しいのよ。」

乃理子は園芸などたしなむ女性ではなかったが。

近くにあった白い大輪のバラの匂いをかぐと、

「いい匂い。あ、私が何故こんなことに興味を持ったのかって、不思議に思っているでしょう?」

「わかったか?」

顔を見合わせて笑うと、ふっと視線を遠くに投げて彼女が言った。

「人って、出会う人からいろんなものをもらっているわ。言葉ではうまく表せないけど、すごく大事なものや、貴重なものや、人生において必要不可欠なものや。」

「人って人によって変われるのね。それが最近になってようやくわかったの。回り道をうんとしたわ。それでもたどり着けるところがここで良かったって、そう思うの。」


君は幸せなんだな。

今、本当に。

乃理子から穏やかなオーラを感じる。

柔らかいバラのような芳香が漂うようだった。


「俺は君に不安や寂しさを与えただけだったんだろうか?」

「いえ、違うわ。あの頃はそう思ったけど、今振り返るとあれは私にとって必要な日々だったし、あなたや絵梨香と過ごせて楽しかった、かけがえのない日々だったわ。」

「俺は安心していい?」

「もちろん。」

何も心配する事なんてないんだって、乃理子が笑った。

その笑顔が花のようで、きっと、今の夫はいい人なんだろう。

そう思った。

俺にはなれなかったけど。


絵梨香を呼びに行くと、窓際の席に座って文庫を呼んでいた彼女が顔を上げ、

〝うまくいった?〟

そう、目で合図した。

何も答えず口の端をあげると、満足したように席を立ち、

「ママの家はわかるわ。私行って来るからパパはこのまま先に帰って。」

彼女がひどく大人びて見えた。

その言葉通り指示に従い、絵梨香と別れて駅に向かった。

駅へ続く道を今度はひとりで歩きながら、先程別れた乃理子の表情を思い出した。


(人は人によって与えられるもので変わることが出来る。)

どれだけの多くの人に与えられているのだろう。俺は。

乃理子からも。乃理子との17年間。それは絵梨香の成長の過程でもある。俺はふたりから大変貴重なものをもらっている。いろんな意味で気づきがある。到底、ひとりでいてはわからないことだらけだ。自分の内面と対峙する。自分の内面をさらすことを怖れて過ごした月日。

こうやって乃理子に自分の内面を話し、許しを乞う。

どれだけの軽蔑と怒りとあきらめを、彼女から受けるかと思っていたのに、全く俺の予想ははずれてしまった。こんなふうにして暖かく受け入れてもらってよかったのだろうか。彼女には結局何もしてやれなかったのではないかと思う。絵梨香に対してもそうだ。

だけど、気分的になんだかほっとした。状況がどう変わるかわからない。これからの自分が進んでいく道はどこにあるのだろう。でも、とりあえず何か一歩進んだような気がした。乃理子と話が出来てよかった。ただ、それだけだは確かだ。


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