8話 コンプレックス
おっとりとした女性。でも勘が鋭く、人の心の動きを瞬時に読み取る。
少し間をおいて、彼女が言った。
「・・・あの人・・・」
黙って頷く。
また、鼓動が大きな音を立てた。
彼女も動揺しているようだ。自分を落ち着かせるように、何度も小さく深呼吸をした。
「ええ、そう。そうなの。わかっていたわ。」
「あなたが再婚なんてしないってこと。あなたはそのまま独りでいるんだろうって。もし、あなたが独りじゃない道を選ぶとしたら相手は誰か。」
「そう、私・・・わかっていたわ。」
「ごめん。俺はずっと君に嘘をついていた。ずっと、君につらい思いをさせてきた。離婚して俺たちの関係は終わったけど、俺の中ではずっと終わっていなかった。いつか、乃理子に本当のことを話さないと、乃理子に謝らないとって、ずっと思っていた。」
乃理子に本当のことを、出会ってから絵梨香がお腹にできて、それから結婚して、今、現在に至るまで。ずっと、乃理子に隠していた自分の思いを、ずっと自分の中に持ち続けていたあいつへの思いを。
乃理子はそれをじっと聞いてくれた。
俺が話し終わるのをじっと待ってくれた。
そうなんだ。きっと、俺はこの女性に甘えていた。母親のように甘えていた。自分をさらけ出さずに、良い夫、良い父親としての仮面をつけていたこの十数年間を、彼女にもたれかかってやってきたこの長い年月を。
「私、あなたに初めて会った時の事、今でもはっきりと覚えているわ。」
え?
乃理子はまるで思い出を懐かしむようにゆっくりと話し始めた。
「いつものようにあの受付のデスクに座っていたの。窓から外の様子を見ていた。あなたが向こうの通りから、横断歩道を渡ってうちの店にやってくるのが見えたわ。走り込むようにして、店に入り、〝今すぐ住める部屋ある?〟って。」
「早口でまくし立てるようにそう言って。なんてせっかちな人なんだろうって思った。」
「でも、背がすらーっと高くて、彫が深くて、なんてかっこいい人なんだろって、たぶん一目ぼれだったわ。それで、部屋の間取りなどを見に行くのに、いつもは営業の人が行くところを人が出払っていていなくて、所長が〝木島さん、頼むよ。〟って言われた時には、〝私、ついてるわ。〟って嬉しくなっちゃったの。」
そう、思い出した。
あれは2年生の時だ。
高校に入るとすぐ家を出た。隆司叔父が後見人を務めてくれ、独り立ち出来た。アパートの場所は、妹の葉月には伝えてあったが、親父には内緒だった。事あるごとに俺を実家へ呼び戻すつもりが見て取れたからだ。それで、当時住んでいたアパートの場所を親父に嗅ぎつけられて、やつと鉢合わせする前に部屋を替わろうと、慌てて不動産屋に飛び込んだ。そこにいたのが乃理子だ。
部屋を見に彼女とふたりで行った時に、ふっくらとした感じで、おっとりとしたしゃべり方が何て可愛らしいんだろうって、思わず〝今度、デートでもしない?〟って口がすべっちゃったんだ。
そうだ、思い出した。
「でも、つきあいだしてすぐ他にもつきあっている女の子が何人もいることがわかったわ。」
「ずいぶん俺の事をいい加減な男だと思っただろうね。」
「そう、そうね。でも、・・・。あなたはどこか子供みたいに、ふっと無邪気な表情を見せるところがあって、本当にいい加減で悪い人とは思えなくて。」
「君くらいさ。辛抱強くつき合ってくれたのは。」
確かに乃理子は他の女の子と違った。まず、他にもつきあってる子の存在がわかると離れていかれる方が普通だったし、泣かれたり怒られたり、騒がれたりで・・・大変で。
ま、自分が悪いんだけど。だけど、乃理子は知っていてもそ知らぬふりを通した。一度もそのことで不平や不満を言った事もなかったし、俺と会っている時に愚痴をこぼしたりする事もなかった。
乃理子に今まで表面上の良いところしか見せていなかった。こんなに長い間一緒にいて本当の姿を見せたことがあっただろうか。そんなんで夫婦なんていえたんだろうか。
そんなような事を彼女に言うと、
「どうしてかしら。私もあなたに心の中を聞いたことがなかったかもしれない。そうね、何となく明らかにしてしまうとふたりの関係がダメになるような気がして。何かに臆病になっていた。私も、自分の本当に思っている事、本当に願っている事を話さなかったわ。隠していたのは勇気がなかったのよ。それでふたりの関係がだめになることが恐かった。そして、絵梨香の良い両親でいることのほうに重きを置いて生活をしていたところがあったわ。確かに。」
彼女も気づいていた。どこかでひずみが出来ている事を。
お互いをオープンに出来ず、傷やコンプレックスを抱えたまま、一緒にいたことを。
「乃理子は気づいていた?」
「何を。」
「俺の弱いところを。」
「そう、そうね。だからきっといろんな事があっても、一緒にいたんだと思うわ。」
乃理子に話してみた。どうして複数の女の子と付き合ったり、いい加減なことをしていたのか。彼女も不思議に、そして、嫌だと思っていたことに違いない。
「それでも私は、複数の中の一人でもいいって割り切っていた。でも、きっと無理していた。自分が一番の存在になることなんてないんだって。」
彼女にそんなコンプレックスを植え付けたのは俺だ。
本当のことを話した。親父に暴力を受けていたこと、高校の時の事件。自分の中のコンプレックス、弱いところから逃げ出したかったこと。
彼女は驚いていた。だけど、すぐにいつものように穏やかな表情に戻って、一言こう言った。
「つらいわね。自分で自分を超えられないことって。」
彼女は俺の親子関係について口を出したことはなかったが、薄々はわかっていたみたいだった。それ以外のことは初めて聞いたことに違いない。そんな自分の過去の話をしたことなんてなかった。自分の弱いところ、かっこ悪いところ、そんなところは誰にも見せないように必死になって生きていた。
「俺はきっと、君にやすらぎとか、母親みたいな愛情を求めていたのかもしれない。」
「俺は君に甘えてばかりいた。甘え続けていた。君が我慢して、自分の感情を押し殺して、俺や絵梨香によくしてくれたことに対して、甘え続けていた。」
「だけど、私ではあなたを救うことが出来なかったんだと思うわ。」
隆博の事を言っているのだ。わかっている。
その思いにどんなに迷って、苦しんだか。自分で自分を嫌悪したか。乃理子と付き合いながら、その思いの板ばさみで窒息しそうな毎日を送っていたこと。正直に話した。もう何年も前のことだったけど、結局、自分で自分を越えれらなかったこと、自分で自分の感情に素直に従えなかったことがこの人を苦しめてしまった。




